21話 旦那様と香水①
「たぬきがフェアに勝負すると思う?」
「何でもありのルールで、俺と勝負したいか?」
旦那様の射るような視線に、ジョアンの顔からにやけ顔が消えた。
旦那様が出かけてしまい、食器を洗いながら、ジョアンの話に相槌を打つ。
頭の中で、昨夜のことをなぞってしまう。
ノエルって誰?
はっきり聞かなくても、旦那様とただならぬ関係だったと分かる。旦那様が名前で呼ぶ相手は私とウシュエさん、それにジョアンしかいない。
ベッドで抱き合うような関係の女性がいたことが気になって仕方ない。
どんな女性だろう? スタイルは? 声は? どんな声で、料理はしたのだろうか?
旦那様が、私を妻にしてくれないのは、ノエルさんがいるからなのかな?
もしかしたら、現在進行形かもしれず、そう気付くと、胸がさらに焼けるように痛んだ。
「ぽこ、お土産だ」
手を拭く私に、ジョアンが雪玉を一つ差し出してくれた。
「わぁ!」
雪玉は、ここらの子供のおやつだ。拳程度の大きさの球状の揚げ菓子で、表面に粉砂糖がかかっている。
無論、人間のおやつだから、私たちたぬきは、人の目を盗んで頂戴するしかない。
やんちゃな兄たちは、しょっちゅう人里へ降りて楽しみ、思い出したように私にお土産をくれる。私にとって雪玉は、滅多と食べられないご馳走だ。
「ぽこ好きだろ?」
ジョアンが満足そうに笑う。私の喉が鳴る。
「やるよ」
「いらない」
出している手をそっと押して遠ざけると、ジョアンの目に怒りの炎が見えた。
「なぁんで?」
イラだった声が怖い。
ジョアンは、背も高いし、細いのに筋肉質で、喧嘩早い。
自分で若手一番と名乗るだけの腕節があって、隣の里まで遠征して喧嘩して来ることもある。
沸点が低いジョアンに逆らうのは賢明じゃない。
――、でも、旦那様への気持ちが大事だから、断らなければ。
「それを受け取るってことは、ジョアンの気持ちを受け入れることと同じ」
精一杯の胆力でもって、ジョアンを真っ直ぐに見返す。
「あんなおっさんのどこがいいわけ? 第一、人間相手じゃ、子供だってできやしないだろ」
ジョアンは、左手で雪玉を握りつぶした。
さくさくの雪玉が崩れて、粉砂糖と一緒に床に落ちた。
情けない気持ちで、それを拾って、耕した土に持って行って埋める。
食べられなくて、ごめんね。
雪玉は、私にとって、兄たちが私のことを想ってくれる象徴みたいなもの。
下心さえなければ、喜んで食べたはずだ。
悔しくて涙がにじむのを我慢する。
ジョアンは、私を見て少し態度を和らげた。
「恩は何か違うことで返せよ。金はどうだ? 人間は皆、金が好きだろ」」
私が手に取ったクワをジョアンが奪い、本当に土を耕し始めてくれたから、私は、ショベルを出してきた。
「旦那様はね……。私を見てくれるの」
「はぁ⁉ わけわかんねぇ」
「私のことを想った上で行動してくれるってこと」
「俺だって、ドン・ドラドもお前の兄貴たちだってそうだろ?」
がちんっ!とクワに当たった石に、腹を立てながら、石を手探りで探し、畑の外に投げ捨てた。
「どこにでも連れて行ってくれるし、これをするなとか言わないし、さ」
「それは、お前のことがどうでもいいからだろ。俺たちは心配してるんだよ」
「どうでもいいじゃないよ。重すぎる荷物を手伝ってくれたり、背が届かなかったら……直してくれたし」
話していて気が付いた。ノエルさんは背が高い女性に違いない。
小さな私には届かない位置に生活道具の殆どが配置されていた。
私の手が届くようにしてくれたってことは、ノエルさんはもう過去の女性なんだろうか?
「俺だったら全部やってやる。ぽこに苦労はさせない」
「畑だって」と言いながら、ジョアンがクワを大きく振りかぶり、「いくらでも作ってやる」深くささったのを抜いて土を起こす。
「そこが嫌なの! やってみたいの!」
ジョアンは、鼻で笑った。
「流石ドン・ドラドの娘。お嬢様は苦労の方がいいってか? ぽこは世間知らずすぎる」
お前は苦労を知らない。世間知らずだ。幾度となくパパや兄たちに言われてきた。ママだけが私に意見を聞いてくれたけれど、もうママがいなくなって長い。
大所帯の奥を一人で取り仕切るのが、どういうことか、今ごろパパもお兄ちゃんたちもわかっただろう。
家の手入れをし、来客のために食事や酒を手配するのは、うちの男たちには当たり前で、苦労の内に入らない。何がママの身体を蝕んだのか、近くで見てきた私にはわかる。
これが一番嫌だった。
旦那様は、私に働きすぎだというけれど、実家に比べれば余裕がある。
休んで身体を労われと言ってくれることが、どれほど嬉しかったことか。
仮にジョアンが私のことを想ってくれているとしても、ジョアンと結婚すれば、元の生活に戻るだけだ。
私の表情が揺るがないのを見て、ジョアンは「相変わらず気が強いこって、まぁ、そこがいいんだけど」と呟いた。
「自由にさせてくれるつったって、俺に飯を出していいか、あいつにお伺い立ててただろ? 結局、ぽこは誰かに管理されてるってことだ」
「違うよ。食費は半分ずつ出し合ってるから、私一人で決めずに旦那様に相談したかっただけなの」
ジョアンが、首を傾げた。
「だけど、あいつは応じないわけだろう? お前に興味ないんじゃねぇ?」
ジョアンがクワを置いた。
予定していた場所の土起こしは終わった。この分だと、明日するつもりだった山の腐葉土を入れることも、畝を作ることも今日終わるだろう。
ジョアンには、これから作る家庭を守り抜くだけの実力がある。
対して、私には、経験値が圧倒的に足りない。
ジョアンから見れば、私は全く見込みのない恋をしてるってことなのかもしれない。
「あ~、疲れた。お茶入れてよ」
ね? と茶目っ気たっぷりにウィンクされれば、男らしい見た目に隙ができる。
色気のある仕草にくらくらするたぬきが多いのも納得だ。
部屋に入ったジョアンは、あちこちを物色し始めた。
「ほとんど何も置いてないな。つまんねーの」
ジョアンが漏らした感想と全く同じことを、私も最初は思った。
生活に必要な物しか置かれていない部屋は、殺風景だ。恩を返すために、こっそり入った部屋で、暗闇の中、暖炉の火もなしに、「かみさんがいりゃあな」と聞かなければ、妻になろうと思わなかったかもしれない。
「お! こりゃなんだ⁉」
ジョアンの大声で、思考が引き戻される。
私の頭上の位置にある棚から、小瓶を出してきて、蓋を開ける。
「香水?」
乾ききっていて、何の匂いもしないそれを、ジョアンが私に渡してくれた。
瓶のラベルには、『龍と黄金』の絵がある。
『龍が黄金の虜になるが如く、男性はあなたの虜に』と書かれている。
手が震えて、香水の瓶が私の手をすり抜ける。
ジョアンが、床すれすれでキャッチしてくれた。
やっぱり! 旦那様には女性がいるんだ!
「ほらな? 人間は人間同士ってわけだ」
ジョアンも、私と同じことを思ったらしい。
ジョアンが片腕で私を抱き寄せ、もう片方の手で香水の瓶を私に見せる。
「俺たちは、たぬき同士、何の障壁もない。なぁ、俺にはぽこだけだ」
香水の瓶には、油と埃が溜まっている。
きっと長い間放置されていたのだろう。
大丈夫。過去のことのはず。
身体に、昨夜の旦那様の温かさを思い出せば、頭に唇をうずめるようにして囁かれた名前を思い出してしまう。
首を振るう私を、ジョアンは両腕できつく抱きしめた。
旦那様は、私をふんわりと抱く。
きつく抱きしめて欲しいのは、旦那様なのに。
「俺なら絶対に悲しませない。俺にしとけよ。俺がとろっとろに甘くしてやる」
顎に手がかかり、茫然とする間に上を向かされる。
目の前にジョアンの顔が迫って、ようやく状況を把握した。
「やめて!」
突き飛ばしたら、簡単に放して貰えた。
怖くて震える。
男の人は、誰か違う人のことを想いながら、抱くことができるのだろうか?
旦那様はそんなことしないはずだ。
元々、私が約束を破って、寝ている旦那様に人間姿で抱きついたのがいけなかったんだ。
でも、――――。
妬ましいと胸を焦がすのは初めてで、苦しい。





