18話 ぽこの事情①
たぬき姿のぽこの全身の毛が、逆立った。
身体を二倍ほどに膨らました金色の毛玉が、獣の唸り声をあげて男の首元を狙って飛びかかる。
大きな煙が立って、たぬき二匹が家の前を走り回る。
毛の色で、追いかけているのがぽこなのは明白だ。
全速力で走るたぬきを見るのは初めてだが、大きな尻尾を舵のように使って走っている。
だが、どう見てもぽこは男に体のいいように遊ばれている。
わざと追いつかれては、のしかかられて喜ぶ姿を見るのは反吐が出そうだ。
「婚約者ねぇ」
思わず出た声に、ぽこはこっちを見て、全力で走ってきた。
途中で、小爆発の音がして人間型になる。
「旦那様! 婚約者というのはジョアンの嘘です!」
「いーや! 嘘じゃないね」
「嘘だよ!」
「ドン・ドラドが、若手で一番になった雄がぽこの夫だって言ってただろ」
「酒の席の話でしょ!」
「男に二言はないだろ」
「パパがジョアンを認めたわけじゃないわ!」
「それは時間の問題だろうな」
二人の話を聞いているのが馬鹿らしくなり、井戸で水を汲んで水瓶を満たす日課をこなし、最後に顔を洗って家に入った。
いつも曖昧に空いている扉は締めた。
すぐにぽことジョアンが続いて入ってくる。
喧噪から逃げたかったのに、うまくいかないものだ。
誰かを受け入れるというのは、こういうことなのだろう。
今度は戸口で掛け合いが始まる。
「ぽこがいなくなって、里は大騒ぎだ」
ぽこが言い返せずに黙ってしまった。
「ドン・ドラドに連れて帰るって約束したし、山にいるならまだしも、人間の男と暮らしているなんてな? 皆が知ったら何て言うだろうな?」
ぽこは家出たぬきだったということか。
俺の嫁になりたいなんて、どおりでおかしいと思ったさ。
どうしたわけか、ジョアンにムカついて仕方ない。
捻りつぶしてやりたい衝動を押さえる。
大きくため息をつけば、二人揃ってこっちを向いた。
「子供じゃあるまいし、ぎゃーぎゃー騒ぎ立てるな。ここは俺の家だ」
腕を組んで、威圧するように見下ろすと、ぽこがますます小さくなった。
「大人なら、話し合いをしろ」
「たぬきには無理かもしれんが」は、心の中に閉まっておく。
俺はいい大人で人間なのだから、理性ってもんで分別をつけにゃならない。
「ジョアン、許嫁と言うのなら、ぽこを納得させるだけの証拠を持ってこい。ぽこを襲うのはそれからだ」
「やっりぃ! ぽこのこと襲っていいってよ」
はしゃぐジョアンの顔を、掌全体でつかんで、指に力を込めて締めあげてやる。
「あだだだだっ」
大暴れして抵抗するが、それで離すような軟な鍛え方はしていない。
十分痛めつけてから、離してやると、床にうずくまって大人しくなった。
今度は、青ざめたぽこに向き合う。
「ぽこ、家出はいかんだろう。やましいことがないのなら、里に帰って説明すりゃあいいさ」
事を聞き分けられるように、優しい口調を心掛けた。
「嫌です! 里に帰れば、二度と出して貰えません!」
「どういうことだ?」
ぽこは、言葉を濁して、指を胸の前でくねらせる。
「ぽこの家は、男ばっかで過保護なのさ」
ダメージから立ち直ったジョアンが、額を撫でながら、ぽこが言えない事情を話し始めた。
「いつだって奥座敷にいて、外に出るときには兄さんたちが付いて回る。そうでもなきゃ、俺はもっと早くにぽこを迎えにいけたんだ」
眉を上げてぽこを見れば、困ったように口をパクパクさせた。
仕事について来ることを嫌がらないのか聞いたのは、そのせいか。
たぬきのお嬢様が自由を求めて家出したってわけだ。
俺はうるさいこと言わないから、ここは居心地が良かったのかもしれぬ。
ぽこが俺と居たい理由を知りたいと思っていたが、いざ知ってみれば、なんだか寂しい気がした。
寂しい?
飯、だろうな。
「それにしても、よくここがわかったな」
俺の言葉に、ジョアンは得意顔になった。
「ぽこの匂いは間違えねぇよ! 山で狼に襲われたときの匂いが強烈でさ」
ぽこが、真っ赤な顔でジョアンの名前を叫び、話を遮る。
「旦那様は、ぽこの命の恩人なの! 『受けた恩は必ず返す』これは、里の掟だよ。酒の席での戯言と、掟なら、掟の方を優先して当然よね」
肩で息をするぽこに、ジョアンが腕組みをして片目だけで見つめる。
「掟だから、仕方なく従うってことか?」
「違う。ぽこは旦那様のことが!」
赤面し、わざとらしく「鍋が!」と暖炉に向かうぽこを見て、なぜだか留飲が下がった気がした。
「はぁ~ん。おたくら、まだ番ってないわけだ? なら、俺にも割り込むチャンスはある。暫く厄介になるぜ」
両手を後頭部に当てて、挑戦的な視線で俺をやや下から見上げる。
「俺は、ぽこのこと本気だぜ。おっさん」
「自然界では、雌が相手を決めるんだろ」
何がおかしいのか、ジョアンは小さく笑った。
「いいじゃないの。生半可な気持ちなら、ぺしゃんこにしてやんぜ」
ジョアンは、鍋を混ぜるぽこの背後から抱きついて、飯を催促した。
あんな情熱は、もう俺にはない。