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「どうしたの?」
やさしい低い声が、リンの背を押した。ヴォルフが、たたずむリンを不思議そうに覗き込んだのだ。言葉はすでに、共通語になっていた。あれは、リンと二人きりのときだけなのかもしれない。リンの情けない顔がヴォルフを見つめたときだ。声に反応してネコ族の少年が、ふと面をあげた。ドアの傍らで立ち尽くすリンに気づき、大きく目を見開く。くしゃりと顔を歪ませた彼は、しかし表情をすぐに引き締めた。
「ほら、入ってもだいじょうぶだよ」
肩に乗せられた大きな手が、リンの背を後押しした。明るい小部屋にそっと入ると、足が震える。エドが、いる。目頭が、つんと熱くなってリンは一歩一歩進むたび、壊れそうな思いを押さえ込んだ。目の前にエドがいる! 涙でかすむ視界の向こうに、一緒に旅をしている友だちがいる!
――ぼくは一人じゃなかった。
だが、そんな感動とは裏腹に、トゲのある言葉が無常にもリンへと突き刺さる。
「ばっかじゃないの!?」
エドは耳をぴんと立て、しっぽや髪の毛を逆立てて、立ち上がる。乱暴に蹴立てたせいでいすが転がった。しかし、エドの気に止まりはしない。
「あれほど出ていくなって、危険だって言ったのに、なんでキミは勝手に降りて勝手に行方不明になったわけ!? どれだけ心配したと思ってるのさ! なに一人で泣きそうになってるの。泣きたいのはこっちだったんだからね」
ぎ、とねめつけられて、先ほどとは別の意味でリンの足は止まった。いきなり怒鳴られるとは思ってもいなかったのだ。しかし怒れるエドは、容赦などしてくれない。つかつかと大またで近づき、憤然となってリンを見下ろしてくる。ひんやりとしたエドの後ろには、目の錯覚か、ブリザードまで見えそうだ。
「おかげでぼくまで列車に乗り遅れてしまったんだけど? こっちがどんなに肝を冷やしたかわかってる? どうしてヒトの忠告無視するの。僕がどれだけびっくりしたか、欠片も考えなかったの? ――それで、どうなの」
縮こまって吹き荒れる嵐が通り過ぎるのを待っていたリンは、先ほどとは別の意味で泣きたくなっていた。え? とビクビクしながら尋ねると、エドが角を生やして怒鳴る。
「身体! 落ちたって聞いたよ。ケガしてないの?」
「あっ、えっと……」
エドの言うとおり全身打撲とすり傷だらけのリンは、とりあえず「ここと、ここと」と、傷口を見せた。片面がジェル状になっているシートが、あちこちに貼られてある。顔と、手と足と服をめくってお腹と、腰の辺りまで進んだら、次はリンが「あれ? こんなとこまである。あ、こっちにも」と自分の傷をしげしげ眺めだした。後ろで二人を眺めていたヴォルフが堪らず、くすくす笑い出す。エドが、顔を赤くしてまなじりを吊り上げた。
「そうじゃなくてね! 大きなケガしてないかって聞いたの! ああ、もう、いい。パッと見たところ何もおかしなとこはないしね。普通に立ってるし、歩いてるし、しゃべってるし」
う、と眉尻をさげるリンはそうならそうと言ってくれたらいいのに、なんて思う。エドは重たく息をついて、髪をかきあげた。
「それで、メガネはどうしたの? 鞄も見当たらないけれど」
逆光の中、憤っていたエドが、目で案じてくれるのがわかった。綺麗なグリーンと金が混ざった瞳が、本当に大丈夫なのか、と。身体の傷だけじゃなく、リンの心も大丈夫か、と。
何だかんだと文句を言いながら、こうして怒っているのはリンを心配してくれたからなのだ。リンは困ったように、少しだけ微笑んだ。
「メガネは、壊れ、ちゃっ……たっ」
不意に、リンの目から涙がぽろっと落ちた。「あ、あれ?」と言いながら笑った顔の目をこするリンだが、涙は次から次にあふれ出てくる。なんでもないって言いたかったのに、のどが震える。おかしいな、と思いながらも必死に口を開いた。
「かばんは……っ、落ちたときに、なくしちゃっ……っ」
それ以上は、声にならなかった。ぎゅっとまぶたを下ろしたのは、エドの叱責を予想して身をすくませたからじゃなかった。必死に堪えていたものが、徐々にもれ出てしまっているのだ。泣くな、と懸命に努力したけれど、身体の震えは止まらない。
(なんで? ヴォルフさんのときは平気だったのに)
どうして、エドの前でこんなふうになっちゃうんだろう。泣くな。必死にリンは目をつむって心の中で繰り返した。泣くな。泣くな、泣くな! そう思っているとエドがそっとリンの腕に触れた。
「ごめんね、ひとりにして」
独白のような台詞は、ぽつり、と転がった。それが引き金になって、リンの心は突然悲鳴を上げる。胸が苦しくて、くるしくて堪らない。リンは引き込まれるようにエドへ手を伸ばした。触れても、エドは消えない。本当に、エドはここにいる。ここに、いる! ――ぼくは、一人じゃない。
「言ったよね。クィダズまで、列車を降りるまでは一緒だって」
ゆっくりと面を上げたリンが見たのは、泣きそうなエドの微笑だった。やさしい言葉にうなずくことさえできず、エドの細い肩にリンは顔をうずめた。
「こわかったよね。よくがんばったね」
もう、泣いていいんだよ。
そう、言われた気がした。
堰を切ったように溢れ出した涙は、しばらく止まらなかった。
「ラッカ・セスナの具合はどうかな」
リンが泣き止んだ頃合を見計らったヴォルフは、もたれていた戸口から離れてエドに尋ねた。エドは、リンの背中をさすっていた姿勢から心持ち首を伸ばして透明な器を覗き込む。
「一度もあれから目覚めていません。ずっと見ていましたけど……」
そう、と返すヴォルフの声も覇気のないもので、リンが目でエドに疑問をぶつけた。エドはリンに、立てる? と言ったあと、硝子ケースを指差す。覗いてごらん、というのだ。
リンはそっとケースの内部を覗いて息を呑んだ。このヒトは!
顔立ちの整った少年だった。真っ白いミルクのような肌と、羽毛のようなふわふわの短い髪。うつぶせになって横たわる彼の背中には、折りたたまれた翼があった。肌や髪、翼と同じ白い服。リンよりもエドよりも高い身長なのに、二人よりも華奢な体つき。真っ白な彼がまぶたを上げれば、あの赤い瞳が見えることを、リンは知っていた。
無言の悲鳴に、リンの表情が固くなる。記憶が再生された。人間がいる、と驚かれ遠巻きに囲まれたのだった。訳のわからない悪意をぶつけられ、逃げ出したところに現れた女の子。何しにきたの! という悲鳴にも似た問いかけ。その、傍らに現れた少年。
思わず身体が後ずさったリンを、後ろから抱きとめたヒトがいた。エドだ。エドはリンの肩をつかんで、だいじょうぶだよ、と言う。
「ラッカはね、地上都市への道を案内してくれたんだ。彼はキミを攻撃したりしないから、責めないからっ」
エドの言葉があっても信じられなかった。こくん、と上下するのど。逃げようとする身体。彼が目覚めたらどうなるのだろう。また、あの高さから落とされるのだろうか!
「だいじょうぶだから、ね? 彼はなにもしない、敵じゃない。いいヒトなんだ! ここまで無理を承知で案内してくれたんだ。彼を知らないで否定するのは止めて。話をしてなんて言わない、でもトリビトだってだけで拒絶しないで」
怯えるリンの身体を押さえるエドの声に、懇願の響きがあった。リンは、首をひねってネコ族の友人を顧みる。エドは、辛そうに瞳を揺らめかせていた。
「そうやって否定してばかりいたら、きっとこの先は、進めないから……」
……本気で、言っているんだとわかった。逃げようとしていた力を総動員して、ケースをもう一度リンは見る。首をゆっくり動かして、息を詰めて、その中にいる、トリビトを。
思い出してみればこのヒトは、わめく妹を押さえてくれていた。出て行けと言ったけど、厳しい声だったけど、感情をむき出して怒鳴ってくることもなかった。見ようによっては、リンを助けようとしてくれたふうにも取れた。
そして、エド。エドはずっとこのケースを見ていた。この少年を心配していたのだ。いつもぱりっとした服装で、汚れなんか許せない、というようなエドの格好は、薄汚れていた。――それは、どうして?
(ぼくが、列車に戻らなかったから)
エドの忠告を無視し、トリビトといざこざを起こして地上都市に落とされたからだ。エドがこんなに必死なのは全部自分のせいなのだ、とわかっていた。ラッカという名前の翼持つ少年も、リンを探すために協力してこうなったのだ。
(ぼくが、わがままを言ったから……!)
リンは無言でこくん、とあごを引くとエドを振り切ろうとする力を抜いた。エドがほっとしたのを感じる。わだかまりは残しつつも、ケースへと今度は恐る恐る手をついて覗いた。改めて間近で見たトリビトは、人形のようで近寄りがたい雰囲気をしている。歳はリンと変わらないぐらいだが、目を瞑っていると大人びて見えた。
これが本物の、トリビト。
本物の。
エイダはね、本物のトリビトじゃないの。
だから捨てられたの。
不意に時間を越えて耳朶に触れたのは、幼い妹のことばだった。リンは唇を結ぶ。エイダと彼らとの違いは、その翼だけなのに――
片方だけの、それも小さな彼女の翼では、空を飛ぶことができなかった。空を飛ぶ鳥を見つけるたび、切なそうな眼差しを向ける妹。エイダも、空が飛べたらいいのに。そんな呟きを耳にするたび、リンは「空が飛べなくても、ぼくといっしょだよ」となぐさめてきた。
エイダの全開の笑顔なんて、リンは何度見ただろう。いつも無表情に近くて、泣くときもぽろぽろとただ涙を落とすのがエイダだった。大声をあげたりしない子だった。いつもリンの傍にいたがって、リンの後を追いかけてきた。翼が片方しかなくてバランスの取れないあの子は、すぐこけてケガばかりだ。だからリンは時間のある限りそばにいた。学校があったりなかったりしたのは、よかったのかもしれない。エイダは学校へ行けるほど大きくなかったから、その分一緒にいられたのだ。
あのラスの街の中にいても、エイダは異質な存在だった。表立っての差別や非難こそなかったが、少女が避けられているのは幼いリンにだってわかった。大人たちの態度に敏感な子どもは、エイダへ簡単に憎しみを募らせた。きっとあれは、ラスの街にいる人たちの本音だ。
『トリビトのくせに、なんでここにいんだよ。仲間んとこ帰れ! この化物! ――ああ、ちがった、お前トリビトじゃないんだったっけ。空も飛べない出来損ないなんか、だれもいらねぇよなぁ!』
あの誹謗を耳にして以来、リンたち兄弟は街外れの工場さえエイダを連れて行くのはやめた。あの言葉はエイダの不安を的確に射抜いてしまっていたのだ。反論さえできず、幼い妹は逃げ出すことしかできなかった。その後、ニコラの復讐がひそやかに行われたが、エイダは目に見えて口数が少なくなってしまった。
その異常に、最初に気がついたのは、テッサだった。絹を裂いたような悲鳴が聞こえ、リンとニコラは家に飛び込んだのだ。そして、立ちすくんだ。窓から入る夕日が、小柄な影を引き伸ばしていた。緋色に染められた部屋の中で、逆光を背に少女は白と赤をまいていた。ぽた、ぽた、と滴る赤は少女の翼から。真っ赤に染まった小さな手に握られたのは、大きなフォーク。足元に散った大小の羽。はらはらと視界を惑わすのは、小さな羽毛。
エイダは、自分で翼から羽を引き抜いていたのだ。呆然となったニコラの肩を揺さぶるのは、テッサだった。アニエスを、アニエスを呼んできて! 店にいるから、早く! 悲鳴のような指示でニコラが出て行った間も、リンはその場所から動けなかった。見開いた目が釘付けになって、エイダを見つめていた。
「エイダ……?」
そう呟いたのに、声にならなかったのをリンは覚えている。一歩、踏み出そうとしたのに足が動かなかったことも。エイダから伸びた赤い筋がつ、とリンのほうへと流れて足に当たった。ぬらりとした感触。頭のどこかで「エイダを助けないと」と警報が鳴っているのに、身体がすくんで動けない。そのリンを、うろのような赤い目が射抜いた。悲しみをたたえたエイダの瞳――
ぐい、と手を引っ張られ、リンの視線は何かに遮られた。夕日を背に立つ妹の姿が見えなくなって、リンは我を取り戻す。何か、強いものに意識を絡め取られていたような気がした。かちかちかち、と歯の根が鳴っていた。ふー、ふー、と呼吸をしてみて初めて、テッサに抱きしめられていると気づいた。恐慌状態から立ち直った姉は、身体を硬直させている弟に気づき、抱き寄せたのだ。
涙があふれていたのは、エイダじゃなかった。