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ヴォルフはリンの手を取って、子指の爪ほどの大きさだとささやく。
「こんな小さなものだけど、立派なコンピューターなんだ。脳へ組み込むとコンピューターネットワークと意識的に接続できるようになる。世界のすべてと繋がれるんだ。便利で優秀だけど、危険極まりないシステムだね。今は宇宙規模で禁止されているけど、脳へダメージがあるものには補助として限定的な使用が許可されているんだ。そうじゃないと、彼らは個としての意思さえ表明できなくなってしまう。苦肉の策、というわけだね」
はてな、と頭を傾けるリンは、ヴォルフの言っていることがわからない。くす、と彼は微苦笑した。知らなくても当然だねぇ、と言外に言われたのがわかる。でもそれはリンをバカにして、というわけじゃない。これから知っていけばいいよ、と言ってくれているのだ。
「僕は、それの管理者なんだ。媒体者、とも呼べるかもしれない。彼らとは違う異質なものだから、こうして言葉を使わないと忘れてしまいそうで不安になる。……怖いんだね。情けない話だけど」
ヴォルフが苦笑する。リンはビスケットを食べる手を止めた。怖い、と口にしたヴォルフの微妙な変化を感じたせいだ。それまでの彼との違いがわかった訳ではないが、この人は一人ぼっちなのかもしれない、とふと思い至った。だから親切にしてくれているのだ、と。
ヴォルフが「もうお腹いっぱいかな」とお茶をついでくれた。その手にそっとリンは触れる。
「……さみしい、ですか」
知らず、口をついてそんな言葉が飛び出していた。
「ヴォルフさんは、さみしいの」
ヴォルフの眉が持ち上がり、やがて控えめな微笑へ変わる。
「どうかな。マーサのような子もいるし……管理者としては充分めぐまれた環境にいると思うよ」
肯定とも否定ともつかない言葉だった。余計なことを言ったのだ、と悟ってリンはパッと手を離す。子どもが口を挟んでも良い問題ではなかったのかもしれない。後悔するリンの手に、ヴォルフはカップを乗せた。
「でも、こうしてリンくんとお話できるのは、うれしい」
ヴォルフは少しはにかんで笑ってくれた。――悪い人じゃない。出会って間もないが、リンは疑うことをやめようと思った。この人は、そんな人じゃない。信じられる。
そう安堵したとき、ヴォルフが顔をしかめて立ち上がった。彼から微笑みが消えただけだなのに、部屋の温度が急激に下がった錯覚があった。あたたかいと感じていた部屋の内装まで、ひんやりして思える。
ヴォルフは虚空を見つめ「まさか」と呟いた。信じられない、と眉根を寄せている。そこからヴォルフは機械のように微動だにしない。無表情になってしまった。どうしたんだろう。彼の急な変貌にリンは戸惑いを隠せない。
「……ヴォルフ、さん?」
ゆっくりとヴォルフの手をつかんだ。初めて彼はびく、と露骨な驚きを見せた。息をつめ、目を見開いてリンを見下ろしてくる。それがやがて、微笑へと変化した。
「ああ、すまない。驚かせてしまったね」
驚かせたのはリンのほうだが、彼はやさしく言った。
「ちょっと急な用事が入ってしまったようだ。お茶に誘ったのはこちらなのに、管理者として行かなければならないみたいだ。またゆっくり話ができればいいのだけど。少しここで――」
言いかけたヴォルフは、ああ、そうか、と小さくうなずいた。謎々を解いた子どものように満足そうだ。「白種が一人で降りてくるはずはないから……」とぶつぶつ口の中で呟いている。「リンくんがここにいるからか」と笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
しかし、すぐさま微笑は冷静なそれへと切り替わる。
「だけど、危険だ。あれ以上留まらないよう、注意しないと。でも機器に命じても聞いてくれるかわからないし……かと言って僕が出て行くのも難しい……。黒種たちはああだからなぁ」
一人ごちて、ヴォルフは少年と目線を合わせるようにひざを折った。胸騒ぎのするリンが困惑しているのを、彼は察したのだろう。申し訳なさそうに、言ってくれた。
「少しだけ、ここで待っていてくれるかな? 必ず迎えに来る。そのときはいい知らせを持ってこれると思うよ。……ひとりでも、平気かい?」
心がざわついていた。しかし二つ返事でリンは了解を伝える。そうだ、彼にも仕事がある。一人になるのが怖いだなんて、言ってはいけない。リンは、ケガをしていたから家まで連れてきてもらえたのだ。これ以上、甘えてはいけないし、邪魔をしてもいけない。
ヴォルフはアニエスやローラおばあちゃんとは違う。少年が気軽に甘えていい人ではなかった。また、リンもそうやってアニエスたちに甘えたことが、ほとんどなかった。だいじょうぶ? と訊かれるたびに、うん、と返事をしてきたリンだ。これも、同じだ。
(怖くなんか……ない)
ここに白い翼のヒトたちはいない。平気かい、と訊いてくれたヴォルフの気持ちだけで、充分うれしかったから。
「それじゃあ、あとで」
ヴォルフを見送ったリンは、ソファの上で膝を抱え込んだ。ぽつねんと残っていると、悲しさや寂しさがどんどん湧き上がってくる。ぎゅ、と膝小僧に爪を立てて、リンは顔をうずめた。
人間だ……
人間が出たぞ。人間が!
胸が苦しくなる。ずきん、ずきん、と痛い。リンは全身打撲と擦り傷だらけだった。この程度ですんだのは幸運だったと言われた。命を落とす可能性もあったのだ。リンは、殺されかけた恐怖を堪えた。憎しみや殺意を向けられたのは、初めてだったのだ。
こうしちゃえばいいのよ、人間なんか!
そう言ってリンを突き落とした少女は、妹と年頃が似ていた。リンがどうなろうと構わない、と暴挙に出たのに、傷ついた目をしていたのが悲しかった。落ちる瞬間に見た彼女は、目に涙を浮かべていた。こんなことをする自分を許せない、と葛藤していた。人間が、あの女の子にああまでさせた何かをしたのだ。
あの女の子とよく似た台詞を、故郷でリンは聞いたことがある。
化け物のくせに。飛べないトリビトのくせに!
このとき、負の感情をぶつけられたのは、トリビトのエイダだった。ラスの街は人間の街だ。人間と似ていても人間じゃないエイダは、敬遠されていた。時には差別の標的にもされた。
涙でぐしゃぐしゃになって、妹はリンにしがみついていた。肩を震わせて、化物なんて言われたのに反論もできずに。
ぎゅうっとリンは身体を丸めて小さくなる。あの時はわからなかったエイダの気持ちが、今ならよくわかった。これほど、怖いものだったのだ。
リン。リン、待って。待って。そう呼んで後ろを付いてきたあの子と、あのヒトたちは、同じものだ。白い身体、白い髪、白い翼。ミルクのようだ、雪のようだと、家族みんなから愛されて、傷ついていたエイダ。身体も、心も、あの子はボロボロだった。
エイダも、同じようにリンたち人間を憎いと思ったことが、あっただろうか。殺してやりたいと、殺意を抱いたことが。
「エイダ……」
ぽつりとこぼれた声は、静まり返った部屋に響いた。
待たせてごめんね。そう言ってヴォルフが戻ってきたのは、どれぐらい時間が経ってからなのか。もしかしたら一時間。もしかしたら二時間以上……。あのソファに転がって待っていたリンはいつしか眠ってしまっていて、時間の経過がわからなくなっていた。ふかふかのクッションはやさしくリンの身体を沈めてくれたから。
短い中で見た夢は、直前に思い返していた妹のエイダをふくめ、家族が出てきていた。にーっと笑った兄、「こらあ!」と怒っている姉、飴玉を口にふくんで嬉しそうなエイダ。そして困ったように笑っているリン。中でもニコラがリンを盾にテッサから逃げ回っているのは、とても懐かしかった。
ニコラは取ってきた飴玉を、リンとエイダに分け与えたのだ。もちろん自分の分も確保しながら。もらっちゃってどうしようと困るリンと、それは今日の分じゃないでしょ、と怒り半分で追いかけまわすテッサ。にこにこしているエイダ。いつもの日常。――いつまでもあの場所にいられると、思っていたのに。
悲しくて幸せな夢は、そっと肩をゆする大きな手によって遮られたのだ。夢から目覚めたとき、リンは悲しかった。もっと、家族と会っていたかった。待たされたことより、夢が溶けてしまったことのほうがショックで。
「黒種の夢にとらわれちゃダメだよ。彼らはなくした記憶を探して夢を見るからね。夢を渡り歩いて、自分を探そうとするんだ」
ぼんやりしたままのリンが疑問に思っていると考えたのか、彼はさらに言う。
「黒種たちは、自分を見失ってしまったヒトビトだ。この暗い街にいても光を求めている。……元の場所へ帰りたいんだろうね。きっとリンくんの感情に惹かれたんだろう。きみの記憶があたたかいから」
彼らはその記憶にすがりつきたいんだ。かつての自分がそうであって欲しいと願っているのだろうね。そう話してくれるヴォルフは、寂しさに陰った笑みを浮かべていた。幸せな記憶に、黒種たちは干渉するのだ、と。
「ぼくが夢を見たのは、彼らのせい……」
そういえば、落とされて気がついたときも、アニエスの夢を見た……気がした。ああ、そうだ。アニエスに起こされる夢を見たのだ。だから、ラスの街にいるのだと寝ぼけてしまって。
見たいな、と思ってもなかなか見られない家族の夢。あたたかい、なつかしい記憶。あれはマーサのような黒いトリビトの能力のせいだったのか。
(それでもよかった)
夢の中でもいいから、会いたい。もっと、あいたい……。
声を、きかせて。名前を呼んで。
夢でもいいから……。
「ダメだよ」
強い意志のこもった声が、リンをうつつへと引きずり戻した。焦点を結んだリンをひたりと見つめるのは、少年とよく似た色の瞳。
「リンくんは旅人だ。ここからいずれ旅立ってしまうんだから、黒い霧に当てられちゃいけない。心を強く持って。ここはリンくんのいるべき場所じゃない。引きずられちゃ、出られなくなるよ」
いいね、と厳しく念を押され、リンは動揺しながらもあごを引いた。ソファから降りる少年に手を貸した男は、それじゃあ行こうか、と言う。
「ごめんね、とりあえず離れられそうだったから急いで降りてきたんだ。でも、すぐ戻らないと。起きぬけで悪いけれど」
ヴォルフからは、別れたときの険しさがなくなっていて少なからずリンをホッとさせた。だが急ぎの仕事は終わってないと告げられて、不安になる。合間を縫って迎えに来てくれたのだろう。しかしそこへ連れて行かれても、リンに何をさせるのか。どこにですか、と尋ねると「上へ」と彼は人差し指を立てた。その回答にリンの顔が強ばる。
「と言っても白の街じゃないよ。まだトリビトたちのパニックはおさまっていないんだ。むしろ、悪化させちゃったからねそんな場所へ案内はしない」
悪化させた、と言う部分でヴォルフは苦笑する。
じゃあどこへ、と訝ったリンの頭を彼はなでた。
「きみを待っているヒトがいるんだ」
どくん、と心臓がはねた。リンが期待のこもった顔をヴォルフに向ける。待ち人は、だれ。その答えを半ば予期しながら。
「言ったはずだよ。いい知らせを持って帰ってこれるから、と」
ヴォルフはリンの肩を叩いた。行こう、と言って。
その部屋の扉が開いたとき、リンは大きなカプセルに寄り添う少年を見て、息を呑んだ。
明るいライトの照らす小部屋で、彼は透明な箱の中にある何かを見つめている。貴族然とした白のフリルがついたブラウスにリボン、灰色に青が混ざったズボン、茶色のブーツ。ベージュのコートはいすの背にかけられてある。あの王子様みたいなスタイルが似合う少年だ。だぶだぶの借りたシャツをかぶっているだけのリンとは、全然違う格好の。
だが、いつもの彼らしくなく、皺や汚れが少し目立っていた。埃にまみれたのを叩き落としただけ、というような姿だ。それさえ気にかけていられない、とでも言うのか。額に見受けられるケガの具合も気になった。いったい彼になにがあったのだろう?
まだ、彼はリンに気づいていない。いつもならひょこ、と動く少年の耳はぺたんこで、ふさふさのゆれるしっぽが今は床を掃いているのみだ。ヒト一人がすっぽり納まりそうなカプセルに何があると言うのか、片手をついて覗き込んでいる。元気がないのだ、とリンにはすぐにわかった。あの緑にゴールドがかった不思議な目こそ、見えないけれど。
「エド」
声にならず、唇だけがうごいた。身体の奥底が熱くなってくる。どうして、ここにいるの。列車はもう行ってしまったのに、どうしているの。頭の片隅でそんなことを考えながら、リンは指先一つ動かせなくなっていた。一歩でも動いたら、エドの名前を呼んだら、少年が幻のように消えてしまうんじゃないかと。