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一瞬浮かんだ自分の末期にぶんぶんとかぶりを振った。そんなのはダメだ。
リンは、行かなければならない。それがあの人たちとの契約である。アニエスの元に戻るならなおさらだ。こんなところで、死んでしまうなんて嫌過ぎる。
(あ、お金ならちょっとだけある。それでアニエスにどうしたらいいのって聞けば……)
旅に出るとき、一箇所にまとめてお金を持ち歩いてはいけない、とアニエスに口をすっぱくして言われた。そのおかげで、リンはまだいくらか持っている。靴の中に少し、ズボンのポケットの中に少し。それを使えばアニエスへ手紙が出せるはずだ。どうすればいいのか、きっと教えてくれる。ほのかに立ち直りかけたリンの顔が、すぐさま掻き消えた。今まで出した手紙さえ、届いたかどうかわからないのだ。アニエスからの返事が届くのは、いつになる? 一月後? 二月後?
(それまで、どうしたらいいんだろう)
(電話を……かけたら、いいんだろうけど)
残り少ないお金を使うのは、こわかった。アニエスに電話をかけるとなると、どれだけ料金がかかるのだろう。リンの故郷であるラスの街は、電子機器に疎い。『こちらの世界』ならあって当たり前の技術も、ない。気軽に通信もできないのだ。
仮に連絡が取れた場合を想像し、リンは暗澹とした気持ちになった。アニエスは、リンの無事を喜んでくれるだろう。八方に手を尽くして、どうにかしてくれるはずだ。しかし、どれだけ家族に迷惑がかかるか。列車のチケット一つ購うのを断念した家族だ。こんな遠いところまで、迎えに来てもらうなんて無理がある。
紛失した乗車券をリンの分だけ再発行してもらう場合も同様だ。少なくない金額が、家族の負担になってしまう。警告を無視して身勝手に列車を降りたリンのために。
そして乗車券の再発行ができた場合も、一月以上リンはこの街に足止めを食うのだ。どんなに早くても、次の列車は一月後なのだから。その間、リンはどう過ごせばいいのかわからない。文無しのリンが、こんな不気味な街に一人きりで。
途方もない気がした。
自分自身へ失望して、リンはうつむいた。なんて、かっこ悪いのだろう。
(じゃあ……エドに)
エドと連絡がついたら、ぷんぷん彼は怒るだろうけど適切なアドバイスをくれるだろう。しかし、どうやったら連絡が取れるのか、わからない。
(車掌さん……星間列車……)
いろんなヒトの顔が浮かんでは消えた。連絡手段がわからないためだ。
もう、どうしたらいいの!
だれかに「こうだよ」と道を示してもらえたら、どれだけ楽だろう。自分で決めて、自分で選ぶことは、こんなにも大変だっただろうか。何をするにしても考えが足りない気がした。ひとりぼっちが怖いと初めて知った。星間列車から降りなければよかった。トリビトに会いたいだなんて思わなければ。あんなにも、列車が連れて行ってくれるから、と言われていたのに……。
(いつもだれかの後ばかり、ついていたから)
旅に出る前はアニエスがいて、ローラおばあちゃんがいて、テッサ(姉)とニコラ(兄)がいた。列車に乗ってからは、列車が道を示してくれた。エンジャーグル以降は、エドがそばにいた。あらかじめ用意されていた道を、自分から踏み外したのだ。その代償がこれである。
ずしりと、リンに重く圧し掛かる。
突然、男の人が「ここだよ」と立ち止まった。リンはさらに肩を引き止められて気づいた。どこをどうやって歩いてきたのか、すっかり記憶が抜けている。きょろ、と辺りへ目を向けると先ほどと全然違うようで、同じように見えた。ただ、さっきは右側にあった大きな木――天井都市を支える支柱――が視界のまん前にそびえ立っている。上部は支柱で埋め尽くされていた。どれぐらい歩いたのだろう。息が上がっている。
「歩かせてゴメンね。何度かおぶろうと言ったけど考え込んでいたようで」
「えっ、あ……、すいません」
「ああ、いや、傷が酷くない証拠だから構わないんだ。でも手当てはしておかないと。その布がきみを守っているとはいえ、ここの空気は刺激的だしね」
リンをすっぽり包む布は、フードのついたマントのようだった。小さなリンには大きくて、本来なら大人が着るものなのだろう。これはトリビトに見つからないためだと思っていた。そういえば、あの白いトリビトたちがいない……。ずっと黙考していたが、さすがに白い翼を見たら気付いたはずだ。これだけ真っ黒なのだから。
(ここは黒の街なんだ。だから、黒い翼の人しかいない)
それなら――この人はだれ。
ふわふわと実体のない人形みたいに進んでいたリンの目に、わずかな正気が戻った。リンの手を引いて歩く、この男の人はだれ。トリビトではない。この人は人間だ。どうして、こんなところにいるのだろう。トリビトたちは、人間を嫌っているのではないのか。
狼狽してリンが男の人を仰ぐ。微笑する彼が無言で壁に手をかざすと、出入り口のなかった建物にぽっかり穴が開いた。大人一人なら充分に通れる程度の大きさの穴だ。びっくりしたリンは、目覚めたときにいた部屋の壁も、唐突になくなってしまったことを思い出した。そのせいで背中から転がり出て、頭を打ったのだ。思い出して頭に触れたリンの腕は、すり傷だらけだった。服も血がついて、びりびりに裂けて、どろんこだ。
「さあ、どうぞ」
ろくに考えず、こんなところまでいざなわれてしまった。なかなか進もうとしないリンを、男が覗き込んでくる。どうかした? と心配そうに。
見ず知らずの汚い子どもでも、だいじょうぶだから、とこの人は抱きかかえてくれた。ケガだらけのリンの手を引いて、ここまで連れてきてくれた。今さら疑ってかかるのは、おかしいだろうか。
警戒交じりに一歩踏み込むと、背後の壁が元通り埋まり、パッと明かりがともった。リンは不安そうに照らされる室内を見渡してみる。キッチンとリビングと寝室が合体したような広い部屋だった。一番奥に、簡素なベッドが置いてあった。観葉植物の緑がいくつもみえる。入って右手にキッチンだ。左側と中央を陣取っているのは立派なソファーと、テーブル。それらを仕切るように、太い柱がある。壁にはフォトフレームや絵がいくつも飾られてあった。
男はリンをまずバスルームへ案内した。何もなさそうな壁に手をかざすと、案の定ぱっくりと口が開いて、浴槽とシャワーがあった。洗濯機(と思われるもの)もある。そこへリンだけを放り込んだりせず、服を脱がせるのや、身体を洗うのを男は手伝ってくれた。(おかげで、訳のわからないシステムに翻弄される危惧は去った)
やさしい手つきでリンの頭を洗う彼は、人の世話を焼くのが楽しいみたいだ。上着を脱いで腕まくりし、ズボンもまくりあげ、傷口に注意してリンを泡だらけにするのだ。そしてふかふかのタオルで身体をふくと、髪を乾かして、くしで梳かしてくれる。テキパキと傷の手当ても終えてしまった。
「坊やはもしかして、ウィルの――……いや、何でもないよ。きっと僕の考えすぎだ」
言いかけたことをやめ、にっこりと男は微笑んだ。
「大きいけどこの服を着てくれるかな。子ども服を探すのは時間がかかりそうなんだ。このぼろぼろの服は……洗濯して汚れが落ちればいいけど」
それから男の人は、お茶の用意をするね、と行ってしまった。大きなTシャツを着せられたリンは、言われるままにぼんやりと座る。ところが、ソファが十センチほども沈み仰天した。自然と背もたれに身体が倒れ、リンは慌てて起き上がろうともがく。けれど足がつかない。起き上がるために手をつくとそこも埋もれてしまう。
(な、なにこのソファ!)
プチパニックだ。星間列車のシートもふかふかだけど、起き上がれないことはない。
「いいよ、くつろいでほしいためのソファなんだ」
ソファに悪戦苦闘しているリンを見て、彼がくすりと笑った。ぷん、とお茶とお菓子のいい匂いがただよってくる。リンへ渡すべきカップをテーブルに置いて、男の人は向かいのいすに座った。こちらを面白そうに眺める彼が、悪い人には見えない。
「探してみたんだけど、こういうものしかなくて」
どうぞ、と勧められたのはビスケットだった。果たして食べてもだいじょうぶかどうか――男をちらりと見ると、ニコニコしていた。出会ったときからそうだが、なぜかこの人はリンを歓迎してくれている。
それに裏がないか、と探ってしまう自分が恥ずかしい。でも、ここは星間列車ではない。食べ物が安全かどうかもわからない。知らない人から物をもらっちゃいけない、とアニエスにしつけられてきたリンだ。ためらいと、戸惑いの入り混じった顔でリンがビスケットを見つめていた。
するとひょい、とつまんで男の人が口の中に放り込んでしまった。あ、とリンが目を丸くする中で彼はふふ、と笑う。釣られるようにリンもえい、とばかり一口ビスケットをかじってみた。すると口の中で甘みが広がっていく。懐かしい、と思う味だった。アニエスの焼き菓子に、よく似ている!
もう一つ欲しい、と思う間もなく手は伸びていた。どんどん口へと運んでしまう。もう止まらなかった。ビスケットと一緒に、この人のやさしさが、沁みこんでくる。
あらかた口におさめて、リンはハッとわれに返った。気まずげにそうっと男を窺い、ドキッとした。彼は、本当に嬉しそうにリンのことを見ていたのだ。リンが困惑したのを察したのか、笑いながら姿勢をかえて、
「すまないね、お茶に付き合わせてしまって。外からの人は久しぶりで、つい……うれしくなってしまったんだ。そんなに美味しそうに食べてもらえるとも思ってなくて」
かかか、とリンの頬が熱くなる。そうだ。初対面の人の家で、無遠慮に食べ散らかしてしまった。リンが慌てて居住まいを正すと、男の人はくすくす笑う。気にしなくていいよ、と。
「それより身体の調子はどうかな? 眩暈がするとか、吐き気や息切れはない? ケガは大したものじゃないし、骨折や異常は見当たらなかったけど、おかしいな、とか変だな、と思ったらちゃんと教えてくれるかい?」
男の声色は落ち着いてやわらかい。ゆっくりとしたしゃべり方が耳に心地よくて、気持ちが、緩やかに元の状態へ戻っていく。すさんで、へこんで、もうダメだと思った。だけど、
(元気がわいてくる)
だいじょうぶだよ、と繰り返し言ってくれたように、だいじょうぶなのかな、と気持ちが持ち上がる。自然と、リンにも笑顔が戻ってくる。
「だいじょうぶ、みたいです」
「よかった。ところで小さなお客さん、失礼じゃなければお名前を聞いてもいいだろうか」
「ぼく、リンです。リン・ユイです」
するりと名前は出てきた。彼は破顔して、
「僕は、ヴォルフガング。ヴォルフと呼んでくれるかな。あっ、まだあるよ、食べるかな」
いそいそとお茶とビスケットのおかわりを用意しようとヴォルフが立ち上がる。
「あの、ありがとうございます、ヴォルフさん」
すると、彼は頬を持ち上げてふり返った。
「人に名前を呼んでもらえるのってうれしいね。リンくんはお客さんだから、ゆっくりしていて」
そうなのかな、とリンはビスケットを頬張る。
「あっ、荷物のほうは探してもらっているから気にしないで。見かけたら教えてくれるから。さっきの……名前をマーサと言うのだけど、彼女も君を見つけた付近をもう一度見てくる、と言っていたから」
ぴょこん、とソファを降りようとしてやっぱりもつれるリンが、慌てて言った。
「あの、ぼくも、探しに」
言うと思った、なんて言葉が聞こえそうな笑い声が響いた。
「すぐ戻ってくるよ。人の所有物を悪用する者はいないから。その代わり……少しの間でいいから、話し相手になってもらえないかな。あの子たちは、しゃべってくれないから……」
「あ、はい。……えっ? でも今、マーサさんが鞄を探すって言ってたって……え? あれ?」
リンは思わず口を手で覆うと、狼狽してヴォルフをあおいだ。
「あれ? え? え? ぼく、この言葉って!」
リンはようやく、自分が母国語をしゃべっている事実に気付いたのだ。そうだ。ヴォルフは、最初からリンの国の言葉をしゃべっていた。エンジャーグル以降、さっぱり耳にすることがなくなっていた言葉だ。同じ人族でも、アベルは共通語で話していたことを思い出す。目を丸くしたリンを笑いながらヴォルフが、
「気がついてなかったのかな? そう、これは僕らの言葉だよ」
ついと細められたヴォルフの目が、懐かしい、と語っていた。
「だからね、もうちょっと話をしていたいなぁと思ったんだ。マーサたちはね、言葉を使わなくても意思の疎通……ええっと会話ができるんだ。思ってることを相手に伝えることができる。だから声に出す必要がないわけだ。彼らは障害を抱えている。そのハンデを補うために、ICを組み込まれるんだ」
「IC?」
「小さな電子チップだよ」