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聞きたくない言葉を聞いた気がした。でもリンの目はゆっくりと動く薄い唇を見つめてしまう。
「坊やはあの列車に乗ってきたんだね。……どうして、降りてしまったんだ。ここが危険だと、教わらなかったのかい」
リンは数秒固まり、「うそ!」と叫ぶと首を左右に振る。うそ、うそだ、と狼狽しながらも、列車はないだろうか、と目があちこちを探すのだ。そうだ、外に出なくちゃ。
「わ、どこへ」
身体があちこち痛い。それでもリンは一目散に部屋を飛び出した。出てすぐの場所は通路だ。室内と同じくのっぺりした印象を抱いた。どこかおもちゃみたいな空間だ。窓一つ、扉一つ見当たらない。生活する空間だとは思えない素っ気なさだ。家屋ではないのか。
ここはどこ。外へ出るにはどうしたらいいの。右も左も記憶にない場所だった。左側を突っ切ると、すぐ壁にぶち当たる。
「そっちは何もないよ。突然どうしたんだい」
男の困ったような声が響いた。ターンしたリンは追ってきた男の脇を抜け、外を目指す。そこへ、先ほどの黒いトリビトの少女がいた。彼女が手をかざすと、唐突に壁に穴が開く。リンは何も考えずそこへ飛び込んだ。
外へ――
とたん、薄暗い街並みが視界いっぱいに広がる。一瞬夜なのか、と思った。だが、ちがう。視力の悪い目をこらし、リンは懸命に辺りを見た。これは黒い霧と、この時間ならあるべき日差しがないせいだ。……ここはいったいどこだろう。三度目の声なき問いかけは、力なくリンの内側をたたいた。
碁盤の目のように整然と整っていた白い街とは全然違う。無造作に乱雑に立ち上がる建物は圧迫感さえ与えて反り建っていた。隙間を縫うように入り組んでいるのか、道の見通しが悪い。薄汚れた壁やガラス戸、むき出しの配管。ゴミは散らばっていなかったが、倒壊した建物の欠片が視界の隅にうつる。日光が当たらないせいなのか、緑の一つも見当たらなかった。まばらに歩いているヒトは翼があったりなかったりした。だが共通しているのは、灰色や薄汚れた服を着てうつろに歩いているところか。
列車の窓から見えた、あの楽園のような光景はどこに消えたのだろう。
ゆっくりと首をそらせ、リンは息を詰まらせた。あの青空が、なかった。トリビトたちが優雅に泳いでいたあの空が、ない。幾重もの網目がまず目に入り、街の中央に立つ杭のような建物が右手にずーっと高く伸びていた。その上に広がっているのは、今にも落ちてきそうな逆さまの街。ここを覆う傘のように広がっている街だ。
声にならない悲鳴をリンがあげた。あれが天井都市だ、とわかったからだ。ここから見たら、まるで大きな樹が枝を伸ばしているようだった。
だとしたらここは、
「……地上都市」
ぞわり、と悪寒が背筋を這った。
(ぼくは、あそこから落とされたんだ)
身体から力が抜けて、リンは腰砕けに座り込んだ。無言で、黒い翼の彼女がリンを気遣うようにそばへくる。その手をリンは、つかんだ。左手はこわれたメガネをにぎりしめたまま。
「あの、列車はどこですか? 星間列車はどこ?」
リンの青い目が涙でにじむ。欠陥品だよ、という男の台詞が頭をよぎった。このヒトは望む答えを与えてくれない。しかし、問わずにいられなかった。
「列車はどこなの? ステーションへはどうやっていったらいいの? ねえ答えて! 答えてよおっ! ここはどこなの!?」
耳ざわりな甲高い声が、自分の声だと気づいた頃には、リンは男の人に押さえられていた。はあ、はあ、はあ、と肩で息をするリンに、彼は険しい表情をした。
「列車はもう三時間以上前に行ってしまったんだよ。ここは黒の街だ。ステーションはない。坊やは……乗り遅れてしまったんだ」
その言葉がリンに止めを刺した。乗り遅れてしまった――
リンの顔が見る間に青ざめていく。男は、急にへたり込んだリンを慌てて支えた。肩をつかまれ、リンは驚いたように男を仰ぐ。
「あ……えと、……あの……」
言葉がうまくつむげなかった。乗り遅れてしまったのだ、と改めて指摘されて、頭の中が真っ暗になったのだ。突然底抜けの穴に落ちた気がした。どこまでもどこまでも落ちていく錯覚がした。一歩も動けなくなる。しゃがみこんで、うずくまって。
「とりあえずもう一度あの部屋へ戻ろう。外の空気は毒だから辛いはず」
促されるまま、うつろに足だけが動いた。うそだ、と思った。うそだ、という言葉だけが頭の中を埋め尽くした。思考が停止する。ぺたんと座り、リンは必死に自分を落ち着かせようとした。だが、置き去りにされたショックは消えない。目を閉じ、どうしたらいいか考えるのだが、なにも思いつかない。
あの奇妙な時計はちくたくちくたく、進んでいく。あの針が動くたび、気を失っていた時間を思い知らされる。降りちゃダメ、とエドにあれだけ言われたのに飛び出したバカな自分を。
アニエス、と呼ぼうとしてリンは口をつぐんだ。アニエスはいない。もうずっと傍にいてくれてない。ぼくしか、いない。ぼくしかここにいない!
でたらめな、声ばかりが出た。言葉にならず、ただ、あ、とかう、と繰り返す。身体が、思うように動かない。考えることが、声にならない。荷物もない。
キミ、一人なんでしょ? だったら荷物の管理くらいしっかりしなきゃ!
不意にエドの言葉が頭をよぎった。エンジャーグル(最果ての駅)に到着したとき、リンは嬉しくなって鞄を放り出してしまった。やっとここまできた、という思いが溢れてきて、アニエスとローラおばあちゃんに散々言われたことを指摘されたのだ。
そうだ。鞄を、探さなきゃ。
リンは、クィダズまで行かなければならない。そのために、あの荷物は必要だ。リンは、ぎゅっとまぶたを閉じると自分の顔を思い切り叩いた。男の人がぎょっとして止めようとするが、リンの手は構わず頬を引っぱたく。痛かった。だけどこれは罰だ。
しっかりしなきゃ。
しっかりしなきゃ!
鞄を探す。立ち上がる。座り込んでいても、だれも助けてくれない。何も変わらない。だから、自分が行かなきゃならない。立ち上がれ!
リンはぐっと顔を上げた。行かなければ。とりあえず、荷物を探さなければ。
「ケガが痛むだろうに、無茶をする子だなぁ。だがよかった。打ち身と擦り傷だけのようだね。きっとネットがいい具合に引っかかったんだろう」
男は出て行こうとするリンを、問答無用で抱えあげた。細い腕が小さなリンを軽々抱えてしまう。ビックリしたのはリンだ。
「やっ! はなして! はなして!」
鞄を探さなきゃならないのに、とリンが喚くと、男の人は苦笑した。だいじょうぶだよ、とつぶやいて。何がだいじょうぶなのか、荷物を探さなければならないのに! リンが暴れても「だいじょうぶだよ」、と男の人はささやく。微笑んでだいじょうぶだよ、大丈夫、大丈夫だから……と何度もなんども口にして、そのたびリンの背中をやさしく叩いてくれる。暴れていたリンだが、徐々に肩を落とした。やさしい言葉とたたくリズムの心地よさに、リンはぎゅっと男の胸をつかんだ。顔を寄せて、すがってしまいたかった。
(泣きたい)
勝手に流れる涙じゃなく、悲しいから辛いから溢れてくるのではなく、泣きたくて、泣いてしまいたかった。この人は、それを許してくれる気がした。両足で立ち上がらなくとも、駄々っ子のように泣き喚いても、許容してくれる、と。どうしてそう思ったのかは、わからない。
大丈夫だよ、という言葉がすとん、と胸を突いたからか。
(泣いて、しまいたい、アニエス)
泣いちゃダメよ、と言われてきた。懸命にこらえてきたつもりだった。今まで何度か泣いてしまったが、わんわん泣いたのはエドに会ったあのときだけだ。すん、と鼻を鳴らしてリンは目をこする。
「あの列車に乗らなきゃ、いけなかったんです」
嗚咽交じりにつっかえつっかえ、男の人に訴えた。泣くことより、荷物の行方を尋ねたかった。そのためには、話さなければならない。今はまだ、泣いちゃいけない。今は、まだ。
「あの列車に乗って、行かなきゃ、いけなかったんです」
気丈に話すリンの背をぽんぽんさする男の人は、うん、うん、と相槌をうってくれた。
「危ないって、ここは降りちゃダメって、言われてたの。止められてたの。なのに、降りちゃった。ぼくは、トリビトに会いたかったんだ。だけど、トリビトのヒトたちに囲まれて……突き落とされて」
「そうだったのか……。こわかったね。驚いただろう」
こくん、とリンがうなずく。
そう、怖かった。訳がわからず、逃げた。しかし、捕まってしまった。
「ここは人間が訪れるには、酷な街だ。坊やが悪いわけじゃないんだけど、辛かったね」
やさしい言葉が心地よかった。抱き上げてくれる腕と、落ち着いた大人の声。安心する。弱りきった今なら、何もかも、ゆだねてしまいたかった。子どもであることに甘えて、思考を停止して。
だが、脳裏をよぎる言葉がある。リンだってエンジャーグルに来るまでの間、いろんな人に会ったのだ。切ない思いも、悔しい思いも、歯がゆい思いも、悲しい思いもしてきた。その経験が、リンを立ち上がらせようとする。
(アニエス、アニエス、アニエス、ローラおばあちゃん、エド……、エド!)
リンはまぶたをきつく閉じると、歯を食いしばった。しっかりしなければいけない。親切な人ばかりとは限らないのだ。フーリー警部補は、警察だったからリンはホッと安堵した。彼の言葉は本心だとわかったから、すぐ信用できた。しかしこの男は、どういう人かも、何のためにここにいる人なのかも、わからない。
人を油断させるためにやさしくして、裏切る人もいるの。
逆に言えば傷つけるために、近づいてくる人もいる。
あなたの感覚では理解するのが難しいかもしれないけれど。
そう言ってくれた人がいた。その人のためにも、リンは気を付けなければならない。簡単に誰かを信用してはならない。信用する根拠を探し、納得してから心を開く。旅をして学んだことだ。騙されないために、賢くならなければならないのだ。
(ひとりだから)
泣きたくても、誰かに頼りきってしまいたくても、リンはひとりだから、まず己を守らなければならない。安全だと思えるまで、気を張ってなければならない。差し伸べられた手も、疑ってかからねばならない。
「それで、かばんがどうしても必要なんです。アレがないと、困るんです。ぼくが悪いんだから、ぼくが、ちゃんと、しなきゃ。探さなきゃ!」
エドのときは同じ子どもだから、という気安さがあった。列車の内部も安全であった。でも、この人は大人だ。
やさしくしてくれる人でさえ、信じられなくなっちゃう。
そんな風にぼくも、ならなきゃダメなの?
そんなのは悲しい、とリンはここまで来る間、ある人に訴えたことがあった。裏切りにあうから誰も信じちゃいけないの、と訊いたことがあった。だれとも仲良くなれなくなってしまって、そういうのが大人になることなの、と。
嫌でも思い出してしまう。今リンは、この人にやさしくしてもらっている。でもそのやさしさが、怖くて怖くてたまらないのだ。こんな風に、人を見るようになると思わなかった。こんなふうに疑っている自分が嫌だった。だが、こうするしかできない。
「だから、降ろして!」
必死に足掻く少年へ、男の人は大きくうなずいた。リンの警戒を逆なでしない、ゆっくりとした動きだった。リンは降ろされると毛布で身体を包まれ、そっと頭をなでられた。かがんだ男の人はにこ、と笑んで、
「だいじょうぶ。みんなが探してくれているから、荷物はすぐに見つかるだろう。ねぇ、ケガの手当てをしないかい? その、壊れたメガネも」
きつく握りしめていた手を、大きな手がそっと触れた。思い出したようにリンが力を抜いてゆっくり開くと、そこに歪んだメガネがある。
「修理できると思うんだ。メガネがないと困らないかな」
はっきりとしないぼやけた輪郭で、男の人が微笑している。
リンは青い目をゆらめかせた。困っているのは、確かだった。
「僕の部屋へおいで。ここでは修理もできないから、ね?」
申し出を否定することもできず、薄い布にくるまれたリンは男に連れられて歩いた。迷子になりそうな暗い街を、彼は迷いなく進んでいく。黒い翼のお姉さんとは、別れることになった。彼女は最後まで、一言も何も話してくれなかった。それでも、別れぎわにくれた微笑みが目に残っている。
――ぼくは、どうしたらいいのかな。
たったひとつの荷物である鞄がなくて、リンのものは身につけている服と靴だけだった。もしあの鞄が見つからなければ、どうなるのだろう。ここでひとり、ひっそりと死んでしまうのだろうか。