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『朝よ、ほら、みんな起きて』

 アニエスの声が、聞こえた。

『もう、遅刻しちゃうでしょう? ほらニコラ、リン! テッサはもう起きているわよ』

 起きなさい、というアニエスの声でリンの一日はいつだって始まった。ご飯のにおい。鳥の声。お日さまの白い光。家の外を通る人々の気配。枕を放さないニコラの「もうちょっと……、寝かせて」という声。それさえ見越して起こすアニエスの、「五分だけよ」と苦笑する声――

 いつもの、日常。

 リンの意識が浮上してきたとき、がちゃん、がたん、と遠くで大きな機械の動く音が聞こえた。ああ……ラスの工場だ。リンの故郷の工場では鉄くずを集めては再精製する作業をこなしていた。周辺諸国で使い物にならなくなった機器を一手に抱え、ラスの街は生きてきた。そこで集まる労働者を相手にアニエスは店を開いていて、リンたち子どもも工場へ手伝いに行っては日銭を稼ぐ。いつか自分たちもそこで働くのだ、と当然のように思いながら。

 ラスの街には巨大なゴミの山が鎮座していた。ゴミと言っても電化製品からソファやベッドまで様々なものがる。それらはお宝の山だ。まだ動く機器から修復すれば使えるものを分類し、売り払う。壊れて使い物にならないものは解体し、備品ごとに分け、各下請けへ流す。貴金属は種類ごとに仕分けされ、新たに生まれ変わっていくのだ。これらが工場の仕事だ。そうしてラスの街は動いている。

 暇ができれば、よく兄のニコラとお宝を求めて、リンはゴミの山(親しみをこめてバケットと呼ばれていた)へ分け入った。使えそうなものがあったら、工場のヒトにお伺いを立てて持ち帰った。新品同様の『掘り出し物』も中にはあって、遊び半分で二人は工場へ通っていたものだ。

 最新の機器は見当たらないが、生活するのに不便さを訴えるほどではなかった。コンピューターのある生活をしてこなかったからだろう。その恩恵がわからないのだ。あそこで最新と呼ばれる設備は、大昔のテクノロジーではないかと思う。

 今の列車に乗ったら、よくわかった。あまりにも……世界が違いすぎたから。バスルームやトイレ、座席シートに照明、そんなものでさえ全く違うのだ。便利な世界。発達した世界。みんなが幸せそうで、色んなヒトたちのいる世界。リンの住む世界とはちがう、異質な場所。

 まるで夢だと言うような。

 だけど、ラスの街ほどすてきな場所なんかないよ。そう、リンは思う。あの街には、かけがえのないものばかりがつまっている。たとえエドに笑われたって――あそこがぼくの故郷で、あの街以外に、ぼくは何もいらないのだから……

 リン。

 家族に名前を呼ばれるのが好きだった。

 リン。どうしたの。起きないの?

 アニエス、ううん、待って。すぐに起きるから――

 目覚めに眠気は伴わなかった。うすく目をあけると、視界がぼやけている。目をこすったら何故か頬がぬれていて、泣いたのだろうか、と不思議になった。夢のことは覚えていなかったけど、胸が苦しかった。それでもほの暗い部屋と、遠くで聞こえる機械音から、癖でとなりで眠っているはずのエイダを起こそうとする。右手はめがねを探そうと枕元へ手を伸ばして、左手はエイダの肩を触る……はずだった。

「……?」

 めがねがない。

 いつも枕元に置いておくのにめがねがない。

 触れたのは、冷たい床の感触。

「エイダ……?」

 不透明な視界に目をこらし、リンはむくりと起き上がる。すると、肩や腰、背中にずきりと痛みが走った。

「いた……」

 はら、と落ちたのは、かけられていた見慣れない厚手の布だ。リンはぼやける視界に目をすがめて、改めて辺りを見渡してみた。周りは、継ぎ目のない平坦な壁と床だ。触れるとひんやりして冷たかった。つるりとした表面だ。耳を澄ませると、雑音に混じって時計の時を刻む音が聞こえる。この薄暗い室内のどこかに、時計があるのだ。

 ベッドもやクローゼットは、なかった。リンは、つるりとした床の上に直接転がっていたのだ。近くにクッションひとつ見当たらない。そもそも、エイダの大好きな大きなぬいぐるみもない。リンのお気に入りのラジオもない。窓辺から差し込む光もない。

 ぼんやりした頭が覚醒するにつれ、リンの顔が恐怖に彩られる。ここは、ラスの街じゃない。ここはぼくらの家じゃない。

「落ちたんだ」

 あの白い街から、ぼくは落とされた――

 声に出して状況を確認したら、トリビトたちの声が頭をよぎった。


 ニンゲンダ

 ニンゲン


 捕まえろ!


 今さらのように恐怖がぶり返し、リンは身をすくませた。ウサギのように部屋の片隅に這い寄ると、小さくなる。かけられた布を頭からかぶってぎゅっと目を瞑った。

 こわい。

 どうしてこんなところにいるの。ここはどこなの。どうして、ぼくは生きているの。あんな高いところから落とされたのに!

 そのとき、不意に背後のかべが消えた。背中を預けていたリンは、支えを失って眩い光の下へ転がり出るはめになる。刹那、世界が黒から白にぬりかわった。そこで、呼吸が止まる。

「……っ?」

 誰かがいる。飽和状態の視界に入ってきた裸足の『足』を見て、リンは凍りついた。トリビトなのか。こっちへ来る。気付いた瞬間から息ができない。血の気が引く、という感覚が今なら理解できた。目と鼻の先で、足は止まる。顔を、上げられない。つ、と汗がこめかみを流れていく。身体がみっともなく震える。

 硬直するリンの背中へ、何かが触れた。ぎゅっとリンは目を閉じ、全身を強張らせた。

 しかし触れたものは厚手の布だった。身体をすっぽりとおおった布は、さっきまでリンがかぶっていたものとよく似ている。

 逃げることさえできないリンの前で、そのヒトは膝を折って顔を覗き込んできた。現れたのは黒い髪で黒い肌をした、お姉さんだ。しかし目だけが、赤い。あのトリビトたちと同じような真紅だ。きょろ、とリンを四方から見つめてきたあの目。物陰から聞こえてくる、囁きが脳裏に繰り返される。

 リンが泣きそうな悲鳴を上げた。いやだ、こないで! こっちに来ないで!

 こないで、と半狂乱で声をあげ、かたかたと縮こまった。だがいつまでたってもなにも起こらない。殴られることも、胸倉をつかまれることも、罵声も、石も飛んでこない。

「……?」

 そろ、と目をあけてみると、困ったようすのお姉さんがいた。首をかしげ、困惑顔でリンを見つめている。それは「どうしたの?」と問いかけているようだった。リンはおどおどしながらも、ずり、と後ろへさがる。黒くて長い髪の彼女は、テッサよりも年上だろうけど、アニエスほど大人には見えない。幼さの残る顔立ちで、不意にリンの腕をつかんだ。身体が恐怖で弾む。

「いやだ、ごめんなさい、こっちこないで!」

 すると、真っ黒なトリビトはわずかに眉をよせた。「なぜ?」と問いかけているようだった。困ったように彼女は近づくのをやめ、距離をとった。ゆっくりと片手を前に出し、リンの顔をじっと見つめる。開かれたトリビトの手のひらを見て、リンは「あ」と声をあげた。

「ぼくのメガネ!」

 ただし、フレームは歪んでレンズにみごとなひびが入っていた。これでは使い物にならない。申し訳なさそうな彼女からメガネを受け取ると、リンはぎゅっとにぎりしめた。大切につかっていたメガネだった。ボロボロのメガネに比べて、リン自身がこの程度の怪我ですんだのは、幸運としか言いようがない。

 そうして、ハッとなる。いったいここはどこなのだろう。今の時間はどれぐらいなのだろう。列車はまだ停車しているの?

 とたん、リンはあたふたと周りを見渡した。身体が痛むのも無視して、がばりと起き上がる。かばんがない。背負っていたが、落っこちた拍子にどこかで引っ掛けたのだろうか。躊躇ったのは一瞬だけだった。リンは恐る恐る、口を開く。

「……あの、おねえさん」

 返事が返ってこない。相手のほうも、なぜだか戸惑っているように見えた。

「ぼくのリュックサック知りませんか? メガネ以外に、ぼくの荷物も見なかった? 大切なものなの、知らない?」

 だが返事はない。辺りを見渡しても、それらしいものなんかない。あれだけは、失くしてちゃいけなかった。絶対手放してはいけないよ、とローラおばあちゃんに言い含められた。それをリンも重々承知していたのだ。手放さないよう注意していたのに、どこへいっちゃったのだろう。

「ねぇ、かばん、知らない? ないと困るんです、おねえさん!」

「だめだよ」

 唐突に割り込んできた第三者の声に、リンは驚愕した。こつ、こつ、こつ、と響く足音が聞こえてくる。それがリンの近くでぴたりとやんだ。何が起こるのか、不安でいっぱいのリンの眼前で、前触れなく壁に穴が現れる。ヒト一人がくぐれるほどの――扉ほどの大きさの、穴だ。

 そこにいたのは翼のない、人。

 背中に光があるせいで、顔まではわからない。

「だめだよ。いくら話しかけても」

 男の人だった。どこか悲しみに彩られた声色で、淡々と彼は言った。

「彼らは言葉を使わない。そういうトリビトなんだ。……黒種と呼ばれる種族だよ」

 リンの青い目が涙を浮かべて男の人を見つめる。

「……こくしゅ?」

「そう。欠陥品、という黒い翼を持つ者たちのこと」

 男の人は少し淋しそうに微笑んだ。




 欠陥品、という黒い翼を持つ者たちのこと――

 思わずリンは、おねえさんを仰いだ。そこで、息を呑む。黒い翼の彼女は、静かな笑顔のままだった。あんなことを言われたのに、どうしたの、と問いかけるやさしい表情のままなのだ。それが、リンの心をえぐった。思わず彼女の腕をつかんで、

「あのっ」

 そう言ってみたが、続きが言えない。欠陥品なの? なんて問いかけられるはずもない。だが男の人の言葉を聞いても、彼女は動じていなかった。何かが欠落した種族……言葉を解さないヒトビトなのだ、と本能的に悟った瞬間だった。そういえば、おねえさんは一言も話していない。リンのために膝を折り、リンのために目線を合わせてくれるけれど、メガネをもって来てくれたけど、一言もしゃべってはいないのだ。その戦慄に、不安がさざ波のように押し寄せてくる。

 こんなヒトたちもいるのかと。

 疑問を返すように、助けを求めるように、リンはもう一度男の人を見た。すると、

「ところで坊やは、どうしてこんなところにいるの? このケガはどうしたの? この子がとても困っているよ」

 迷子? とその人はリンの前でかがみこんだ。黒っぽい髪はリンと同じような癖っ毛で、白いものがところどころ混じっていた。人の良さそうな顔立ちの中、青い瞳が印象的だ。リンのものより少しくすんでいる。笑うと目じりが下がって、一層やさしそうに見えた。

 そして間近で見るとおじさんだった。目元と口元に笑い皺がある。お兄さんだと勘違いしたのは、ひょろりとした体つきのせいだろう。リンの知る『おじさん』という人たちは、みんな筋肉むきむきなごつい人たちばかりだったから。

 男が着るパールグレーの服は、何かの制服のようだ。ひざ上まである上着が、細身の身体によく似合っていた。

「ぼくは……」

 そう言ったきり、リンの言葉は喉の奥に落っこちた。ふと視界に時計が目に入ったのだ。今の今まで全然目につかなかったのは、暗がりに紛れていたためだ。男の人によってもたらされた光源が、時計を照らし出している。

 目を見開いて固まったリンを怪訝そうに見つめた男の人は、少年の視線を追いかける。

「ああ、時計? 少し変わっているのかな」

 わかる? と男が時計に触れた。それはエドの持つ懐中時計とはまた別の形をしている。一~十二の数字のようなものはあるけれど、丸くない。縦に長い。それが、かち、かち、かち、と動いているのがわかる。乗ってきた列車に置いてそうな、骨董品だ。

 リンは視力の悪い目を凝らした。

「あの、今、何時ですか……?」

 恐々尋ねたリンは、女の人の手をぎゅっとにぎった。彼女はリンのそんなようすを不思議そうに見下ろす。手のひらが、汗ばんでいた。

 男の人が、時計を見たまま、「今は十六時十分を過ぎたころだよ」とにこやかに教えてくれた。

「ほら、こっちの針が一番下までいくと、上までジャンプする仕組みになっているんだよ」

 古時計にそっと触れて、男の人は時計の見方を教えてくれる。こちらが長針。こちらが短針。そしてこれが秒針。慣れると結構面白いんだよ。なんて台詞は、リンの頭を右から左に素通りした。

 リンの喉はからからになっていた。声が張りついて、出てこない。だが、訊かずにいられない。リンは答えを十分に予測しながらも、問いかけた。

「……あの、列車は?」

 男が振り返る。驚きに険しい表情をのせていた。その唇が動くのを、リンは見ていた。

「十三時発の星間列車は出てしまったよ。次の到着は一月後だ。そんなことも、知らずにいたのかい」

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