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「知ってるよ。僕は、昨日ラッカに案内してもらったんだ。今は、支柱の中にいる」
「支柱!? そんな――どうやって? あたしたちでさえ入れないのよ。よそ者のあなたが、どうやって入ったの」
静かに、とエドは警告する。声が大きくなっていたシエラは「いけない」と口を押さえた。
「僕は、キミたちより機械に慣れてるから」
「じゃあ、お兄ちゃんもそこにいるの? お兄ちゃんがどこにいるか、あなたは知ってる? 傍にいてくれるって言ってたのに、いないの」
エドがどう答えようか考えた時だ。シエラが悲鳴を発した。それのすぐ後にエドの足元も揺れ、コンソールに再度かじりつく羽目になる。作業が中断され、エドは苛立ちに拳を机にぶつけた。
「またかっ、もう、何なんだよ。さっきより大きくなってないか」
管理者であるヴォルフは、支柱は安全だと言っていたが、こうも頻繁に揺れると本当かどうか怪しくなってくる。もしかしてトリビトたちが支柱内部へ押し入った音ではないのか――
外を覗いたシエラが、息を呑んで飛び退った。窓から離れ、青ざめた顔を両手で押さえて、震えている。
「どうしたの、シエラ」
「うそ……どうしてみんな、街を壊してるの。あたしたちの家なのに」
「待って、じゃあ今の揺れは」
「わからないの!? 建物が、支柱へぶつけられた音よ! 支柱へみんなが攻撃してるのよ!」
エドはとんでもない事態が、一瞬理解できなかった。しかし、すぐさま思い出す。そうだ、ヴォルフが言っていたではないか。この街はかなり古いものだ、と。あのヒトは、ここまで予想していたのだろうか。
黒の街へ向かったリンは、無事なのか。
エドのコンソールを走る指がスピードを増した。状況を一刻も早く把握したかった。できることなら、シエラを安全な場所へ避難させたい。倒れたラッカの顔が、先ほどから脳裏をちらついてばかりだ。リンが無事であることも、確認したい。
「シエラ、そこは平気? 隠れていて大丈夫そう?」
「わからない。わからないよ、そんなの。何かみんな怖い。ねぇ、お兄ちゃんは? 一緒にいないの?」
「泣かないで、シエラ。つまり、キミの仲間たちは、キミの声も聞こえないの?」
「そんなの、わかるわけないでしょ!? ようすが変だって言ってるじゃない! おかしいのよ、みんな!」
叫んだシエラの目から涙がぽとぽと落ちていった。感情の高ぶりに顔を真っ赤にして、肩で息をしていた。唇をかんだトリビトの少女へ、エドは何と声をかけたらいいかわからなくなる。うつむいて、ぎゅっとワンピースをつかんだ、この子に。
(ラッカがあんな状態だなんて)
少女の拠りどころである兄は意識が戻らず、最悪、黒種になるかもしれないだなんて。……この子を置いていってしまうかもしれないだなんて。
(トリビトたちを説得してくれ、だなんて、言えるわけない)
静寂が舞い降りたところへガラガラ、と何かの崩れる音がした。エドまで聞こえたのだ。かなり大きいか、すぐ近くで発せられたのだ。息を呑んだのはシエラもエドも同時だった。鼓動の音さえうるさく聞こえる刹那が、どれぐらい過ぎただろう。ほっと息をついたのはシエラが先だった。我をなくしたトリビトがいつ現れることか。もたついていられない。一刻も早く、シエラを避難させなければ。妹が傷つくことを、ラッカは望んでいないのだから。
(だけど僕は、あいつを列車に乗せないと)
女王さまから頼まれた願いは、細い両肩にずっしりと重たい。こんなところで躓いていられないのだ。
(でも)
ラッカの姿が頭にちらつく。エドの頼みをきいてくれたからこそ、倒れた彼の姿が。ごめんなと、もういいよと、言った彼の声が。
迷ったのはわずかな時間だっただろう。エドは、モニターに向かって口を開いていた。
「落ち着いて聞いて。ラッカは……キミのお兄さんは僕を助けてくれたんだ。そのせいで街へ戻れない状況に陥っている」
「なに? どういうこと?」
シエラの怯えた表情を見るのは、辛かった。これからどれだけ残酷な台詞を吐くのかと思うと、口をつぐみたくなる。だけど、エドは重い声で告げた。
「ここを離れて地上都市へ下りようとしたんだ。だけど、キミたちトリビトは、それを許してはくれなかった。ラッカは――倒れたきり、今もまだ目覚めない」
沈黙は、身を切るような痛みを伴っていた。
「どういうことよ」
シエラの声色は、冗談を言ったら許さないと告げていた。ラッカが倒れたこと、目を覚まさないこと、白の街に戻れないことを説明したあとの、第一声がこれだった。少女はモニターに映るベッドにしゃがみ、きつく膝を抱いている。うつむいていても、恐れと憤りの混ざった表情をしているのだと、想像がついた。
「どういうことよ、エトムント・エスツェット! みんながお兄ちゃんを攻撃するなんて、ありえないわよ! あなたのせいなんでしょ!?」
返答するのに時間がかかった。エドはトリビトに詳しくはない。だけど、ここでウソは言えない。
「僕には、トリビトの事情がわからない。だけど、ナイフまで飛んできたんだ。ラッカを狙っていた。それだけは確かだ」
エドは自分の太ももに刺さった光を思い出した。バリケードまで作ったあの拒絶は、相当なものだった。子どもでも、容赦ない。アレを見ていないシエラには、到底わかるまい。
「ねぇ、お兄ちゃんはどこにいるの。会わせて……会わせてよ! あなたの言うことは全部嘘なんだわ! みんなが、そんなことするはず、ないじゃない」
「窓の外を見たんだろ、シエラ。これが――キミたちトリビトなんだ」
エドが、コンソールのキーをぽん、と弾いた。それを合図に、壁一面に並ぶモニタが、どこかの映像をいっせいに映し出す。いくつかが白の街を、いくつかが黒の街を、いくつかが支柱を。建物の外側、内側……あらゆる角度の映像が現れた。ヴォルフがエドとラッカの侵入を察知するのも当然だろう。最初から筒抜けだったと今ならわかる。
リアルタイムに送られてくる映像は、エドに鳥肌を立てさせた。暴走しているトリビトが、夢でも幻でもないと実感できる。彼らは手に、武器となる刃物やパイプなんかの棒を持っていた。獲物を探すように、ぎらぎらと赤い目をたぎらせている。恐ろしい形相をしていた。
これが、トリビトだ。
リンのように、何も知らない子どもにさえ怯え、逃げ惑い、憎しみと悪意をぶつけたのがトリビトだ。現にか弱そうなシエラだって、駅へ戻ろうとしたリンを傷つけた。その事実は変えられない。
「ちがう。みんながそんなことするはずない。ちがう!」
幼子のように彼女は駄々をこねた。耳をふさぎ、首を振る。信じない。信じたくない、と。お兄ちゃんに会わせて、と何度も繰り返す。
「ラッカは黒の街で治療を受けてるんだ。今は会わせられないよ。だけど、手は尽くしてみると、言ってくれた。ラッカは助けられるだろうと」
「何よ、それ。あなたが、助けてくれるんじゃないの」
その指摘に、エドは沈黙した。だれが、助けてくれるの。そう尋ねられるのが怖かった。
「……人間、なのね」
重たい声は、確信を抱いているようだった。エドはわずかに目を見開く。知らず、こくんとうなずいている自分に気づき、「そうだよ」と声に出した。この声も、暗い色をしていた。
「知っていたわ。ううん、そうじゃないかって思ってた。この騒ぎだもの、それしかないわ」
自嘲気味の笑いだった。
「だってあたしたち、街のことさえろくに知らないのよ。入れない場所とか、使えない機械もいっぱいある。でも、この街はずっと維持されてきた。誰かがあたしたちを見ていたのも、知っているわ。……姿を見せない誰かが、この街にいるって」
姿は見せないのではなく見せられないのだと推測もつく。そうなれば、人族と結びつくのも容易い。この街に慣れない者なら、必ず誰かの手を借りるはずだ。
「そんなの、お兄ちゃんだって言ってたことよ。だから、あたしたちはずっと怖かったの。支柱から人間が出てこないか、いつも怯えていた。あたし……人間がしたことってほんとはあまり覚えてない。でも、みんなの傷ついたことは、知ってるのよ」
ラッカは、この街にだれかがいると知っていたから、あれほど取り乱したのか。奴らがくると喚いたのは、人間の存在を確信していたから。
(ああ、だからあの人は、一人だけで姿を見せなかったんだ)
ヴォルフが黒種と一緒に現れたのは、翼を持つものの身近にいる存在だと示すためだったのだ。女性を伴ったのは、敵意のない証拠として。結果、ラッカには辛い事実を教えてしまったけれど。
「だから――あたしは、あの子が許せなかったの。やっとみんな、空を飛べるようになったの。やっと、笑顔が戻りだしたのよ。なのにあの子がかき乱した。今も、こんなことになってる! 許せなかったの。許せないのっ。お兄ちゃんまでいなくなったのは、あの子のせいよ。人間なんか嫌い、嫌い。大っ嫌い! どうして、奪っていくの? あたしたちが、何をしたのよ!」
自分の腕に顔をうずめる白い少女は、小刻みに身体を震えさせた。立ち上がるのも嫌と拒絶しているようで、エドはどう声をかけたらいいかわからなくなる。この激しい拒絶はラッカと同じだ。
何かがまた落ちたのか、腹に響く低音がした。足元が、かすかに揺れる。エドには聞こえないが、トリビトたちの悲鳴は今も空を覆っているのだろう。
「キミが、突き落とした人族には……妹がいるんだ」 ぽつ、とそう呟いたのは何故だったのだろう。ラッカにはあれほど否定されたのに、ましてやこの少女が、リンを突き落とした張本人なのに。
「背に、小さな翼を持ったトリビトの、妹が」
シエラの肩がびくん、とはねた。エドはそれに構わない。
「あいつはね、キミたちに会いたくて列車を下りたんだ。ダメだって言ったのに、聞かなかった。傷つくだけだから降りるなって、何度も言ったのに」
「……や。……たくない」
「キミにそっくりなんだって、シエラ。もうちょっと小さいらしいけど、かわいい妹なんだって」
「聞きたくない、やめて」
知るのが怖いのか。憎みたい相手にも、家族がいて愛する者がいて、自分たちと変わらないのだと、知るのが恐ろしいのか。非情であり、酷薄な人族のイメージを崩されたくないのか。自らの罪悪から逃れたいために?
シエラは耳をふさいで小さくなっている。聞こえてくる嗚咽は、少女が泣いているのだと教えてくれた。シエラだって、リンがなにも知らないとわかっているのだ。
「もうこの街に、キミたちを虐げた人族はいないんだよ」
「聞きたくないったら!」
「聞いて!」
エドは思わず身を乗り出していた。
「いるのは、何も知らないあいつと、キミたちを守ろうと奔走しているヒトが一人だけ。彼は、自分の罪を償おうと一生を捧げて、キミたちが幸せに安心して暮らせるように願っている。……キミたちは、その彼さえ追い出そうとしている」
「そんなの、知らない……っ。あたしたちは守られたいなんて思ったことない」
「だけど、僕はラッカを助けたいんだ」
シエラがゆっくりと顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃの顔だった。
「僕も人族は嫌いだけど、あのヒトがラッカを助けてくれるって信じてる。このままじゃ、黒の街はぺしゃんこになってしまう。そうなったら、ラッカの治療もままならない。シエラ、だから……」
卑怯者だ。
シエラ、だから……と言いかけた先に並ぶ言葉は、エドとリンを助けるものしかなかった。もしこの少女が、トリビトたちを静められたとしても、ラッカが無事に回復する保証はない。ラッカを治療するのに万全な体制は整えやすくなるだろう。しかしラッカが回復したとしても、また白の街に戻ってこられるかわからない。――彼は一度、仲間に見捨てられたのだ。その傷は、きっと深い。
(なのに僕は、シエラにそうしろと頼むんだ?)
(自分は安全な場所にいて、あの子だけに背負わせるんだ?)
(二人の傍からすぐにいなくなるこの僕が?)
ラッカを人質のように使っておいて。
すがるように周囲を見る小さなトリビトに。
ラッカと同じ目にあう危険を、承知で。
「あたしは、どうしたらいいの」
言い合いの途切れ目に、その台詞は響いた。彼女は涙でぐちゃぐちゃだった顔を両手でこすっていた。しゃくりあげながら申し出てくれた彼女に、すまない気持ちでいっぱいになる。だが、エドが口を動かそうとしたときだ。不意にシエラが立ち上がった。きょろきょろと目を四方へ向けている。その表情は不思議そうで、不安そうだった。窓際まで彼女がふらふらと歩いていく。どうしたの、とエドが尋ねれば、シエラは「聞こえないの」と答えた。
「この歌は、なに」
「……え? 僕には、何もきこえ――」
耳のよさを自覚しているエドが訝しげになったとき、かすかな音を捕らえた。ネコの耳がぴくりと動く。