22
天井の高い部屋は、ちょっとしたホールのようだった。その中央で少女が一人、赤ん坊のように丸くなっている。人間ならば十六ほどの歳のころ。白いワンピースの裾と、長い髪がゆらりゆらりとたゆたう。燐光を発する水と、眠る少女は、巨大カプセルの中にあった。
それは『ゆりかご』と呼ばれる装置だ。ラッカが収まったものの四倍はある大きなカプセルで、天井まで届いていた。まるで水槽のようだ。何本もの束になったコードと機器が、宝を守るようにそっと『ゆりかご』を持ち上げていた。微細な機械音と、あちらこちらで明滅する小さな輝きは、この部屋が今もなお「生きている」ことを示している。ヴォルフが無視してきた施設を含め、だれも立ち入らなくなった今もなお、街の地下は稼働していたのだ。
かつん、かつん、と靴音が大きく反響した。ヴォルフは複雑な色で少女を見つめ、ゆっくりと歩み寄る。苦痛に似た顔は、泣きそうにも見えただろう。鼻の奥がつんと痛んで、ヴォルフは呼吸さえ苦しくなる。
少女は、記憶と同じ姿をしていた。いや、引き継いだ記憶のまま、と言うべきか。先ほどは久しぶりと思ったが、厳密には、『彼』が少女と会うのは初めてだ。しかし、そう思えない。『ゆりかご』へ触れる指が、かすかに震える。
「アリア」
後悔と甘さの入り混じった声は、掠れた小さなものだった。それが届いたのだろうか、少女の瞼がぴくりと震える。かすかな変化だったが――
(ヴォルフ……。会いにきてくれたの)
突如聞こえた『声』に、ヴォルフはカプセルからパッと手を離した。まさか彼女が目覚めていたとは。くすくす、と笑う気配がする。だが、眼前の少女は瞼をおろしたままだ。青い水の中で、長い髪をゆらめかせ、ひざを抱いて眠っている。
「きみなのか、アリア」
(そう。ヴォルフ……ヴォルフ……)
黒種たちの機械的な交信とは違う、感情のこもった『声』だった。ヴォルフの頭に、彼女が直接話しかけてくれているのか。記憶通りの、蜜のような愛しい声。
(何年ぶり……あなたに会えるなんて。ずっとずっと、待っていた。会いたかった) 彼女が話している『ヴォルフ』は、自分じゃない。オリジナルのヴォルフはとうにこの世を去っている――そうと知りつつ、目が離せなかった。彼女と初対面には思えない。胸がきりきりと締め付けられた。それだけ、オリジナルはこの少女を大切にしていたのか。
自分はただの『管理者』であり、少女の知っている『ヴォルフガング』ではない。彼の容姿を持ち、彼の記憶を持つ、まったく別の存在である。そんなことは、わかっていた、はずなのに。
動揺をなんとかヴォルフは抑え、深呼吸を繰り返す。今は感傷に浸っている場合ではなかった。『管理者』として、することをしなければならないのだ。
「力を、貸してくれないか。……アリア」
ヴォルフがそう切り出したとき、足元が揺れた。ガタガタガタ、と機器が音を立てる。立っていられず、ヴォルフはカプセルに手をついた。大きい。先ほど遭遇した揺れとは、比較にならない。落雷のような轟音。しなる天井に、ぎくりとなる。部屋はこの揺れにびくともしなかったが――今の音は、街の一部が崩壊した音だ。天井都市の欠片が、地上落下したのだ。
(まずいな。予想していたとはいえ、被害が大きい)
ここは、決して新しい街ではない。地上都市や、メイン機能がぎっしり詰まった支柱部分はともかく、白種たちが住む天井都市はろくな修復もしないまま何十年と経過していた。人族であるヴォルフが、手を出せる領域ではなかったのだ。これまで、ゴミ収集等を行う雑用ロボットでだましだまし補整してきた。それでも老朽化は免れない。もともと脆くなっていたところに、白種たちの暴動だ。本格的な修理はいずれ……、と後回しにしてきたツケがこれである。
長時間も陽光に耐えられない白種たちのために、設計された街だった。建物が下方に向かって建てられたのも、そのせいだ。しかし今、街が端から崩れている。トリビトの手によって破壊されている。今は欠片程度だが、これ以上被害が出たら、基盤となる黒の街まで滅茶苦茶になる。星間列車も停車できなくなる。地下設備まで影響を受けるとは思わないが……トリビトの絶滅という最悪のシナリオも目に浮かんだ。
彼らは、破滅の道だと知りつつも、走り出したら止められないのだ。脅威が去ったと確信できるようになるまで、ひたすら衝動に身を任せる。
(あのときが、そうだった)
混乱に飲み込まれ、トリビトは牙を剥いた。
『王』の嘆きに、施設全体が、震えた。
(だが今は『王』がいない。この暴動は、鎮められる)
要たる『王』の不在は、トリビトの精神的安定を欠く要因となってきた。現在は、彼らを希望や滅びへ誘うものがいない。心の拠りどころがない。ゆえに混乱は一気に爆発した。きぃぃぃぃ、という声が、きっと外では、響いている。
(ここまで私たちは罪深いか)
ただ、姿を見せただけで、決死の拒絶だ。当然の報いかもしれないけども。
「アリア、ずっとここに閉じ込めておいて、虫が良すぎるとは思う。私を恨んでいるとも。だが、この街を失うわけにはいかない。お願いだ、アリア。彼らを――」
ヴォルフは、台詞の途中で言葉を失った。目の前にアリアの幻影が現れたのだ。彼女は微笑みながら細い人差し指で自分の唇を押さえた。それ以上言わなくてもいいから、と。ヴォルフを覗きこむ少女の幻は、巨大な水槽のなかで消えてまた現れる。
これも、彼女たちの持つ不思議な力だった。一か所に安定できないのは、彼女の力が全快ではないためか。
そうと、わかっているのに。
(知っているわ。ざわめきがここにも届いてくる。みんなの叫びが聞こえる。悲しい声が)
「君を解放する。君が王になれば、あれは止まる」
胸が、痛くなる。
切羽詰った状況なのに、アリアの存在だけですべてが見えなくなった。触れたい。この子を抱きしめたい。他のことなどどうでもいい。アリアがいてくれるなら、それだけで。醜い欲求に抗えない。だが、そんなヴォルフを少女は現実に引き戻した。
(ダメ、ヴォルフ)
ガラスに触れるヴォルフの手と合わさるように、手のひらを重ねてくる少女の幻。ゆらゆらと、長い髪が漂った。淡い微笑みは、容姿とは裏腹に大人びたものだ。諦観のにじんだ、少し寂しげな目でヴォルフを見つめる眼差し。ふっとその姿が消え、わずかに離れたところでまた現れる。
(そこは、私の場所じゃないわ。もうそこへは戻らない。戻ってはいけない。そのために私は、ここにいるんじゃない。そうでしょう?)
再び消える彼女。
(静まればいいの、感情が。彼らは怖いだけなのよ。まだ、怒りに囚われてない子もいるわ。だいじょうぶ。私たちは、そんなに弱くない)
我侭な子どもへ言い聞かせるようだ。アリアの感情と同時に幼い少女の映像が、ヴォルフへ流れてきた。『視えた』のは、他のトリビトたちのように暴走していない子ども。真っ白なワンピースを小さな両手で握りしめた少女。大きな口で何かを喚いているが、その目は自らの意思を宿したものだとわかった。
シエラだった。
シエラを映していたディスプレイが、低い地鳴りのような音と共に途切れた。やっとあの子とコンタクトが取れそうだったのに! エドが歯噛みした瞬間、足元が揺れる。たまらず、少年はコンソールにかじりついた。悲鳴をこらえて揺れがおさまるのを待つ。何が起こったのかわからない。モニターを見れば、すべての映像がとぎれている。
「なんだ、今の」
胸騒ぎがして、エドは通信を再度起動させた。とにかく何が起こったのか知りたかった。再び映ったシエラの部屋は、たくさんあったぬいぐるみが散乱している。戸棚やクローゼットがベッドの上に倒れていた。エドは凍りついた。部屋のあるじが映っていない!
「シエラ? シエラ? 無事なのか。おい、返事をしてシエラ!」
声を大にして、エドは呼びかけた。遠慮をしている場合ではない。床には粉々に砕けた鏡と電球の破片が、飛び散っている。血の、赤い色がないことが、救いだ。しかし、胸騒ぎが収まらない。
「シエラ! お願いだ、聞こえているなら、返事を――」
「だれよ! シエラ、シエラってヒトの名前連呼するのは。聞いたことのない声だわ。よそ者ね?」
ヒステリックな尖り声に、エドは鼻白む。そうだった。眠っている姿しか知らなかったが、この子がリンを突き落としたのだ。わすれていた。ラッカもこんな感じだったではないか。
(でも、ラッカより酷いよ!)
ふわふわした白い髪のお姫さまは、大そうご立腹のようだ。キンキンした声で、キャンキャン子犬のように騒ぐのだからたまらない。もっと大人しい女の子を想像していたのに。トリビトというのは、総じてこうなのだろうか。
「ちょっと、返事しなさいよ! さっきまで偉そうに呼んでいたくせに。どこにいるの、出てきなさいよ。勝手に部屋へ入っておいて、姿も見せないつもり?」
けんか腰のお姫さまに、エドはたじろいだ。キミの声がうるさいんだよ、とは懸命にも口にしなかった。言い合いにきたわけではないのだ。それに、姿も見せず語りかけるだけでは、不信に思うのも当然だろう。まずは、自分が落ち着かなければ。エドは先ほどの揺れによって転がったイスを運び、腰を下ろした。大きく息を吐く。
「今は声だけでゴメン。僕はエトムント・エスツェット。ネコ族で、昨日停車した列車で来たんだ。シエラ――先に言っておくけど、僕は敵じゃない。キミと話がしたくて、デンワしてる。そこは安全? しゃべってて平気?」
「どういう意味? あたしのこと、知ってるの? あなた、どこにいるの?」
部屋にあるモニターの一つに、不安げにきょろきょろと視線を彷徨わせる少女が映し出された。きっと、今まで隠れていたのだろう。些細な物音にビクつく姿が見える。目立ったケガがなくて、エドは安堵した。
エドの指が監視装置のコンソールを滑る。シエラの現在地が安全かどうか確認したかったのだ。シエラの部屋以外も、きっと映し出せるはずだ。ヴォルフが何やら設定していったが、操作できれば何とかなる。しかし、見慣れぬ言語が現れてエドは臍をかんだ。なんて書いてあるか、わからない。
(くそ、そういえば共通語じゃなかったんだ)
愛用のカード型コンピュータで、手際よく装置と接続する。昨日、侵入したルートからもう一度ハッキングしようとしたのだ。だが、警告を受ける。どうやら同じ手段は使えないらしい。
(ああもう、あのヒト、手際いいんだから! ――って待てよ)
ヴォルフから受け取った指輪を、見つめた。これは通行書――つまりこの街のIDである。エドは試しに読取り機へ翳してみた。あのヒトの言葉が本当なら、これが鍵になっているはず。
当りだ。エドの唇が口角を上げた。ヴォルフが起動せずにいった機器が立ち上がる。だが、文字は読めないままだ。カードブックを経由して表示させれば何とかできるはず。エドは作業をしながら、シエラへ話しかけた。
「しゃべるときは、できるだけ静かに。シエラ、僕の声は、聞こえてる?」
最後はボリュームを絞ってエドは尋ねた。映像の中のシエラがうなずいている。
「何よ、偉そうに。聞こえてるわ。もっと小さくても平気よ。……あなた、街がどうなってるか、知ってるの? この騒ぎが何なのか」
「……知ってるよ。キミの仲間が暴走してるってこと。街が危険だってこと。キミがラッカの妹だってこと。待ってね。今、どうなってるか確認しているから」
「お兄ちゃんを知ってるの!?」
作業中の指が、止まった。エドの目に飛び込んだシエラの顔は、パッと華やいでいたのだ。警戒心が一気に和らいだのがわかる。エドは自分の顔に苦味が走ったのを感じた。脳裏に、眠ったままのラッカが過ぎっていく。