20
「リンくん、夢に囚われちゃいけないよ。きみを待ってる人がいるんだろう?」
リンはハッとなった。これも、黒種たちの能力なのだろうか。この思いが浮かぶのも、家族が無性に恋しくなるのも?
「エドくんも同じだよ。二人とも、忘れないで。いいね」
エドはグリーンの瞳を人族の男へ向ける。そう言われたことが意外だったかのように、少し口を開けて。
「それから、これを。通行書みたいなものだから、はめていてくれるかな」
ヴォルフからそれぞれ手渡されたのは、シンプルなシルバーの指輪だった。リンは人差し指に、エドは中指に指輪をはめ込む。急にお洒落をしたみたいで、変な気持ちだ。
「それじゃあ、行こうか」
エドがあごを引いた。足先はすでに通路へと向かっている。二人の姿が、リンからどんどん離れていく。
エド、と思わずリンは声をかけていた。友人が振り返る。
「あ、その……気をつけて」
離れるのは不安だ――と口にできなかった。気をつけて、気をつけて。ケガなんてしないで。あのトリビトたちに捕まらないで。色んな思いを込めて。
ネコ族の少年はリンの躊躇いを察したのだろう。胸をそらして少し傾けた顔に、にやりと笑みを乗せた。だれにものを言ってるの? なんて台詞まで聞こえてきそうな、ふてぶてしい態度だ。
「言ったでしょ、危なくなりそうなら、すぐ逃げるから。そっちこそ気をつけなよ。受信機の使いかた、わかってるよね」
リンがうん、と頷くと、彼もまた満足そうに頷き返した。「またあとでね」、とエドはあっさり通路の奥に消えてしまった。そうだ。昼には合流する。列車を飛び出したあのときとは、工芸の街ではぐれたときとは、違う。
エレベーターで一気に地上まで下りて改めて見渡した街は、空気が肌に張り付くように重かった。光が遮られて薄暗いだけじゃなく、黒いもやが辺り一面をおおっていて不気味だ。うつろな目のヒトたちがふらふらと通り過ぎていく。生気がなく、自分の居場所を探してさまよう姿は、お化けのよう。
不意にぎゅっと手のひらを握り返されて、リンはマーサを見上げた。彼女は相変わらず静かな微笑のままだ。――どうしたの。そう問いかけてくれている。リンがぎこちなく笑みを作ると、彼女はゆっくりと歩き出した。その背にある黒い翼は、上空をに張られた幾重もの網にさえぎられて、きっと空を飛べない。きれいで大きな黒翼なのに、ずっと折りたたまれたままだ。
(エイダ)
不意に妹を思い出していた。黒種は空を飛べないヒトばかりだが、黒の街にあの子が混ざるのは嫌だった。しかし白の街なら平気かというと、そうじゃない。トリビトが優雅に舞う姿を目にしたとき、暗い感情がふわと浮かび上がった。リンでさえああだったのだ。エイダは、どう感じるだろう。
(言えない)
エイダには、この街のことを、言えない。言いたくない。手紙にトリビトへ会うことを、触れなければ良かった。良いことを報告できないなら、伝えないほうがマシだ。まして、リンがこんな目にあったと知ったら傷つくだろう。悲しむだろう。
どれぐらい歩いたのか……入り組んだ街を迷わず進むマーサの足が止まった。視線を上げたリンは、呆気にとられた。建物の間に、忽然と巨大な瓦礫の山が出現していたのだ。街の残骸と、よくわからない機材・廃材が積まれてあった。それも一つだけじゃなく、五つほどもある。これを片付けるには途方もない時間がかかるはずだ。え、とマーサを仰ぐと、彼女はリンの手を離してふらふらとその山へ向かって行く。
(ここに、ぼくは落ちてきた?)
目覚めたとき、すでに建物の中にリンはいたため覚えていない。
呆然としていると、何かが上空から落ちてきた。大きな物体は、網に引っかかりながらこの場所へ寄せられて、がちゃん、がたん、と山の上を転がった。目が覚めたとき、何故かラスの街にいるのだと勘違いしたのは、この音のせいでもあった。がちゃん、がたん、という音を聞いてリンは育ってきたのだ。
山の中には、黒い翼のトリビトが何人もいた。彼らは黙々とこの瓦礫の撤去作業を行っている。黒種たちの服が薄汚れているのは、作業着だったからなのか。そんな作業も、ラスの街を思い出させた。ただ、ラスの工場はいつだって賑やかだった。それは怒鳴り声や笑い声だったり、誰かの聞いていた音楽や歌ううただったり、機械の駆動音だったり、呼び出しの放送だったり……絶え間ない生活の音がしていた。明るくて活気があった。
だが、黒種たちには会話の必要がない。そのせいか、余計に淡々とした印象を与えた。作業に使われている機械も当然ながら見たことがないものだ。同じ工場でも、ふるさととはまったく違う。
ぼんやりしていると、どこかへ消えたマーサがやってきて、リンの手を引く。ぴぴぴ、と受信機がアラーム音を発した。リンの荷物はこの辺りにあるのか。確認すると、そう遠くない。きょろきょろしながら進めば、ヒト集りを発見した。ガラクタの山頂付近で、黒種たちが落ち着きなくうろうろしているのだ。しかも、四方からトリビトがどんどん顔を覗かせる。その数は見る間に増えていく。
リンはぎゅ、とマーサの手を握り締めた。やっぱり、トリビトは怖い。集まっていると嫌な感じがする。だが、発信機はその方向を指している――
「あっ」
リンはヒトビトに向かって一心不乱に駆けた。一瞬だけ見えた、あれは……。
崩れそうな足元もものともせず、リンは一直線に走った。手や服が汚れるのも構わず、獣のように四肢を使って急な瓦礫をよじ登る。見つけた。あんなところにあった。
「ぼくのリュック!」
足場を選ぶ余裕もなかった。何度も蹴躓いて山を崩した。ゆらゆらと立つ黒種たちの脇をすり抜け、ひたすら荷物だけを目指す。引っかかっていたリュックは、ボロボロだった。何かの下敷きになったのか黒ずんで、破れていた。だれかが無理に引っ張ったのか。もしくは落ちたリン自身が、ぺしゃんこに潰したのかもしれない。
中身が零れ落ちないよう、リュックを慎重にリンは持ち上げて息を吐く。思いのほかあっさりと戻ってきた。ぎゅう、と力いっぱい抱きしめていたら、泣きたくなった。よかった。よかった、見つかった。だいじな、かばん。
不意に視界が影ってリンは顔を上げ――ぎくりと顔色を変えた。大勢の黒種たちに、少年は囲まれていたのだ。
かつん、かつん、と二人分の足音が長い通路に響く。リンと別れてから、エドは隣を歩く管理者をずっと意識していた。まだ信じきっていないのだ、このヒトを。人族というのもあるだろうが、それだけじゃない違和をエドはずっと感じていた。
「あなたは、まだ僕らに何かを隠していませんか」
傍らのヴォルフを見ずに尋ねたエドと同様、彼も前方を向いたまま、
「二人に知っていて欲しいこと、二人が知りたいことはもう話したよ」
「でも……スッキリとしなくて。何かが引っかかっているんです」
「そういうことはよくあるね。しかし今はこんな状況だし、きみたちは優先しなければならないことがある。それが終わってからゆっくり考えるのはどうかな」
普段なら切り替えられる頭が、霞がかったままハッキリとしない。頭にもやを抱えたままでいるのは、気持ちが悪かった。この長い廊下は一本しかないのに、迷宮へ踏み込んだような不安を煽る。
「……あいつは」
ぽつ、とこぼしたエドはふと思い出した。
「あいつには、トリビトの妹がいるんです」
「リンくんに? いや、でも、さすがに人間からトリビトの妹はできないよ」
「ええ、知っています。血の繋がらない妹なんだと言っていました。あいつは、戦争孤児らしくて……アニエスというヒトが子どもたちを引き取って育ててるみたいで。きっとその妹もそうして引き取られたんだと思います」
ああ。
エドは自分の言いたいことがなにか、わかったような気がした。
「あいつの妹は、翼が片方しかないんです。それも小さな翼だと、言っていました」
環境の破壊された、お世辞にも空気のきれいだと言い難い星で、生きているトリビト。天井都市を見て喜んでいたようすからして、妹は白種なのだ。年頃が同じぐらいのラッカの妹は、エドよりも年上かもしれないと言っていたのを思い出す。あのシエラ、と呼ばれた女の子は、ヒトのやってきたことを知っている。今もなお怯えている。
それなら、リンの妹は?
「そういうトリビトも、多いのですか」
「いいや。ここには――白種には、いないだろうね」
「トリビトは……いえ、白種はここから出て、生きていけるものなのですか」
俺たちは、鳥かごの鳥だ。
そう言ったラッカを思い出す。長身の管理者は、ずっとエトムントのほうを見ようとしない。やがて呟かれた「いいや」という重たい返事も、充分に予想がついた。そうだ。エドはリンの妹を、ここを降りる途中、突然変異なのだろうかと訝ったのだった。だけど、もしかしたら――
いやな可能性に気付いて、エドは足を止めていた。知らず、口を手でおおっている。
白種と黒種に分かれてしまったトリビトたち。脆弱な細い糸のような生命力。それと相反するリンの妹。そして、昨日は聞き流してしまった男の言葉。
人間は愚かでね、夢を見るんだよ。
私たちはトリビトを見て『天使』だと思ってしまったんだ。
「僕は、あなたがたがトリビトに対してなにを行ったか、知っているつもりでした。人族が彼らをこんな場所に閉じ込めて、出られない体にしたのだと。本来のトリビトは、こうじゃなかったんですね。白も黒もない、自由な種族だったはずなんだ。――だとしたら、その過程でアイツの妹は生まれたのですか? そういう『半端』なトリビトは他にもいたんじゃありませんか」
ふたりの足元にはうごめく闇が眠っている。元研究者は言ったのだ。街の最下層に最盛期の技術が眠っている、と。生きているトリビトたちより重要だ、と。それはどういう意味で? 人族の持つテクノロジーの脅威を、エドは聞いている。圧倒的な技術力を。現在でこそ衰退してそれらの多くを失った彼らだが、当時は数多の同胞を支配していたのだ。
管理者とは、トリビトだけではなく、その技術と研究成果を守る番人なのだとしたら?
忌まわしい過去と知りつつ、消し去ることもできないものが、この地下にあるのだとしたら?
「トリビトの研究機関は、ここだけではないのですね? あなたたちは、ここで何を……彼らをどうしようとしていたんだ」
先を進んでいた研究者のコピーは、ゆっくりと振り返った。サファイアのような青い目が、氷の冷たさでエドを見下ろした。
「それを知って、きみはどうするんだい」
感情の消えた管理者は、機械のようだった。彼はエドが危険人物であると判断したら、躊躇なくエドをどうにかしてしまいそうだ。この人族は、街とトリビトを守るために存在している。まして、この支柱は彼のテリトリーだ。指先一つ動かさずエドを除去してしまうことは、可能なのだ。
それだけのセキュリティがあったことを、エドはハッキングして知っている。この壁が、今にも少年を覆いつくしても不思議ではない。薄い氷の上を、歩いている。エドはこくん、とつばを呑み込んだ。回答を間違ってはいけない。知りすぎては、寿命を縮める羽目になる。その権限を、目の前の人族は女王さまより賜っているはずだ。そう、彼は昨日何気なく警告していたのだから。
後悔したくないなら、見ないほうがいいと――
「別に、どうもしませんよ。何もできません。女王さまが判断なされたことだから」
エドは金の瞳をきらめかせた。ともすれば、震えそうになる身体を叱咤する。呑まれるな、怖気づくな。壁についた手を離し、止まった足を動かしていく。
「僕らは、過去を掘り起こすために来たんじゃない。あいつにもこんなこと話したくないし、知って欲しくない。その気持ちは、同じだと思っています」
管理者の突き刺さるような視線を、背中で少年は意識した。
「でも一つだけ。あいつの義妹は、ここの技術があれば空を飛べますか?」
答えを半ば予期していた問いに、返事は戻ってこなかった。その沈黙が、返答なのだ。
「僕らは、前に進むしかできないってことなんですね」
世界は変わろうとしている。それは、事実だ。人族もちらほらと中立の街へやってくるようになった。同時にエドたち『こちら側』の存在も、ゆっくりと『向こう側』を受け入れ始めている。平和を望んでいる。
過去を忘れろとは、言わない。ここで起こった出来事は、なかったことにできない。だから、トリビトたちは平和に静かに暮らして欲しいと思う。人間の影におびえることなく、笑顔でいて欲しいと。列車の窓から覗いた彼らの箱庭は、長閑だったから。
「あなたがトリビトのためだけにいるんじゃないってことは、わかりました。この足元に想像通りのものがあったとして、それを守る理由はわからないけど」