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「どこ行くの」
唐突に声が飛んできて、リンは肩を弾ませた。恐るおそる笑みを作って振り返ったが、エドは読書状態のままだ。鋭い眼差しを向けられずにすんで、リンは胸をなでおろした。あの目は苦手だ。とくに後ろめたいことをしている今は。
「のど渇いたから、何かもらって来ようと思ったんだけど」
何でもないように、ごく自然にリンは返す。エドがふうん、と小説のページをぱらりとめくった。
「オーダーはここからでもできるのに、慣れないよね。じゃあ僕のもお願いしていい? 軽く食べられるものならなんでもいいから。飲み物はホットココアで」
「うん、ココアと何かだね」
そそくさとリンが扉に手をかけた。うん、手紙を出したらもらってくるから。
「ねえ」
またかけられた声に、息をつめた。扉をあけた姿勢で固まったリンに、エドが釘を刺す。
「街へ行っちゃダメだからね。もう一度言うけど、ここはトリビトの街なんだ。キミが行っても傷つくだけだと忘れないで」
また始まりそうなお説教に、リンは苛立ちを募らせた。どうして、エドばかりが偉そうに。
「わかってるよ」
ばんっと扉を乱暴に閉めてキッと外を見る。列車は無事にこの街についた。宇宙連盟に加入している星を、なぜ危険だと断言するのかわからない。危険なら、星間ステーションなど建てないだろうに。
リンは『オーウェイン』がどんな場所なのか知らない。だけど、ここはトリビトの街でトリビトは人間に近い種族だ。なぜエドに、あれこれ指図されなければならない。親しみを感じてはいけないのか。
だいたい、エドだって同じ子どもだ。たまたま同じ部屋だっただけだ。アニエスじゃなければ、ローラおばあちゃんでも、テッサでもニコラでもない。あんな風に命令される筋合いはないのだ。
イライラが爆発しそうだった。手紙を出しにいく、ほんの数分も許されないのか。手続きは一人でできるし、問題などどこにある。
ずんずん廊下を踏みしめて進むリンの行く手に、ゴリラの車掌が見えた。エリックだ。大きく立派な身体は、遠くからでもすぐに判別できた。各車両の廊下に二つはあるシャンデリアを、彼の頭は毎度ギリギリで通過する。今は黒い制服を腕まくりし、半透明なチェックボートとペンを片手に、何かを書き込んでいる最中だ。
少年に気づくと、車掌はいかつい顔を不器用な笑みに変えた。少年の頭がすっぽりおさまる手のひらで、わしゃわしゃとリンは撫でられる。
「どうした、今日は一人か。いつも一緒にいるネコ族の坊やはどうした? ……ん?」
リンの装いに、車掌は顔をしかめた。
「もしかして出かけるのか」
「お手紙を出したくて」
「そりゃかまわねぇけどよ」
こまったなぁと顔に書いて、車掌は巨体を窮屈そうに丸めた。あいまいな笑みでリンを覗き、
「俺としちゃあ、列車を出て欲しくねぇなぁ。お前さんは人族で、ここはトリビトの街だからよ。なにが起こるか責任持てねぇ。どうしても行かなきゃならないのかい。次の街じゃダメかい」
「……エドと同じことを言う」
口の中でリンがつぶやいた。トリビトならエイダもそうだ。「待って、待って」と追いかけてくる小さなあの子の同族たちを、どうして危険だと言い切るのだろう。エイダは危険でもなんでもなかった。
エドに感じた苛立ちの原因がハッキリした。家族をバカにされたようで腹立たしかったのだ。エイダの街だね、と喜んだのはついさっきだった。ここはエイダの同族たちが大勢いる街なのに。
「んあ? 何か言ったか」
立ち上がり際に大きな身体を折り曲げて、車掌が尋ねる。リンは「いいえ」と応え、素早く車掌の脇を抜けた。そのすぐ後ろが列車の出入り口だ。今は停車中なので、扉は開け放たれている。
「あの、すぐ戻ってきますから!」
「ちょ、おい! 危ねぇって言っただろうが! 街へ出るなよ!?」
エリックが引き止めるのを無視して、リンは列車を飛び降りた。
自分でも、どうしてこんな嫌な子になっちゃったんだろう、と思いながら。
がらんとした星間ステーションを抜けたら、そこは一面の白と青だった。
建物は上空から見たとおり真っ白に塗りつぶされていて、粘土をこねたような曲線のフォルムをしていた。窓枠が小さく、出入り口が見当たらない、そんな不思議な建物だ。
空を見上げたら、雲ひとつ見当たらないバケツで塗りたくったような濃い青があった。それもそのはずだ。この街は雲海を突き出ていたのだから。
(あの膜みたいなの、見えないんだ)
外側から見たときはドーム状に膜がかかっていたが、内側からは見当たらなかった。違和感のない空が目に痛いほどだ。ステーションの日陰から外に出ると、凄烈な陽光にくらくらした。予想より温かくて、リンは上着を脱いだ。うん、これぐらいでちょうどいい。半そでで十分なすごしやすさだ。
ふと路上を黒いものが横切っていくのに気づいた。いや、あれは影だ。
「ぅわ……ッ」
リンの真上を、トリビトが舞っている。
間近で見たトリビトは、予想通り真っ白だった。髪も肌も、着ている服も、背に生えている翼も純白である。一人だけではない。視界いっぱいに見えたトリビトたちは、みんな真っ白だった。
(そういえば、エイダもこうだった)
エイダは隻翼のトリビトだったが、ミルクのような肌とふわふわした髪が白かった。トリビトとはこういう種族なのか。
リン、行っちゃヤだよぅ
どうして行っちゃうの
別れ際は泣きべそをかいて、リンの服をつかんでいた。嫌だ、いや、行かないで、と何度もなんども繰り返して大泣きしていた。エイダ、今は泣いていないかな。ケガはしていない? アニエスの焼いたクッキーが大好きでリンの分も欲しがっていた、小さなちいさな女の子。
ぜんぜん、危険なんかじゃないよ。トリビトはきれいで、大空を泳ぐように飛んでいるんだ。エイダも空が飛べたらいい。そうしたら、きっと気持ちがいいはず。
片方だけに小さな翼をもつエイダは、オレンジの目が飴玉のようで白い肌は滑らかなミルクのようだった。リンの後ろをよく追いかけてきた。リン自身は腕白なニコラの後を追いかけていた。その三人を率いるのは十四歳のテッサで、テッサの上官がアニエスだ。――いつだって、兄弟四人でいたのに。
ときどき、どうしようもなく淋しくなった。ふとしたことで、家族を思い出すのだ。みんなどうしてるだろうか、と思いをはせれば涙がこぼれた。本当は、手紙なんかじゃなく、みんなの声が聞きたかった。みんなに会いたかった。もう一度、名前を呼んで欲しかった。
ぎゅっと手紙をにぎりしめて、リンは切ない思いを押し込める。早く手紙を出して駅に戻らないと。エドにココアと何かをもらってくる約束をしたのだ。忘れてはいけない。
さて、郵便局はどこだろう。『オーウェイン』は、特徴のないよく似た建物ばかりが並んでいた。そういえば工芸の街も家の壁がずいぶん高く、思わぬところに道があって迷子になったものだ。ここはあそことはまた違った迷宮のようだ。どれもこれもが、同じに見える。
(どうして変わった街ばっかりなのかな)
不思議だった。リンの故郷は、もっと不規則にばらばらな建物が林立していた。大きかったり小さかったり、高かったり低かったりと外見もさまざまだった。レンガで組み立てた家や木の家、コンクリートでできた家。それでも粘土をこねたような建物は見当たらなかったが。
この街は新しい街のようであり、歴史ある古い街のようだ。今まで感じたことのない、不思議な雰囲気をしている。旅をしていて楽しいのは、こうして見知らぬ文化に触れることだ。家族への土産話がたくさんたまっていく。本当は、手紙だけじゃ全然足りないのだ。
「あのぉ、すいません」
丁度空から降りてきたばかりのトリビトに、リンは駆け寄った。駅の中にはヒトがいなかったため、郵便局の位置がわからなかったのだ。気軽に声をかけたのが過ちだったと、知りもせず。
トリビトは少年を見た瞬間、腰を抜かした。目を見開き、呼吸を止めて、リンを凝視する。「あ、あ……あ……」と、その顔は恐怖へと塗りかわっていく。落とした紙袋から、ころころといくつかのパンが転がった。トリビトが持っていたものだ。驚いて立ち止まっていたリンは、拾うために一歩踏み込む。それがまずかったのか。ガチガチと歯を鳴らしていたトリビトが、甲高い悲鳴を発した。ぴいいいい、ともきいいい、ともつかぬ声だった。
リンは耳をふさいだ。突然の悲鳴に頭が混乱する。え、え、と左右に視線をやっても、悲鳴をあげるようなものはどこにもない。顔をあげて、驚きに言葉をなくした。トリビト特有の赤く丸い瞳が、恐怖に見開かれていた。リンだけを映している。ざわりと、空気が揺れた。
「人間だ……」
その一言に、辺りを舞っていたトリビトの目が少年に集中した。ぎょろと動く、大きな虹彩を持つ瞳が見開かれていく。彼らは金縛りにあったように息を詰めていた。空気が凍りつく。
「あ、の……」
リンが喉にはりついた声を出したときだった。
「人間だああああ!!」
「ひい! 逃げろおおお!!」
「人間がでたぞ、人間が! 子どもたちを隠せ! 逃げるんだぁ!」
リンの声を合図に、蜘蛛の子を散らしたようにトリビトたちが消えた。耳の痛くなる悲と共に。
「あ、待って、あの! パン……」
リンが捕まえたトリビトが振り返る。ギリギリまで見開かれた赤い目と絶叫に、リンは思わず手を放した。乾いた音を立ててパンが転がる。全身で拒絶するトリビトは、恐怖に怯えていた。リンは、それ以上声をかけられなかった。
(なん、だったんだろう)
過敏な反応にリンは身体を硬直させた。訳もわからず、恐ろしさに身がすくむ。どうしてみんな逃げていくのか、わからない。一歩、一歩と身体は後退した。空いっぱいに飛んでいたトリビトは消え、白い街と青空だけになった。そこにぽつねんと残されたのは、リン一人だけ。駅へ戻ったほうがいい――そんな声が聞こえた気がした。いちゃいけない。ここにいてはいけない。ドキドキと心臓が早鐘のように鳴っている。早く、はやく列車に戻らなければ。ここにいてはいけない!
くるりと方向転換したリンは息を呑んだ。誰かが、いる。目がくらむ光の中で、リンをうかがう子どもがいる。同じようにぽつん、と立って。
(エイダ?)
妹のように見えたのは、トリビトだからだろうか。リンよりも小柄なせいだろうか。女の子だからだろうか。
あの子に訊こう。今度はもっとちゃんと話しかけるんだ。自分より小さい子だという安堵も手伝って、リンは緊張を緩めた。手紙を出したらすぐに戻ろう。エドの言うように、ここは、ちょっと変だ。
しかしリンがぱたぱたと近寄る前に、何かが飛んできた。ころころと転がったそれが石だと気づくのに、時間はかからなかった。ずきん、と肩に痛みが走る。
「え……?」
「何しにきたのよ」
羽毛のような髪の下で、赤い目がリンをにらむ。ぎゅっと握り締められた手は、ワンピースのすそをつかんでいた。まるで逃げるのを必死にこらえているようだ。リンは目をしばたたかせた。
「あの、」
「何しにきたのよ人間が! 出てってよ。ここにはあなたたちの欲しいものなんか、ひとつだってないんだから。出てってよ!」
きりりと眉をつり上げた女の子は、妹と同い年ぐらいだった。髪が短かったならエイダとそっくりだっただろう。そんな子が、顔を真っ赤にして怒鳴っている。
「ここにはもう何にもないんだから! 何の用なの。何しにきたの。今度はあたしを連れて行くの?」
無茶苦茶だった。初めてこの街に降り立ったリンは混乱するばかりだ。しかし、女の子は恨みのこもった目で睨みつけてくる。
「シエラ!」
別の声が飛んできた。少年が、上空にいたのだ。少年は翼をたたんで降りると、「お兄ちゃん」と泣きそうな女の子を背中にかばう。
二人はよく似ていた。ふわふわな髪と頬に浮いたそばかすや気の強そうな目元で、兄妹なのだとわかった。同じように白い髪をきらめかせ、背中には翼を持って、真っ白な服を着て。そのはかない印象は、アニエスが話してくれた天使さまのようだ。しかし、二人の表情は決して慈愛に満ちたものではない。
兄は自分の服をつかむ妹の腕を取ると、叱りつけた。
「隠れろって警告が聞こえなかったのか。どうして勝手に出て行ったんだ」
「だって! あいつ、あいつ、人間なんだよ。今度は何をするのか――みんながいなくなっちゃうかもしれないじゃない。お母さんも、お父さんも……お姉ちゃんだって連れていかれたんだよ!? 今度はお兄ちゃんが……お兄ちゃんまでいなくなっちゃうなんて嫌!」
「黙ってるんだ」
「でも――」
「黙るんだ」
シエラと呼ばれた少女は、ぐっと唇を結ぶと涙目でリンのせいだとばかりに睨んでくる。リンが口を開こうとしたときだ。
「何しにきた」