17
「ぼくが、降りてしまったから」
顔面を蒼白にしたリンがポツリとつぶやいたのは、エドの独白が終わってからだった。なぜトリビトであるラッカがこんなところで眠っているのか、気が付いてしまったのだ。エドが慌ててリンの手をつかむ。
「ちがう。キミはトリビトに会いたかった、それだけだ。何も悪いことはしていない。ここのヒトビトが異常なんだ」
「だってエド、このヒトが戻れないのはぼくのせいだよ! エドに、エドにケガまでさせて……っ。どうしたらいいの? 白の街へ行ってラッカを助けてって言えば何とかなるの?」
「今、キミが行っても無駄だよ! 煽るだけだってわからない?」
エドがぴしゃりとリンを叱りつける。
「トリビトは百年も昔に取り残されているんだ。目の前でラッカがパニックを起こしたのを僕は見た。白の街で人々の狂ったようすだってこの目で見た。あれはもう異常だとしか言いようがないよ。キミも見たんだろう」
子ども一人に蜘蛛の子を散らしたように消えたトリビト。その後、ざわりざわりと広がった波紋。膨れ上がった殺気と憎悪。何も知らない少年へ向けるには、あまりに過激な黒い感情。
「この街の歪みがキミにぶつけられるのは、おかしいんだ。人族だからなんて理由にならないね。どうしてあんな過激になれるの。だってキミはトリビトに会いたかった、手紙を出したかった、それだけだ。何の罪があるの。人族そのものの罪だって? そんなの、キミたちは充分支払ったじゃないか!」
トリビトたちなら暴走しても罪にならないのか、とエドがしっぽを逆立てた。
「こんなことは馬鹿げている。そうだろ?」
「だけど、だけどね、エド。じゃあこのヒトは、ラッカは、どうしたら助かるの?」
リンはあの妹を見たのだ。エイダ(いもうと)とよく似た女の子を。あの子がどんな思いでリンをなじったのか知って、ショックを隠せない。
「人間がそんなことをしたなんて……知らなかったから」
弱々しい小さな声でつぶやいて、リンが背中を丸めて立っている。
(こうなると、わかっていたから)
やさしいリンが、傷つくとわかっていたから。きちんと説明しなかったことをエドは悔やんだ。是が非でも、嫌われても止めるべきだったのだ。気軽に行動した結果として突きつけるには、あまりに、重い。いずれ知らなければならなかったことだとしても。
(でも、今じゃなくてよかったはずなのに)
子どもたちの言い合いに水を差したのは、沈黙していたヴォルフだった。
「……最下層なら」
ためらう口調は躊躇い交じりに発せられた。彼はリンとよく似た青い瞳を、子どもたちへ向ける。
「ラッカは、なんとかなるかもしれない。この街には最盛期の技術が眠っているからね」
「じゃあ、ぼくらもそこへ」
リンが目を輝かせた。
「二人の立ち入りは認めない」
「何か、見られちゃまずいものでも?」
「後悔したくないなら、見ないほうがいいと言っているんだよ」
ちらりと意識を失っているラッカを管理者が見た。当然、ラッカにも見せるつもりはないのだろう。知って欲しくない、と彼は言っているのだ。エドがリンに対して行ったような警告と同じ意味で。
最下層には、人族がトリビトに対して行った倫理にもとる何かがあるのか。自分の中のなにかを崩壊させるものなのか。想像したくもなかった。その不安が伝染したのか、怯えた眼差しのリンが、ヴォルフにかみつくエドの腕をぎゅっとつかむ。少年たちの怯えに気づいたヴォルフが、ごめんね、と苦笑した。
「本当はね、その子を助けられないままでもあそこへの道は閉ざしたいんだ。トリビト一人の価値より、あの場所のほうがずっと重要だから。でも、管理者として助けられるトリビトは助けたいと思う。これ以上黒種を増やしたくはないんだ」
黒種は、悲しいから。
そう言ったヴォルフの表情は、どこか切ない。
「隣に部屋を用意したから、二人で使って欲しい。お腹もすいてないかな」
リンがきょとんとする。エドが懐中時計をぱくんと開いた。
「もう十九時を過ぎてたんだ」
そういえば、ずっとしゃべっていたせいで、のどがカラカラだった。まだ外はほんのりと明るいけども。
「そうだよ。標準時刻ならば夜だ。トリビトたちも活動を停止し始めている」
「ラッカのことは? 僕らに手伝えることがあるなら言ってください」
「二人の手を借りなくても大丈夫。ほら、クタクタじゃないのかな」
指摘されるまでもなかった。十九時であると自覚したとたん、腹が減った。エドは昼から何も口にしていない。頭や手足の痛みも戻ってくる。特に切り裂かれた足が、痛い。そうだ、怪我をしていたのだ。応急処置を済ませていたが、まだ手当てを完了したとは言い切れない。ずきん、ずきん、ずきん、と興奮によって遠のいていた痛みが蘇ってくる。
「明日になればしてもらうことも増えるだろう。だから今はちゃんと休息をとるんだ。いいね? 二人の着替えも用意しておく」
しぶしぶエドが了承する。リンが隣でほっと息をついた。なんだよ、僕が反発するとでも思ったの。ちょっとしたことに、苛立つ自分が嫌だ。
にこりと微笑んで出て行こうとしたヴォルフに、エドはやりきれない視線を突き刺した。
「僕らは、秘密を探りたいわけじゃない。過去に振り回されたくないだけなんだ」
「それでも、過去は追いかけてくるよ。無関係ではいられない。……だれも」
閉ざされた扉に、管理者の姿が消える。くそ、と吐き捨てたエドは、振り返って保護カプセルを覗くと、思いをこらえるように拳をふるわせた。リンがここに来ただけで掘り起こされた過去がある。この先も、同じ事態の起こる可能性が十分予測できた。所在無くたたずむリンの存在が、過去を蘇らせるのだ。
それもエドの癇に障る。リンが小さくなる必要などないのに。こんなつもりなど、なかったのに。
「隣の部屋へ行こう。あのヒトが言ったように、僕らは休まなきゃ」
親指をエドは噛んだ。自分の無力さが腹立たしかった。
一人になったヴォルフが呟いたのは、二人のいる部屋からずいぶん離れてからだった。
「夜が明けると、彼らの怒りがおさまってくれればいいが……」
ヴォルフが見据えるのは、天井都市だ。茜色の日差しは血の色を連想させる。じきに本格的な夜が訪れるのだ。抗うように無数の白種たちが飛び交っていた。いつもの穏やかな雰囲気はなく、荒々しい感情が渦巻いている。耳を澄ませば、あの鳴き声が聞こえてきそうだ。ぴぃぃぃぃ、ともきぃぃぃぃとも聞こえる、あの声が。
「止められるだろうか。あの時と、同じように」
こんなことなら、外見だけでも他種族のものであったらよかった。自分はオリジナルのコピーでしかない。中身(記憶)さえ継承できたなら、容れモノなどどうでも良いのではないか――。ヴォルフはそこまで考えて苦々しくため息をこぼす。無意味なのだとわかっていた。人間は星の数ほどいる。これはトリビトが克服しなければならない問題だ。
それに、姿かたちを変えることは、逃げることと同じだった。罰を背負うなら、このままの姿でなければ意味がない。ヴォルフガングという人間でなければならないのだ。
「……こうなることを見越して、あの子を呼んだのだかな」
小さな人族の少年。きっとあの子が鍵として選ばれたのだろう。不思議とヴォルフには察しがついた。面影が記憶と重なったのだ。ならば今の事件も、偶然ではないのかもしれない。こうなる可能性を見越していたように感じる。
(僕に動けと)
(彼女を目覚めさせろ、と?)
きっかけは、ささいなことなのだ。小さなひずみ一つで、たわめられたストレスは爆発する。トリビトは『温厚になるよう』作られた種だ。だけどああなってしまったら、同族でさえ見殺しにする。人間が、あそこまで彼らを追い詰めた。そんな風に彼らを『作り変えた』。
ネコ族の少年は正しい。人間は傲慢で、愚かで、どうしようもない。
だがそれは、人間だけに限った話ではない――
ヴォルフは背後に立った黒いトリビトに気づき、息を呑んだ。立ち止まると彼女はやってくる。長い黒髪が艶やかにゆれた。マーサだ。
「こんなところまで付いてきてしまったのか。ダメだよ、すぐに戻らなければ」
黒種たちに、ここの空気は毒だ。キレイ過ぎるのだ。彼女を促すヴォルフだったが、細い指先が伸びてきて動けなくなった。頬に暖かな感触がする。マーサが微笑んだまま少し首を傾けた。
どうかしたの。
音声にならない問いかけが、聞こえてくるようだ。
どうかしたの。
ヴォルフの僅かな動揺を読み取って、問いかけてくれる。心配というと、違うかもしれない。彼らに深い意味はないのかもしれない。管理者の心の揺らぎに関心があるだけなのかも。
「なんでもないよ、マーサ。なんでも……」
本当の弟に出会っても彼女はもうわからない。繋がりは感じても、肉親だと理解できないのかもしれない。リンをいち早く見つけてヴォルフに知らせてくれたのは、無意識に弟の面影を探していたのだろうか。
細い指を自分からはがし、ヴォルフは彼女の思いを拒むように視線をそらした。やさしくて悲しい黒種たちと管理者は、決して同じものにはなれない。
「きみも、上へ戻りたいだろうね……。黒種にしてしまって、守ってあげられなくて、ごめんね……」
「ラッカの妹と会えないかな」
エドがそんなことを言い出したのは、シャワーを浴びて着替えてからだった。管理者は子供服を探し出してくれたようで、白いシャツとズボンを身に着けていた。白種たちとお揃いである。
エドがリンと同じシンプルな格好をしているのは、不思議だった。リンの知る限り、エドはパジャマだってフリルのついた服なのだ。そうしていると、ぼくとあまり違わないんだ、なんてリンは改めて思った。
二人とも、同じ子どもだ。無力な子ども。
リンとエドは、シンプルなベッドの上にいた。刺繍の入ったひらひらしたシーツでもなく、羽毛の布団でもないベッドだ。シングルで、二つ並んであった。エドは不満そうにため息をこぼしたものだ。
管理者の用意してくれた部屋は広く、少し離れたところに食事のできるテーブルと椅子もある。だが、窓は縦長はめ殺しのものが四つ並んでいるだけだった。リンの手のひらほどの大きさしかない。もしかしたら、トリビトたちを警戒しているのかもしれなかった。
食事も終えて(エドは予想通り大量に食べた。ずいぶんお腹がすいていたらしい)、さあ寝るぞ、という頃合だった。
「妹って……あの子?」
「そう、キミを黒の街へ落とした子」
エドは身づくろいをしている。ネコ族の習性なのか、尻尾の毛を念入りにブラッシングしているのだ。耳や髪の手入れも怠らない。それゆえか、リンが濡れたままの髪で横になるとぷんぷん怒った。「傷むでしょ、ちゃんと乾かして梳かしなよ」と叱られる。その影響か、鳥の巣状態だったリンの頭は、日ごとまともになっていく。
「あの子を説得できたらなって。きっと悪い子じゃないと思う。キミを傷つけて泣いてしまうような子なんだ。ラッカが薬で眠らせているから……今も眠ってるかもしれないけど。あの子を説得できれば、他のトリビトたちも話を聞いてくれると思うんだ」
「でも、白の街に出たらトリビトがいるよ。エドが出て行っても、きっと……」
「だから何とかして話ができないかなって。あのね、僕はここに下りてくる前に、本国へ連絡取っちゃったんだ。ラッカに無理言って通信機貸してもらって」
エドの持つ『カードブック』は、星をまたいで通信できない。普段は列車の回線を利用していたのだ。あっけらかんと、エドはそんな告白をする。
「近日中に迎えの船が着く手はずになってる。だから、その前に騒ぎをおさめる必要があるわけ」
リンがどうして、と尋ねる前にエドは回答を続けた。
「列車のあるなしに関わらず、僕らは白の街に上がらないとここから出られない。――そうでしょう? いつまでもこの街にいられない。……ラッカのことは気にかかるけど、行かなきゃならないから」
緑に金の混じった目が、輝きを増した。少し前まで沈んでいたエドが嘘のようである。リンは手回しのよさに言葉なかった。エドは、子どもであることを言訳に使わない。大人が解決してくれるのを待てばいいのに、待ってられない、と動こうとする。自分で考えて、自分の足で、エドは歩こうとする。他人の導きなど必要がないとでも言うように。
そんな風に考えられるエドが、まぶしかった。一人だと認識したとたん、ひざを抱えるしかできなかったリンとは大違いだ。身がすくんで、動けなかった。アニエスと連絡を取ることさえ躊躇って、蹲った。ヴォルフの庇護に安堵して、助けられるままだったリンとは。
工芸の街でもそうだった。エドは、立ちつくしたリンの背中を押してくれた。エドを見ていたら元気が出てきた。