15
奇妙な組み合わせだった。
なぜ、この場に女性を――それも、威圧することもできない少女を――人族は連れているのだろう。
最初に緊張を破ったのは、身体から強張りを抜くように呼吸をした人族の男だった。彼は少し困ったように少年たちを見つめ、
「すぐに戻ってくれないか」
「え……?」
「こんなところまで降りてはいけない。早く天井都市へ戻ってくれないか。話ならその途中で聞こう。歩けるね?」
人族の男は一定の距離をあけて止まった。男は眉尻を下げて微笑んでいる。それが誰かに似ているようで、エドには違和感があった。他種族の区別は難しい。黒髪で青い目の人族に、知り合いなどいない。記憶を探っても誰とも重ならない。
困惑を抱えるエドの腕から、ラッカがずるりと落ちた。ぺたんとしゃがんだ白いトリビトは、呆然と、呟いた。
「姉さん……?」
暗がりに少年の震える声が散った。
「姉さん、姉さんなのか?」
振り返ったエドの脇を、ラッカがすり抜けていく。エドが止めるのも聞かず、彼はつまずきながら躍り出た。奥に控えた黒髪の少女を目指すのだ。言われてみれば、黒いトリビトの彼女とラッカは似通ったところがあった。ほっそりしたあごや、手足の形、目元なんかがそっくりだ。だが、彼女はラッカとは真逆ではないか。パーツが似ていても、ラッカは真っ白な少年だ。
「姉さん。姉さんなんだろ? 俺だよ、わからない? ラッカだよ!」
「ラッカ! 彼女は真っ黒じゃないか。キミの姉なんかじゃ――」
我に返ったエドが引き離そうと腕をつかむと、白い少年は乱暴に振り払った。
「そんなことないっ! 間違えるわけがない。姉さんは人間に連れて行かれた。ずっとずっと、探していたんだ!」
ラッカの言葉が引き金となって、別の誰かの台詞が頭に響いた気がした。ラッカの態度、ラッカの表情。エドにも覚えのある感情だった。願いが叶ったと喜んだのに、横から水をさされ激しく反発した、生々しい記憶。ずっと胸にしまっていたものが、浮上する。
『リリィは……リーゼロッテはお前とはいられない。わかるだろう! この状態じゃ、どうしようもないんだ』
これはエドに向かって放たれた言葉だ。あれは、そう、年上の友人の台詞。ぴくりとも動かない姉を抱えた、彼の台詞。あんな風に怒気をあらわにした彼を見たのは、初めてだった。
『そんなことない! リィ姉さんはここにいるじゃないか!』
姉は魂の抜けた人形のように、友人に抱えられていた。呼んでも揺さぶってもエドを見つめてくれない瞳。ちがう、うそだ、と頑なに否定したのはエド自身。泣きじゃくって手を伸ばしたのに、今も空をつかむばかりで。
(姉さん)
知らず、ラッカと同じ言葉を唇がなぞっていた。脳裏をよぎったのは、まだエドが一人ぼっちじゃなかった頃のこと。あの頃は姉さんがいたのに――
ラッカが黒の街へ案内を買って出たのは、捕らわれた家族について探りたかったのだと、遅まきながら気づいた。なんのかんのと理由をつけて、一緒に降りてくれる誰かを探していたのだ。
「姉さん、シエラが待ってるんだ。帰ろう。一緒に、白の街へ帰ろうよ」
エドの腕から、ラッカの身体がするりと抜け出た。トリビトの少年は勢いづいたまま、倒れるようにして『姉』の腕を取る。頭を彼女の胸に押し付けて、ラッカは呼気をひそめた。姉さん、と肩を震わせながら繰り返すのだ。
しかし冷たい刃は、容赦なく降りかかった。
「残念ながら……、彼女は古い記憶を持たないよ」
「どういう意味だ!」
叫んだのはラッカだった。
「きみの姉だというのは記録上本当だ。でもきみが弟だと、彼女はわからない」
背の高い、ひょろりとした男は眉間に皺をよせて、うなる。
「彼女は家族がわからない。きみが喚いても届かない。話すこともできない。彼女は黒種になってしまったんだ。――ちゃんと調べてから来るべきだった。よりにもよって会わせてしまうなんて」
黒いトリビトは、小首をかしげてラッカを見つめていた。弟を映す瞳は「どうしたの」と告げているが、それは機械的な仮面のような笑みだ。身内へ向ける、あたたかなものではない。生きた笑顔ではない。戦慄したラッカのようすが、痛々しい。
「……姉さんに何をした。黒種ってなんだ。どうして俺がわからないんだよ。姉さん、姉さんっ。俺だよ、弟のラッカだよ! わからないの?」
黒種の少女を揺さぶるラッカは強張った顔をしていた。黒種の少女は、自分がなにを呼びかけられているのかさえ、理解してないようだった。ラッカが、項垂れる。
「そんな……じゃあ、父さんと母さんも? 生きていても俺たちがわからないのか……?」
「私たちがしたことは、彼女を延命させただけだ。そのために失った部分も大きいが、彼女はこうして生きている。きみのご両親は、残念ながら助けられなかったんだ」
「うそだ。うそだ! お前が姉さんをこんな風にしたのか! うそを言うな。姉さんが、俺たちを忘れるわけが、な、い……?」
激昂しているラッカの膝が、突然折り曲がった。え、という声はラッカ自身が発したものだ。なぜ自分が倒れたのか判らないらしく、起き上がろうとして失敗していた。「ラッカ!?」とエドが少年の肩を抱きとめたが、それに応じることさえできていない。先ほどと同じく眩暈がするのか、ラッカはかがんだ状態で頭を押さえ込んでいた。額にびっちりと汗を浮かべて。
「診せて」
それまで動かなかった人族が、顔色を変えて寄ってきた。ラッカの首筋へと指先を伸ばす。それをエドが弾いた。ラッカを守るように抱きしめて、睨みつけた。これ以上近づくことは許さない、と威嚇して。
ラッカは、頭を押さえてぶるぶると震えている。頭痛がするのか、歯を食いしばっていた。こんな状態の彼を、さらに追い詰めるような真似はできなかった。
「無理もない……。白種の身体じゃここでもすでに危険なんだ。早く戻らないと手遅れになる」
男は、背後に控えた黒種の女性へ「マーサ」と呼びかけた。彼女は持っていたスーツケースを広げる。そこから注射器を取り出した。中に水色の液体が満たされている。エドは息を呑んだ。
「何なんですか、それは!?」
「何をしているんだ。彼を苦しめたくないだろう!?」
エドが気おされた隙を突いて、男はラッカの腕を取った。なんだ、このヒトは本当にラッカを案じているのか。判断に迷う。男の言うことが本当なら、ラッカは助かるのだ。だが、注射針を見たラッカは青ざめた。
「やめろ、嫌だ、なんだそれは!」
腕を振り回して抵抗する。鋭い爪が、男を掻く。
注射器が破損しないよう身を引いた男は、激怒した。
「これは薬だ。きみの回復を手伝うためのものだ。黒種に落ちていいのか? 投与が遅れると死ぬ可能性もある。助ける手段を持つ私に――見殺しにしろと言うのか!」
「人間が、助ける? 俺を助けるだって? 俺たちをこんなにしたのはお前たちだろうが! ふざけんなよ、信用できるか、気持ち悪い! 俺に触るな!」
白かった肌を真っ赤に染めて、ラッカは人間を睨みつけた。頬も、鼻も赤く、エドのつかんだ肩も熱かった。ぜいぜいと息をしながらも、精一杯虚勢を張っているのだ。身体の不自由さのため、逃げられないと悟っていながら。
近づいたら、殺してやる。それぐらいの気迫がエドにも伝わってきた。
「マーサ」
人間の一言に、ラッカを黒種の女性が抱きすくめた。
「な……っ、ねえさ……っ」
凍りついた少年とは対照的に、彼女は微笑んでいた。先ほどとまったく変わらない笑みで、嫌がるラッカの動きを封じるために片腕を背中で捻り、床へ押さえつける。小さくラッカが悲鳴を発しても、躊躇なく彼女はそれをしてのけた。弟の言葉より、人間の男の命令を優先したのだ。
ラッカの心がぐしゃりと潰れた。
そんな音が、聞こえた気がした。
注射はすぐに終わり、開放されたラッカはぐったりと倒れた。焦点を結ばない虚ろな目で「うそだ、うそ……」と繰り返していた。憎んでいる人間の前で、無防備な姿をさらしたのだ。静かになったトリビトの少年からは、抵抗するためのエネルギーが抜けきっていて、エドは見ていられなかった。まるで、抜け殻だ。
「これはトリビトにだけ感染するんだが……坊やは大丈夫かな」
坊やと呼ばれ、エドは少々気分を害しつつ、「エトムントです」と名乗る。男はホッとしたようだった。エドくんだねと確認され、ネコ族の少年がうなずく。
「平気です。特に身体の異常は感じられません。……さっきの薬は」
「毒の進行を抑えるための薬だよ。危険なものではない。とにかく、彼を天井都市へ運ばなければ」
男は、敵ではなさそうだった。
しかし信用できない。先ほどのやりかたはラッカに酷だ。それを承知でこの人は選んだ。
ラッカはエドが運ぶと申し出た。連れて行く途中で彼の意識が覚醒した場合、エドのほうが混乱は少ないと判断したのだ。躊躇う男をけん制し、ラッカを支えてエドは立ち上がる。
一歩、一歩と踏み出した。大丈夫、歩ける。
「外にいたときから、立っているのさえ辛そうでした。だからここへ入ったんです。さっきの……死ぬというのは……本当ですか。そして――あなたはどなたですか? ここにまだ人族がいるなんて」
「エドくんの想像通り、私はトリビトの研究者だった一人だ。ここの管理を女王さまより仰せつかっている。名前はヴォルフガング。私で三人目になる」
女王さまから任命された管理者だ、ということがエドをホッとさせた。それなら、ヴォルフガングと名乗る彼は味方だ。しかし人間であり、さらには、
「三人目?」
管理者は淡く笑い、「こっちだ」と通路を進んでいく。建物の内部がどんどん作りかえられていくのがわかった。二人を覆う光は、壁が発光しているのだと途中エドは悟った。
新たな路が、敷かれていく。殺風景で素っ気ない路が。
「僕は、ヴォルフガングという人間のコピーだ。この街の管理者として生きるためだけに存在している」
「コピーって……まさか、クローン……?」
それは禁止されている技術だった。手足や、臓器、身体の一部ならば養体・養肢として医療的に使用されることはあるとしても、意思を持ち人格を持つ身体のコピーは違法だったはずだ。しかし、女王さまが許可していると言う。疑惑と嫌悪の入り混じった眼差しに、男は微苦笑を返した。
「ここは、どうしても第三者の手がいる。トリビトは二種に分かれてしまっていて、彼ら自身が自分たちを管理できない状況だ。とくに黒種たちは意思が希薄で、呆然と座り込んでしまう者も多い。それらをまとめ、彼らの意思を尊重するのも私の役目なんだ」
ラッカのように、トリビトは身体が弱い。繊細で、脆弱で、ふとした拍子に絶滅してしまう可能性さえある。
「それなら、あなたじゃなくとも」
「傷ついたトリビトがさらに追い詰められないようにと、女王さまのご配慮だよ。彼らの生態は特異だ。異種族の研究者たちが押し寄せたら、再び傷ついてしまう。少なくとも今はまだ、そうした目にあうのはよくない」
先ほどのラッカのパニックや、リンが降りただけで騒然となった街のようすを思えば、正しいのかもしれない。女王さまはトリビトたちを見限ったわけじゃないのだ。しかし、なんて皮肉なのだろう。彼らを追い詰めた者たちの手を借りねば、種として維持することもできないのか。
(今は時間が必要なんだ)
いつかトリビトたちの傷が癒えれば、違った対処をすることもできる。
(だけど、もう開放されて百年近く経った。どれだけの時間が必要だと……?)
時がとまったようなトリビトの感覚が、ずれているのだ。この世界では長命な種族と短命な種族との乖離が深刻なことになっていた。寿命だけではない。さまざまな種族同士で溝ができている。それぞれで価値観が違い、寿命が違い、主張が違う。とくに、人族は長く生きても一五〇年が限界だろう。普通の人族たちは八〇余りでこの世からいなくなっていくのだ。トリビトの存在さえ、彼らは忘れてしまうに違いない。
あまりにも種として脆弱すぎやしないか。エドはそのあり方に不安を覚えた。肩でぐったりとしているラッカでさえ、異常だ。身体も精神も、彼らはキレイ過ぎる。繊細で脆く、ガラス細工のようだ。
「私が任されたのは、研究者として彼らに責任があるからなんだ。僕もトリビトたちが好きだから、この仕事も苦ではないし……」
私と僕、と使い分けているこの管理者が、エドには不思議だった。こんなヒトがトリビトを追い詰めたのだろうか。男は、エドが凝視しているのに気づいて苦笑した。
「どうしても接触の多くなる黒種たちはともかく、白種たちとは接触を避けてきたから、この子が知らないのは当然なんだ」
嫌な事実を教えてしまった、とヴォルフガングが付け足す。
「これは私たちの罪なのだと、わかっているけど。ダメだね、つい忘れてしまう。自分は罪人なのだと」