11
真っ白な街は何かにおびえているように、息を潜めていた。ヒトの気配はあるのに、誰の姿も見えない。物音一つ、聞こえない。
「……嫌な街だな」
ステーションを飛び出したエドは舌打ちすると、どんどん街の奥へと進んでいく。リンは手紙を出すと言っていた。ならば郵便局を探せば、足取りはつかめるはずだ。手首につけた受信機をオンにして、周囲を見渡した。ヴィーグエングで懲りたエドは、発信機をリンのバッグにつけたままにしていたのだ。あの街でちょこっと一緒に行動した変態……もとい女装刑事がリンに付けていたものを、そのまま持ってきていたのだ。
迷宮のように入り組んだ街でも的確に動き、はぐれたリンと合流できたのはこの発信機のおかげだ。その後、リンのかばんを盗んだドロボウと衝突したり、列車へ飛び込み乗車をしたせいで、返しそびれてしまった。あのバタバタした出発では仕方がない。
というわけで、大いに有効活用させてもらっているのである。
だが、エドは受信機を見つめて眉間にしわを寄せた。反応がさっぱりなかったのだ。発信機が外れたのか、受信エリアから離れているのか。電波が遮断されたのか。
「くそっ」
歩きながら、エドは街の奇妙さが気持ち悪くなっていた。この街は、真っ白だ。汚れが一つもない。ゴミ一つ落ちていないのだ。真っ白な路上を踏みしめていると、自分だけが特異な存在のようだ。
いくばくか進み、街を浄化するロボットがいることに気付いた。黙々とゴミを拾い、汚れを取り除いている。それも、白かった。
ふと、辺りを見渡してみて思う。この街は何かで読んだ「のっぺらぼう」みたいだ、と。街に表情がないことが、この街の顔なのだ。
(エンジャーグルはごった返してた。色んなヒトたちが溢れかえってて、色んな文化がせめぎあっていた。機械の特色が強かったよね。でもそれによってヒトビトは活気づいていた)
エンジャーグルは、境界の街で商人の街で、中立の街だ。あそこはひずみがあったけれど、賑やかであたたかい街だった。しかし、ここは。
見上げれば雲ひとつない、目の覚めるような青。それは道の先でも必ず覗いていた。どの道も幅に差はあれど彼方に空があるのは、この街が完璧なまでに整然と碁盤状に設計されているからだ。道の途切れ目が際立っていた。「ここまでがお前たちの世界だ」と強調しているようで、癇に障る。
(これじゃ監獄と変わらない。……彼らをこうしたのは、人間か)
つかつかと早足で郵便局を目指すエドが、懐にしまった時計をちらりと見た。タイムリミットまでもうわずかだ。列車はやはり諦めねばならないのか。こんな道半ばで、いきなり。
見つけた郵便局も、予想通り空っぽだった。だれもいない。見慣れたコンピューターはいくつか鎮座していたが、これをリンが操作したとは思えない。ヒトに尋ねれば早くすみそうなのに、聞き込みさえまともにできない。
それでも行ってくれるの、エトムント。
お前は私を軽蔑するかもしれない。これが……事態を悪化させるかもしれない。それでも……
約束をした。
思い出す記憶のヒトは、いつだって寂しそうで悲しそうだった。あのヒトは命令なんてしなかった。いつだって勝手に動くのはエドのほうだ。だが、今回は違う。約束したのだ。あいつ(リン)を必ずクィダズに連れて行くと。
「おい、さっきから僕を見ている奴、いい加減にしろ。出て来い!」
出て来い、来い、来い、と反響する声は空に吸い込まれて消えた。数秒待ち、エドは舌打ちして駆け出す。ジグザグに走って、幅の狭い路地を見つけては飛び込んだ。とっとっと、と壁を蹴り上げ屋上へと駆け上がる。着地をしたあと、後ろを振り返ったが誰もいない。わずかに眉をひそめ、そのまま平らな屋上伝いにジャンプした。
(大体これで見つけられるんだけどな)
ステーションを出てしばらくしてから、纏わりつく視線を感じていた。どの道を選んでも、どこへ行っても追いかけてくる。今も続いている。エドはうっすらと笑った。かくれんぼと鬼ごっこは、お手のものだ。隠れるのも、追いかけるのも。
(小さいころ散々やったからな、と)
勢い良く走った。どんどんスピードを上げていく。どこを通っても目に付く景色はあまり変わらない。酔いそうだ。不快さを堪え、目についた路地へ飛び込んだ。壁にべたりと貼りついて息を潜める。ここで捕まえてやる。エドの猫の目がきらりと光る。付けてきているのは、どいつだ!
だがエドの勢いは挫かれた。ばさ、という微かな羽ばたきに唖然となって真上を仰ぐ。逆光の中見えたのは一つの影。驚きに目見開かれた赤い瞳。予想を裏切って現れたのは、ほっそりして小柄なトリビトだった。それも手の届かない上空に――
あっ、という声は二人が同時に上げたものだ。
「……トリビトは飛ぶんだっけ」
エドの口から思考がつるりとこぼれる。せっかく罠をはっても、これは空を飛ばない者に対して有効だ。翼あるトリビトが空を飛ぶのは当たり前なのに!
思わぬ失態にじたばたしたくなったが、とりあえず付けてきた奴は見つけた。内心で恥ずかしさにもんどり打つエドの前に、ふわりとそれは下りてくる。真っ白な少年だった。肌も、髪の毛も、服装も。ただその目だけが鮮やかなほど、赤い。
相手がなにか言う前に、エドはキッと睨んで牽制する。尻尾が山なりに曲がって揺れた。
「僕に何の用だ」
上背はエドの負けだった。歳も、相手のほうがいくつか上かもしれない。そばかすの浮いた少年は身構えるエドをじろりと見つめた後、露骨な舌打ちをした。ヒト違いか、という呟きを耳が拾う。かすかに顔を引きつらせたエドを無視して、トリビトはふん、と鼻を鳴らす。
「勘違いだ。あんたを付回していたわけじゃない。……悪かったな」
「は? あれだけ人を追い回して人違い?」
「そっちこそ用がないならさっさと戻ったら。もう列車は出発するはずだろ」
「列車の出発が間近なのは知ってるさ。連れを探してるんだ。手紙を出しに街へ降りた。それっきりまだ戻らない。お前たちは空を飛べるんだ。見かけなかったか」
相手の反応を慎重に窺いながら、エドはカードブックを取り出した。手のひらより小さなそれに触れると、立体映像が浮かび上がる。走っているリンの姿がそこにあった。
「この少年だけど」
トリビトは血相を変えた。
「お前、人間の仲間か!」
見る間にトリビトが、翼を広げる。羽ばたいて上空へ舞い上がるつもりだ。そうはいくか、とばかりにエドがその足をつかんだ。エドのジャンプ力を侮っていた翼持つ者は、突然かかった負荷に仰天する。「げっ!?」と素の悲鳴をあげ、二人はもつれながら路上に落っこちた。
「何考えてんだよ! っぶねぇ、放せ!」
「嫌だね。突然逃げ出すなんて、何か知っていると告白しているようじゃないか」
白い少年の動きが鈍った隙をついて、エドは馬乗りになった。乱暴にカードブックをポケットにしまい、トリビトの腕の関節を極める。暴れるなら多少痛めつけてやろうか――と考えたときだ。
「何なんだよあんた。放せよ! 何もしてない奴にいきなり関節極めんのか。尋問でもしようってのか、初対面の奴に。ネコ族って奴は乱暴もんの集まりか」
露骨な嘲笑がエドの頬を張る。……その通りだ。自分の不甲斐なさを苛立ちにして、他人にぶつけているだけだ。しかし認めるのも癪で、エドも冷たい笑みで応戦した。
「逃げない、暴れないって約束するなら。そっちこそものを訊ねた旅人に対する礼儀がなってないんじゃないの。この街は不気味だしね」
そのときだ。空を裂くほどの汽笛が響いた。
エドがせつな硬直する。その背後で、青空に真っ黒な線が走った。真っ直ぐかなたへ引かれていくライン。エドは振り向けなかった。列車が、いってしまう……。
その覚悟はしていたはずだった。だけど現実に置いてけぼりを食らい、こんな異質な場所でたった一人だけ。
突然、身体を絡めとるような不安が、覆いかぶさってくる。汽笛は遠のいて、きっと米粒ほどの大きさになったはずだ。
動揺を抑えこめたのは、常日頃から冷静であれと努力してきた成果だろう。吸って、吐いて、息をしたら唇を結んだ。旅をするツールは列車だけとは限らない。だからここにいる分には問題ない。こんなトラブルなど処理できる。だから……今はまず、リンのことを。
凍りついたエドから腕を引っこ抜いたトリビトが、決まり悪そうに瞬いた。
「おい、あんた。列車が――」
「いいんだ」
強い口調でエドは台詞をさえぎった。自分自身の不安など、今はどうでもいい。優先しなければならないものがある。
「戻れないことは承知していた。……いいんだ」
それでも、声から不安を剥ぎ取れない。奥歯を噛み締め、エドは深く息を吸い込む。平静を何とか装って、
「さっき見せた人族について……何でもいいから、教えてくれないか。知っているなら」
トリビトに会える、と喜んでいたリン。この碁盤の目の街で、どうして見つからない。追跡をかわそうとあちこちを駆けたときだって、街は動くものがいなかった。見晴らしのよい建物の屋上から見渡しても、がらんとしていた。不安が足元から這い上がってくる感覚をエドは必死に打ち消した。
きっと、リンは発信機も届かない場所にいる。電波状況が悪いのかもしれない。奴のことだ。好奇心に駆られて方々を覗きまわるうちに、迷子となったのだろう。怯えるトリビトを追い掛け回したのかも。だから、迎えに行かないと。
命令するんじゃない。リンにしたように、頭ごなしに怒鳴りつけるんじゃない。命令じゃなくて――
「頼む、教えてくれ。あいつは、どこにいる……?」
しかし、トリビトの少年はちっぽけな祈りさえ打ち砕いた。
「妹が……上空から突き落とした」
目の前が真っ暗になった。突き落としたってどういうことだ! エドは怒鳴りたくなった。だが激情を抑えると唇を噛んで「そうか」と、少年を解放する。トリビトが人間を受け入れるはずがない。だから行くな、と牽制したのに。傷つくだけだと、わかっていたのに。
「どこへ落ちたか……知らないか」
「わからない。あれが起こったのはステーションの前だった。妹に訊いても知らない、の一点張りだ。それより、どうして人間なんかと一緒にいるんだよ」
「それこそ関係のない話だろう」
エドは、用済みだ、とばかりにトランク片手に歩き出す。リンはどこまで落ちたのだろう。街のどこかに倒れているかもしれない。ケガをしているだろうから、早く探し出さないと。最悪の結果を予想して、エドの表情がかたくなる。血にまみれたリンの姿が、一瞬脳裏をよぎった。お願いだから、死んだ、なんて、ことにだけは……!
「待てよ」
エドを、今度はトリビトが引き止めた。
「こっちだって混乱しているんだ。どうして人族がやってくる。ネコ族のくせに、なんで人族と一緒なんだ。おかげでこっちはパニックだ。みんな隠れて動けない。俺たちは息を潜めて、身を隠すしか手がないからな!」
最後にはヒステリックに声を荒げ、少年は翼を毛羽立たせた。感情に任せて広がった翼の影がエドをすっぽりと包み込む。
「あいつが、何かしたか」
「存在だけで、俺たちを傷つけるんだ人間は!」
ヒトのいない街に、その声がこだました。エドの目は、冷たい光を放ったまま翼持つものを見つめる。
「だからって、何もしてない旅人を傷つける理由にならない。ネコ族を野蛮だと罵る前にまずはトリビトが礼儀を知るべきじゃないのか。あいつは、過去なんて知らないんだから」
「礼儀? その言葉は人間にこそ言うべきじゃないのか。そうだ、人間はすぐに忘れる。過去の話で片付けようとする。だが俺たちは違う。忘れたくても忘れられない。あいつらが俺たちをこんな風にしたんだから!」
「あいつはっ!」
エドのトランクが音を立てて倒れた。エドは刺すような目でトリビトを射抜くと、
「トリビトに会えるんだって、喜んでいただけだった」
白い少年は息を呑んだ。
「あいつは、僕が止めるのも聞かずに降りたんだ。お前たちに会うためだけに! 危険だって何度も忠告したのに!」
噛みつくように怒鳴ると、落ち着かせるように肩でエドは呼吸する。そうだ。ただ純粋に会いたいと、思っただけだろう。家族を思い出して、話をしたかっただけなのだ。手紙を出すための軽いコミュニケーションでも、リンにとっては重要だったのだ。トリビトと、話をした、という事実だけが。
危険じゃなかったよ。きれいだったよ。
きっとそんな風に、あいつは言いたかっただけだ。手紙を出してこれたよ、と。僕に向かってなんでもない風に。