10
ぎゅ、と腕に力を込めているテッサでさえ、どこか身体を震わせている。リンは、せめて嗚咽を殺した。反射的に拒絶してしまった兄弟たちを見た、エイダの顔。近寄らなければ、と思うのに足が動かなかった。ぼくもいっしょだよ、といつも言っていたのに。こうしてテッサに抱きしめてもらうまで、魂が抜けたように見つめるしかリンにはできなかったのだ。
バタバタと足音が聞こえ、蒼白になったニコラとアニエスが駆け込んできたのはその時だった。一歩中に入ったアニエスが息を呑む。驚愕まではリンたちと同じだ。しかしそのあとエイダへと、アニエスは歩み寄った。誰も近づけなかった場所へ、ゆっくりと血の川を越えて進むと膝をおる。壊れ物に触れるようにそっと抱きしめたアニエスの、エイダ、という声。どうしてこんなことを、と問う呼びかけに虚空を見つめる幼いトリビトは、ぽつりと呟いた。
エイダは、人間に、なりたかったの。
部屋の時間が、止まった気がした。エイダは小さな手で固まっているアニエスをつかんで、顔を寄せて、大声で泣き出した。きっと今まで泣くのを堪えていたのだろう。リンは、初めてエイダが声をあげてわんわん泣いているのを見たのだった。
エイダは、みんなと一緒になりたかったの。人間に、なりたかったの。翼なんか、いらなかった! どうしてエイダはみんなと違うの? どうしてトリビトなの? どうして?
悲痛な叫びは、しばらく止むことがなかった。たとえ翼を切ったとしても、エイダはトリビトなのだ。望んだ人間になどなれやしない。そんな悲痛なまでの訴えがリンの胸をえぐった。エイダの抱える闇は、想像以上に深くて、暗くて、リンでは支えることも守ることもできなかった。ただ、ごめんなさい、とテッサにしがみつきながらくり返すしかできなかったのだ。
天井都市を星間列車から見たとき、リンは確かに感動していた。自由に空を駆るトリビトの姿に、その美しさに。エイダもあの中にいればいいのに、とすぐ思った。あの楽園で暮らせたらいいのに、と。そうしたら、あんな言葉を投げつけられることはなかった。エイダがあんなことを、せずにすんだ。
「翼が欲しい」と願ったのは空を飛びたいからじゃなかった……。
(ぼくがトリビトだったなら、エイダにあんなことさせなかったのに)
寂しい思いなどさせなかったのに。エイダをあの暗いふちから引っ張り上げられたかもしれなかったのに。
翼があるか、ないか。ただそれだけがどうしてこんなに、重たいの。
目の前でうつぶせに眠る本物のトリビトに、いっそ憎悪さえ感じてしまう。その容姿が、どこかエイダと重なるからよけいだ。
(この翼がエイダにあれば)
(こんな翼が)
リンの暗い思考の渦を止めたのは、どん、という壁を叩いた音だった。
目線を上げたリンは、眉を寄せる。壁を叩いたのはエドだったのだ。乱暴なことをするタイプじゃないので、苛烈な態度のエドに不安を覚えた。エド、と問いかけるリンを無視して、つかつかとカプセルに寄った少年は、挑むようにヴォルフを睨みつける。
「もし、ラッカがこのまま目覚めなかったら、どうなるんですか」
トリビトの管理者は目をそらした。その腕をネコ族の少年がつかむ。
「どうなるんですか」
重ねて問うエドの態度は、誤魔化したりしたら承知しないと、訴えている。観念したヴォルフが目を伏せた。
「最悪……死んでしまうかも、しれないね。黒種になるにしてもリスクが高いうえに、その代償は大きすぎる」
「ラッカは守らなきゃいけない妹がいるんです。帰らなきゃいけない場所があるんです。天井都市へ戻す以外に方法はないんですか。この支柱のさらに上部へ行くとか、他に対策はないんですか。こんなところで目覚めを待つ以外に何か!」
「彼が目覚めないことにはどうしようもできないよ。やれることはやったのだから」
「どうしたら、いいんですか。僕に……何ができますか」
ヴォルフの上着をつかみかかる感情的なエドは、歯を食いしばった。「ラッカを、助けて……!」と祈るように訴える。
「なにがあったの」
友だちの悲壮な態度に、リンは部外者だとわかりつつ口を挟んでいた。あのエドが、なりふり構わずヴォルフに絡むなんて信じられなかった。しかし、リンの問いかけに二人は目を背ける。口をつぐんだエドの肩をゆさぶり、リンは問いただす。
「なにがあったの、エド!」
それはリンが気を失っている間のできごと――
* * * *