拳で抵抗する23歳元現代日本人
受付嬢の視線に気付いたゴルカが振り向いた瞬間だった。そこには、右太ももを胸に引き寄せ片足立ちしている陽彩が居た。刹那、鋭く放たれた前蹴りが心臓ごと貫かんばかりに胸板に突き刺さった。
「ぐふぅっ!」
如何に体格が良いゴルカであっても、不意を打つ全力前蹴りを受ければそれなりにダメージは通り、背中をカウンターに強く打ちつけた。酒場の客があっけに取られる。赤子のように吹き飛ばされた男がいつの間にか復活し、戦闘態勢を全開にさせているのだ。放たれる異様なオーラが酒場全体を包み込み、固唾を呑んで見守る観客で溢れかえる。
「あ、アニキ!」
取り巻きの男達がゴルカに駆け寄る。ゴルカは背中を抑え、小さく唸っていた。
「てめぇ、何しやがる!」
取り巻きの一人が叫んだ。陽彩はエールで張り付いた前髪を掻き上げると、上着を脱ぎ捨て逞しい上半身を露わにした。体型が変わりにくい体質のお陰か、運動しなくなり暫く経った今でも引き締まった身体。ボディビルダーのそれとは違い、アスリートの合理的な筋肉と喧嘩に明け暮れた過去に紐づく戦いの筋肉のハイブリッドに、周りの客は物珍しさすら覚えていた。
「この野郎!」
一人が陽彩に掴みかかった。陽彩は差し出された手を左腕で払い除けるとそのまま相手の襟首に手を回し、鼻の頭目掛けて頭突きを放つ。男は鼻を抑えてよろめいた。奥から生温かい血液が流れ出し、手のひらを紅く染めあげていく。咄嗟に首を垂れると、零れ落ちた血の雫が床を濡らす。
だが、無慈悲にも陽彩は追撃の手を止めることは無かった。相手の胸倉をつかむと強制的に顔を上げさせ顔面に右の一発をお見舞いし、そのまま裏拳を頬に放つ。そして流れるようにボディーに拳をめり込ませた。
この時、ようやくゴルカの取り巻きの残り2人が加勢に来ていた。
陽彩は胸倉を掴む左手を解くと、前蹴りで蹴り飛ばし2人を足止めする。2人が回避している間、陽彩は近くの卓からジョッキを左手に、スプーンを右手に取った。
「オラァッ!」
正面に向き直った時、目の前には拳が飛んで来ていた。陽彩がこれをひらりと躱すと、遅れて2人目が殴り掛かろうと近付いてくる。敵の迫りくる右に対して、陽彩は左のジョッキストレートで応戦した。
「ぐうっ!」
ジョッキをメリケンサック代わりに装備しているため、その分リーチが伸びていた。バッチリカウンターが決まって、敵はたたらを踏んだ。陽彩は隙を見逃さず、フックパンチの要領で右のスプーンを頬に突き刺す。そして、左のジョッキの飲み口で敵の顎をカチアゲた。男は抜けた奥歯をまき散らしながら後頭部から床に崩れ落ちる。陽彩がとどめに繰り出した右ストレートは空を貫く結果となった。
陽彩の右が空振りした瞬間、後頭部に強い衝撃を受けた。攻撃したのは最後の取り巻きであり、続けて陽彩を正面に向き直させると右の拳で顔面を殴りつけた。男が拳を振り抜くと、陽彩の首が90度勢い良く回転する。男が続けて左を正面から叩きこもうとした瞬間、陽彩は殴られた勢いそのままその場で回転し、肘を側頭部に打ちこんだ。
男は思わぬ反撃に、近くの卓を巻き込んで倒れこむ。男は立ち上がろうとするが、不意の肘打ちが効いたのか膝が笑って立つことにままならず、遂には両膝を付いた。陽彩は左脚で強く踏み込むと、自分を見上げる顔面を狙って蹴りを放つ。取り巻きの中で唯一、陽彩に一矢報いた男が鮮血を吹き散らして沈んだ時、陽彩の身体に何かがぶつかる衝撃に骨が軋んだ。
「てめぇ、よくも俺の子分を!!」
仲間が殴り倒される様をただ眺めるしか出来なかった男が、己を奮い立たせるように叫んだ。気付けば、近くの椅子を敵に向かって投げつけていた。
宙を舞う椅子は見事陽彩に命中した。握っていた食器は放り出され、床を滑るように転がっていく。
「ってーな、クソ」
悪態を吐き、陽彩が立ち上がる。強く頭を打ち付け皮膚が切れたのか、額から血が垂れだした。
ゴルカは、陽彩に対して恐怖は抱かなかった。生意気だ。なめやがって。痛い目見てもらう。といった怒りの感情が支配している。過去にも自分たちに楯突いた者は少なくなかったが、大抵ボスであるゴルカに睨まれれば逃げ出したものだ。それでも立ち向かった勇敢な者もいたが、暴力を振るえば忽ち大人しくなっただろう。この街の住民の殆どは搾取される側であり、自分は支配する側の人間だという矜持があった。
「もうやめて下さい!これ以上は冒険者資格の永久はく奪ですよ!」
突如、2人の間に飛び込んだのは受付嬢だった。両手を広げ、陽彩を庇う様にゴルカの前に立つ。線の細い彼女の肩は、恐怖で小刻みに震えていた。だが、彼女の雄姿も空しく、非情にも平手打ちが彼女の端正な顔面を襲った。
「うるせぇ!引っ込んでろ!」
ゴルカと彼女は大人と子供以上の体格差がある。平手打ちされた受付嬢は周りの観客たちが受け止めてくれたが、紅く腫れた頬と涙目になった姿は陽彩の怒りを買うには十分だった。
「てめぇ何やってんだ!」
陽彩が叫んだ。ゴルカは受付嬢など意にも介さない様子で、一直線に陽彩に突っ込む。
「死ねぇ!」
怒声と共に、ゴルカが殴りかかる。巨体を活かし、体重を乗せたパンチを受ければひとたまりもないだろう。周りの観客は、彼に殴り殺されるいつかの未来を想像して息を呑んだ。
陽彩は懐に飛び込むことで、巨体をすり抜けるように背後に回り込む。空を切る、というより殴り飛ばすと表現した方が似合う空振りに、観客は悲鳴を上げる。
振り返ったゴルカの左が襲う。陽彩はダッキングして躱すと、鎧の隙間を狙って脇腹に拳を放つ。続いてゴルカが右を繰り出すと、またしても陽彩はこれを避け、脇腹に2発打ち込んだ。しかし、これだけではタフなゴルカに響くことはなかった。打撃を受けつつも裏拳を放ち、陽彩の顔が跳ねる。そして、丸太のような右手に首を掴まれ、70kgの肉塊を軽々しく持ち上げた。
「ぐっ!」
体格差にモノを言わせた首絞めに、陽彩が初めて苦悶の表情を浮かべる。陽彩は顔を狙ってパンチを放つが、腕のリーチは拳1つ足りず空を切る。ゴルカは左手も加えて、このまま首をへし折ろうとせんばかりに力を込めた。陽彩は何とか逃れようともがくが、徐々に締め上げる手はビクともしない。
「かはっ・・・!」
段々表情に焦りが滲みだす。脳への酸素の供給が滞り始め、思考と視界に靄がかかり始めていた。陽彩は兎に角逃れようと、無我夢中で放った蹴りがゴルカの顎をカチアゲた。力の籠っていない蹴り上げだったが、一瞬握力が緩んだ隙を突いて指を滑り込ませる。
ぱきんっという乾いた音がして、ゴルカの小指の先が手の甲に付いた。
「っ!!ぬあああっ!!」
雄たけびをあげ、痛みを根性で打ち消すと陽彩を床に叩きつける。背中を強く打ち、肺の中の空気が飛押し出される。陽彩は無理矢理にでも大きく息を吸うことで呼吸を整えようとあがいた。
ゴルカはというと、外れた関節を荒療治で戻すと、床に倒れた陽彩の顔面を踏みつけようと右足をあげていた。陽彩の本能が警鐘を鳴らす。急いで寝返りを打つと、先ほどまで頭があった場所に踵が振り落とされた。
「ふんっ!」
紙一重で躱すと、すぐさま反撃に出る。陽彩は逆再生のように寝返りを打つと、右肘で爪先を潰した。足の親指の爪は割れ、骨にはヒビが入っただろう。
「ぐぅあああっ!」
全身を走る激痛に、たまらずゴルカは体を屈めた。陽彩はゴロゴロ転がって距離を取ると、首を使って跳ね起きる。
「っの野郎ォ!!」
ゴルカは怒りに身を任せ、両手で掴みかかる。対して、陽彩はその場で回転すると、左のサイドキックで巨体を押し返した。キックの威力は鎧を通り越して分厚い胸板を打ち抜き、ゴルカはたたらを踏む。陽彩はこの機を逃さず、追撃を仕掛ける。右足で踏み切り跳躍すると、右肘をゴルカの側頭に叩きつけた。カミソリのような鋭い一撃に眉尻の皮膚は容易に裂け、ぱっくり開いた傷跡からは夥しい量の血が噴き出した。だが、陽彩の連撃はとどまらない。突き放す前蹴りで体勢を崩すと、流れるように椅子の背もたれを掴み、体をねじって遠心力を活かし叩きつける。勢いある一発に脚は取れ、ゴルカは首を垂れる。返す刀でカチアゲると、今度は座面と顔面が吹き飛んだ。
「うおおおあっ!!」
背もたれが叩きつけられる寸前、ゴルカが雄叫びと共に息を吹き返した。渾身の右フックが陽彩を襲い、首が跳ねる。頭部からの出血が続いたためか、力が入らず膝が折れた。
「ぬ、ぅおおおお!」
膝が床に付きそうになるのを堪え、強く己を鼓舞し足を踏ん張る。
陽彩は限界が近づいていることを悟っていた。素早くケリを付けなければ、このままジリ貧でやられてしまうだろう。
「フーッ!フーッ!もう許さねぇ!」
ゴルカの堪忍袋の緒は完全に切れていた。怒りに肩を震わせ、椅子で殴られた頭からは血が流れ出していた。腰から細身の短剣を抜くと切っ先を真っすぐ陽彩に向ける。ただならぬ空気に女性は悲鳴を上げ、男たちのどよめきの声が響いた。
「俺は支配者なんだ!お前みたいなぽっとでの雑魚が逆らっていい男じゃねえんだ!・・・殺してやる!冒険者なんかやってられるか!」
「もうやめろ!衛兵を呼んだぞ!」
「黙れ!この街の衛兵なんか雑魚の集まりだろうが!・・・もういい、キレちまったよ。ここにいる全員殺して、逆らう奴らは皆殺しだ!」
ゴルカは何とも残酷な未来を宣言した。
「だが、先ずはお前からだ。お前だけはバラバラに切り刻んでイヌの餌にしてや「やってみろ!!!!」
酒場全体を包み込まんばかりの怒声がゴルカの言葉をかき消した。
直後、ゴルカが急激に距離を詰め、左手に持った短剣で首筋を欠き切ろうと突き出し、短剣は真っすぐ陽彩を貫いた。飛び出した切っ先についた血液と、その光景に女性が悲鳴を上げた。
「ごががっ!」
だが、致命傷足りえなかった。
「なっ!?」
短剣は、陽彩の口から口内に侵入し、左頬を貫いていたのだ。陽彩は歯を食いしばり短剣が抜けないよう固定すると、渾身の右でゴルカの顔面を殴り飛ばした。続けて短剣を握る左手の小指と薬指を逆方向に折り曲げる。
「ああああっ!また!!」
堪らず短剣を放し、悲鳴を上げた。敵への意識が切れた瞬間、嘆くゴルカの目前には陽彩の膝が飛び込んでくる。顔面に狙いを澄ました飛び膝蹴りに、ゴルカの巨体は吹っ飛んだ。仰向けに沈んだかと思うと、遂に意識を完全に手放し動かなくなった。
「す、すげぇ・・・冒険者相手に勝っちまった」「あれだけの巨漢を素手で・・・?」「おい、あれは誰だ?この街の人間じゃないだろう?」
周りの観客たちは各々の感想を口に漏らす。陽彩が突き刺さった短剣を引き抜くと、飛び散った鮮血が床を汚した。
「おいアンタ、酷い怪我だ。早く手当てを」
満身創痍の陽彩を見かねて、見知らぬ男が駆け寄った。だが、陽彩は彼の言葉を気にも留めずよろよろと歩き出すと、ゴルカに近寄り馬乗りになった。
「あ、アンタやめろ!」
ただならぬ気配を感じた男が叫んだ。逆手に持った短剣を振り上げた時、またしても周囲から悲鳴が聞こえた。周囲の混乱の中、短剣を心臓に突き立てようと振り下ろす瞬間、手首を掴まれ一瞬にして投げ飛ばされた。視界は天と地が入れ替わり、軽々しく一回転したと思うと背中から床に落ちる。右手に握った短剣ももぎ取られ、周囲の注目は一点に集められた。
「殺しはやめな。こいつに殺す価値なんか無いよ」
「あ、貴方は・・・?」
あまりに突然の出来事で正気に戻り、自分を投げ飛ばした張本人を見上げた。視線の先にいたのは、とある一人の女性だった。
みんなで一斉にかかればよかとに、お前ら馬鹿やなぁ~~ウンウン