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空は青いはずなのに、どういうわけか曇っているようだった。あちこちで立ち上る煙が、その青い空をどうやら隠してしまっているみたいだ。硝煙の香りがあちこちから漂い、景色はモノクロのように見えた。
軍服二人と、若い女二人は浜辺にいた。目と鼻の先にある防空壕の入り口に、若い女二人を先導するように軍服二人は足を踏み入れる。「ここからは他言無用だ」実際にそう言われたわけではないが、そういう雰囲気がひしひしと伝わってくる。これが歴史の教科書で見た太平洋戦争か――それとも日露戦争か――馬鹿にはわからない。名前は知らないが戦争には変わりないだろうと若い女の一人は思った。歴史の教科書に載っていた写真に飛び込んできたような感覚。現実にそういうことがあるなどとは、数か月前までは夢にも思わなかっただろう。しかし現実だ。現に私はここに居る。デカルトだっけ? おっ、私頭いいじゃーん。
防空壕の中は声が響く。入り口付近を通り過ぎると、左右の壁に寄りかかっている兵士たちが何人もいた。そのどの人物もすすけた顔をしている。顔が浅黒く、そしてそれは身なりも同じだった。同じ軍服を何日も着続けているのか、建設現場の作業服とは程遠い色だった。血染めの上着や、破れた膝。どこを見ても黒く、素肌のような白い色、明るい色が見当たらない。
立ち込める臭い。現代では絶対に吸うことのない空気。
そんな中で、若い女二人はこの時代にはそぐわない格好をしているはずなのだが、彼らは彼女らに見向きもしなかった。
防空壕の深部は、通路よりも広い空間になっていた。やっと明るい色を見つけたと思ったのはそのときだった。汚れているとはいえ、川の字に敷かれた白い布団の上に寝かされている兵士たち、それを手当てする女性の肌、包帯、それらが真っ黒だった景色を僅かにだが明るく染めた。
やはりというべきか、こちらが防空壕に入ってきたということにも気づいていないようだった。眼鏡の軍服が、「母さん」そう言ったとき、まるで自分の息子の声だけは知っているから反射的に反応できた、とでもいうように、兵士の手当てをしていた一人の女性が振り向いた。
その表情を見たとき、優しい人、と訳も分からず思った。周りの状況に見向きもできないほど切羽詰まった状況にあり、兵士たちを手当てしているものだからてっきり余裕がなくて、「なんだよこの忙しいときに!」と鬼の形相でもするかと思ったのだ。
全然違った。
寧ろ涙を流していた。
その涙を拭い、「ごめんね。母さん、やらなきゃいけないんだ」そう言って、軍服二人を数秒舐めるように眺めた後、女性は再び怪我人の兵士の方へと向き直り手当を再開していた。
見れば、どの女性も怪我人の兵士の手当てで必死のようだ。必死なのに、でも切羽詰まっていない。まるで我が子を看病するかのように優しい手つきと表情で永遠と手当てを続けている。優しいのにどこか凛々しく、仕事だから仕方なくやっているという印象を受けないその光景は、強烈に身体の奥の芯を震わせた。涙を誘った。なぜ? 現代が平和だったから? 女性の生き様に感銘を受けたから? 自分が体たらくで、小さなことにも意地を張ってきたから?
違う。
わからない。
でもそこに涙を誘う現場がある。光景がある。
軍服がしゃがんで女性の肩に手を回していた。
「母さんもういいんだよ。もう負けるんだよ。いいんだよこんなことしなくて」軍服は作業をやめさせようと女性の手を上から握った。
「邪魔だからあっち行ってな!」その手を女性は跳ねのけた。女性は再び淡々と作業をこなし始めた。軍服の目には涙が――なかった。どこか割り切っているようで、まあそうだろうなと、納得しているようだった。
「母さん、最後のお願い。手を止めて。お願いだから。そうしてくれないと俺――」
時間が止まったように流れているようだった。逆流しているようだった。まるで自分たちはここに居ないかのような感覚。誰も自分らのことを見ていない、黙認すらしていない。流動的。淡々と流れる時間。作業をやめない女性たち。兵士の呻き声。最後に声を出したのは軍服の母親が手当てをしていた兵士だった。
「あなたの息子さんですよね。俺はもういいから……」呻くようなか細い声でそう言っても、女性は手当てを続けた。まるで何も聞いていないかのように。聴こえていないかのように。
軍服がその兵士の喉元をフォールディングナイフで掻っ切ったのを見たのは、その直後だった。血飛沫が上がり、女性の比較的白い顔にそれが飛んだのも見て取れた。この位置からは見えないが、当然喉元を掻っ切った軍服本人の顔にもその血しぶきはかかっていることだろう。
喉だけを切っても人は死なない。出血多量で絶命するまでには猶予があった。兵士はひゅうひゅうと声にならない息を喉元の隙間から漏らし、まるで水面にある餌を食らおうと口をパクパクさせる金魚の様だった。顔面にある口は見せかけで、本当の口は喉元である。そんなふうに。
しばらく血を止めようと作業を続けていた女性も、さすがにもう手遅れだと気づいた。我に返ったように女性は軍服に掴みかかった。
「あんた! 自分が何したかわかってんの!!」その鬼の形相は、先程想像した優しいものとはかけ離れているくらい、いきり立っていた。
掴みかかる母親とその形相。自分の息子が恥だ、と最早言っているも同然だった。掴みかかられている息子の方は、身体の力が全部抜けてしまったかのように、母親の掴みかかる程の勢いに腕を揺らし、そして押し黙っていた。実の母親、それも優しい母親だと方舟の中で話していたのを思い出した。俺たち兄弟をずっと見守ってくれていた。しきりにそんな話を二人は語った。
そんな優しい母親が息子にキれている。兄が掴みかかられているのを見たからなのか、母親が掴みかかっているのを見たからなのかはわからない。弟はそれを見ていられなくなったのかもしれない。あんなに仲の良かった二人――親思いの兄に、息子想いの母親が掴みかかっている。それもあんなに昂った表情で――その光景に辛抱が足りなくなった。本当はそうじゃないでしょ。もっと仲が良かったでしょ。なんでなの、ねえなんで。戦争って人をおかしくしちゃうの? たとえ戦争だって親子の仲は永遠のものでしょ?
そういう感情をむき出しに、耐えられなくなった弟は、「やめてよ」と二人の身体を引き離そうとした。
しかし、遅かった。
確かに遅かった。
そもそもの企てからすれば、防空壕の中に入って母親を見つけたらそのまま刺し殺す予定だったのだ。だからその点で言えば遅い。そして、弟が母親と兄を引きはがそうとしたのも手遅れ。
うっ、と痛みを感じた母親は、掴みかかっていたその手から力を失くし、その場に崩れ落ちた。
「兄貴! 正気か!」叫んだのは弟だった。弟だって知っていたはずだ。母親を殺しに行こう。それは我々四人の周知の事実だった。にもかかわらず、母親が刺されたリアルと、事前に想像していた光景との差に耐えられなくなったのだろうか。弟は地面にうずくまる母親の肩に手をまわして「痛くない? 痛くない?」と必死に声をかけながら背中をさすっている。奥で兄に刺された兵士は、その光景を見ているのか、息絶えているのかわからなかった。しかし、微かに喉元の切り口の血が跳ねたのを見て、まだ生きているのだろうと思う。虫の息には変わりないはずだが、その微かな意識と呼吸の最中、自分を手当てしてくれていた女性の背中と、弟がその背中をさする光景とを目の当たりにしているようだった。
今度は、兄が母親と弟の間を引き裂こうとした。「どけ」とぶっきらぼうな声が響き、爪先立ちでしゃがんでいた弟の身体は、簡単に後ろに転んだ。「待って!」とすぐに態勢を戻した弟は、兄のしようとしていることを知っていたからだろう。「待って!」ともう一度叫び、母親の背中に手を伸ばそうとした。
しかし、弟の手が母親に触れる前に、彼女は額から地面に倒れた。その様は、まるで最後に「ごめんなさい」とでも言うように掌を合わせ、お辞儀をするようだった。
兵士に比べればまだ白かった母親の肌の色は、深紅に色を染めた。首元の動脈から血液が溢れ出ていた。
その光景を呆然と眺めていた。兄も、弟も、兄が喉元を掻っ切った兵士はすでにこと切れたようだった。周りで治療を行っていた女性たちも、深手を負った兵士たちも、皆がその光景を眺めていた。その中で一人、浅傷だろう兵士が、兄の背中に近づいているのが見えた。
短刀を片手に、振り被って近づく。それに兄は気づいていないようだった。母親を刺した兄も、兄は兄で母親を弔っているのだろう。掌を合わせ、お辞儀するようにでんぐり返しをし、横に崩れた母親の亡骸と、地面に広がる血溜まり、母親の表情と目の虚ろ。白目が充血しているのか血溜まりに頬をつけているせいか、染まった赤。それを呆然と兄は眺めていて、背後の気配に気づかない。
その光景を見ていた誰もが思った通りの結果になった。兄は短刀で頭を割られた。もうそんなことしても意味ないのに――そう思ったのは、当初の予定なら母親を殺したあと、兄弟ともども一緒に自害する予定だったからだ。
無意味な殺しだった。兄は抵抗することなく崩れ落ちる。その光景を見た弟は、頭に血が上ったのか、荒い息を立てている兄を切った兵士に掴みかかろうとした。その勢いが跳ね返されたように、まるでスタントマンの様に後方に宙を舞い、落ちた。同時に彼の対角線上にいた兵士の一人が流れ弾を食らったからなのか、弟の身体が宙から降ってきたからなのか、呻き声を上げた。
その大きな銃声は防空壕によく響いた。
数人の兵士を引き連れて真ん中に立っていた白髪の男は、多分偉い人なんだろうなと、この時代を生きていない若い女性二人にも分かった。光沢を放つ黒い軍服は汚れているとは程遠い。その周りを囲うように立っている数人の兵士たちの服装も、血濡れで膝が擦り切れているということもない。
将軍みたいな偉い軍服は、無言で再び銃を撃った。硝煙の香りがする――そう思ったときに悲痛な声を上げて倒れたのは、兄の頭を短刀で割った兵士だった。
多くの女性や兵士が「次は自分かもしれない」と怯えてその光景を目の当たりにする中、二人の女性が駆け出した。最初、それは逃げようとしたのかと思った。しかし、防空壕の通路は偉い兵士たちで塞がれている。その隙間を銃で撃たれずに潜り抜けるなんてほぼ不可能であり、リスクがあると思った。
実際、彼女たちが逃げようとしたのではないと気づいたのは、偉い兵士たちの前に膝間づき、必死に頭を下げる光景を見たときだった。彼女らは泣きながら何か叫んでいた。どうかお助けください、若者たちの勇姿に免じて、そんなような言葉だったと思う。しかし、最後までその光景を見届ける前に、視界が薄くなる。白み始め、貧血の際の砂嵐のように視界がぐにゃりと歪んだ。
最後にぼんやりと聴こえたのは、二発の銃声だった。涙ながらに土下座を繰り返し、他人のために頭を下げることのできる、己の身分を理解している女性二人。それか、この時代にはそぐわない服装をした我々二人。どちらが打たれたのかはわからない。ただ、どうせなら土下座を繰り返す女性二人ではなく、私たち二人が撃たれていればいいなとぼんやり思う。
この世に生まれて大したことをした覚えはない。だから最後に身代わりにでもなれれば最高なのにな。ジャンプの漫画みたいじゃん。勇ましいでしょ? 私たちも。
若い女性の先祖に当たる軍服兄弟の母親が消えた今、彼女たちはもうこの世に存在しないことになった。だから撃たれても撃たれなくてもどのみち消える身なのだ。それじゃあ勇ましいとは言えないか。仕方ない、そういうことにする。
あれ、なかなか息が切れないな、おかしいな、おかしいな。そう思っているうちに、なぜ軍服二人は母親を殺そうと思ったのだろうか、疑問に思う。そもそも子孫である自分たちが生きているということは、この先も軍服兄弟の母親は生きたという証拠だ。
――戦争の苦しみと、これから先生きる筈の幸せと。彼らが何を思ったのかは、馬鹿だと揶揄され、身分を自覚し、本当にそうなってしまったゆとりの彼女にはわからなかった。
そのときやっと、身体から五感が消えた。