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眼鏡のブリッジ部分を人差し指で押し上げる。階段を降り、鉄柵の鍵を開けようとしたが、すでに南京錠の鍵は開いていた。先客がいるのだろう。無駄にギイギイと音を立てる鉄柵を開け、中に入ると歩き出した。
幾平米もある地下室――地下駐車場の柱をすべて無くしてしまったような空間は、一歩踏み出すだけで足音が響いてしまうほどの静寂を保っている。眼鏡の軍服は、自分の立てる足音に耳を澄ませながら奥に進む。自分の足音以外、何の物音もしなかった。先客はおらず、単に鉄柵の鍵を閉め忘れただけだろうか。
やがて視界が明るさを増してきた。奥に見える明かりは、祭壇を照らす日の光だ。祭壇の位置だけ吹き抜けになっており、ロケットの先端の様になった天井は、地上から突き出しているはずだ。天井は鮮やかなステンドガラスで彩られており、日を通したステンドガラスは祭壇一帯を蒼、赤、黄色、紫、鮮やかな遮光色に変えていた。
祭壇の前には誰かが立っていた。やはり先客がいたようだ。物音がしなかったのは、その人物がその場から一歩も動かず、物音を立てていなかったということのようだった。
「花、綺麗だろ」
眼鏡の軍服は少年の背後から声をかけた。少年はこの静寂の中で突然声をかけられたというのに、驚くそぶりどころか振り返ることもしなかった。
話しかけたはずの言葉が独り言になる。静寂に溶けていった一文字一文字が、残響となる。
祭壇には数えきれないほどの花が敷き詰められている。祭壇だけではなく、祭壇の周り一帯も、一つの部屋を花で埋め尽くしたような場所である。眼鏡の軍服と少年が立っているのは、祭壇に続く通路の上だ。法事の際に焼香者たちが列をなす通路に二人は立ち、関係者たちが座っている両サイドは花束で埋め尽くされているといった具合だ。
「この花は、ステンドガラスの彩りを引き立て役にするくらい綺麗だろ?」
実際、この空間に入ると誰もがそう思う。本来美しいはずのステンドガラスは、この部屋一帯に敷き詰められた花々の美しさによって彩りを掻き消されてしまう。
「そんな花が、実は枯れているだなんて夢にも思わないよな」
眼鏡の軍服は驚くべき事実を伝えてやったつもりだったが、少年は些か驚きもしない。ただじっと、視界を占領する花々を見つめていた。
「この空間に敷き詰まってる花ってのはさ、すべて枯れているらしいんだ。その証拠に、もう何年もずっとこの花は花弁を開いたままだ」
軍服は眼鏡の位置を直した。
「でもこの綺麗な花の中に、一本だけ枯れてない花があるみたいなんだ。でもその花も普通とは逆で、枯れている状態を咲いている状態だと呼ぶみたいなんだ。意味わかんないよな。言い伝えではさ、その『筈れ花』って呼ばれる枯れない花が枯れて、花を咲かせたときが潮時なんだとさ。訳わかんないだろ。この舟も俺たちも、全部消えてなくなる。そういう予言めいたものなんだと。でも、その花が咲いちまったら、どの花なのかわかんねーから意味ないよなあ。咲くよりも先に枯れた花を見つけ出して、別っこにしとかねえと」
少年は軍服の声を片耳に、目の前に広がる花々を眺めていた。
「そんなよくわかんない花でもさ、なんか眺めたくなるときがあんのよ。最後にこの花だけ拝んどこーと思ってさ」軍服はそう言うと過去を思い出すように語った。
「お前の素性とか全然知らねーけどさ、この方舟に乗ったってことは、大体想像がつくよ。俺が生きていた時代は戦争ばかりでさ、毎日毎日お国のためにとか、戦うことしか考えてねえ時代なんだ。贅沢は敵だ、勝つまでは、ってそんなことを必死に噛み締めていた時代なんだよ。それを理由に、男は命を懸けてるんだからって女を忌みものにして、人を切って、撃って、焼いて、何が大事とか何が道徳に恥じないことなのかとか、考えてる余裕がないくらい切羽詰まった時代なんだ。だから戦争のなくなった時代を生きてるお前とか、レイさんとか羨ましいなあって思ったけど、そうでもなかったな。何処に行っても不都合ってものは存在するんだな。花が色とりどりであるなら、人間もまた色とりどり。誰かに好かれる花もいればこいつには好かれるけどこいつには好かれない花がいる。いろんな色がある限り必然なんだろうな。戦争がなくなっても苦しんでる奴は苦しんでるし、寧ろ、悪や不条理ってものがないとそもそも成立しない、そういう世界なのかなって思うようになったんだわ。どんだけ便利になっても、どんだけ娯楽が増えたとしても、例え昔みたいに人を殺し合ったりしなくなったとしても、結局それは表面的に変わっただけであって、何かを削って得たことに過ぎない。地球とか人類っていう本質事態は、何も変わらないのがこの世界なんじゃねーかな」そこまで言うと、軍服は踵を返した。
「じゃあな、少年。最後にそれだけな」
少年は無言で軍服の方を向いた。
それに気づき、「なんだ?」と問う。少年は、しかし喋らなかった。ただじっと軍服の目を見ていた。
「ここで会ったのも何かの縁かもな。またどこかで会えるといいな。お互い違う身なりで肩並べられるといいけど」
軍服は手を上げながら、去っていった。
遠くで鉄柵が閉まる音がした。
それを聞いた少年は、祭壇に敷き詰められた花々の方へ向き直った。祭壇に踏み入り、花の一つひとつを掻き分け始めた。