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ラフネの造花  作者: 面映唯
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7

 少年は、建物の扉の一つに手を伸ばした。(きし)む音を響かせ開いた。扉の向こうに広がったのは、段々畑の中腹のような景観だった。建物の中に入ったはずなのに、そこは確かに段々畑のどこかだった。天井も壁も見つからず、中に入り切って扉を閉め、後ろを振り返るとそこには扉だけが残されていた。扉の周りには青い空と緑――段々畑が広がっている。


「早く服脱いじゃいな」


 黎奈の声だった。


 渓流の岸に穴を掘ったかのように、周りを大きな石で縁取る。穴の底に河川の浸食作用で丸くなった石を敷き詰め、張られた湯の上からは湯気が渦巻き、立ち上っている。


 銭湯ではない。


 温泉だった。


 段々畑の中腹にある露天風呂。見方によれば棚田の田んぼに張った水――それが温泉だというだけで見た感じはさほどおかしな光景ではなかった。


 建物の中に入ったかと思ったら、そこは段々畑。その中腹にある温泉。


 ――そうか、ワープ扉みたいなものか。


 少年が引いた扉は、盆地の中腹に作られた露天風呂に繋がる扉だったということだ。


 少年は服を脱ぎ捨てた。買った当初は真っ白だったはずのTシャツは、薄汚れている。Tシャツを放り、ナイロン生地のハーフパンツを脱ぎ捨て、下着を脱いだ。腹部、股間周辺だけにそよ風が吹いてきたような感覚を覚える。素っ裸になり、視線を泳がせる。手の届きそうにない遠くに萌える山並みと、薄い雲に侵食されたような青白い空。どこからか(すずめ)の声が聴こえてきそうな山間部で、少年は素っ裸で立っていた。つっかけていたサンダルを脱ぎ、揃えると、正真正銘の全裸姿になった。湯気が立ち(のぼ)り、感度が敏感になる。熱度を感知した少年の身体はぶるっと震え、腕一面にさぶいぼが出た。誘い込まれるように、露天風呂を縁取る大きな石の上に足を乗せた。


 爪先を湯舟にそっと差し込む。また全身にさぶいぼが走った。底に足をつけ、左足を湯舟に浸け、そのまま腰を下ろした。全身のさぶいぼを浄化するようにじわじわとした熱感が体中を浴びせる。冷たく固まった身体が溶けて、柔らかくほぐれるように湯は温めた。


「どう? 気持ちいいでしょ」


 湯気で曇った視界、対面の円周に黎奈がいるようだ。少年は黙ったまま頷くと、「そう。よかった」と声が返ってくる。


 黎奈は両手の指を組んで伸びをすると、立ち上がった。湯船の中を歩いているようで、少年の元に大きな波紋が押し寄せてきた。湯気が視界を薄く遮り、少年の前に黎奈がたどり着いたときには、少年の目にははっきりと一人の女性の裸体が映し出されていた。ふくよかな胸が目に入り、自然に視線を落とすのと同時に、滑らかなくびれと細い大腿部、膝小僧、すらっと伸びた脚が湯船の底に続いているのがわかった。いったん視線を完全に湯船に落としたところで、少年は見上げた。黎奈の顔がはっきりと見える。唇を巻き込んで首を傾げる彼女の顔は、華奢であるからだとは裏腹に、ふくよかな女性がもっている優しそうな印象と同じものを与えた。肩にかかる程度だった髪の毛は、バンスクリップで後頭部にまとめられていた。目が合ってしまったせいで再び視線を落とそうとした少年だったが、彼女の胸を直視するのを恥じたのか、視線は首元で止まった。


 細い首だった。首の軟骨が筋を作っていた。鎖骨の窪みが大きく、より首の細さを強調させる。彼女の頬はこけておらず、寧ろふっくらとした頬のせいで、その差が露骨にわかった。


 黎奈は少年の隣に腰を下ろした。少年は熱気を感じた。人が一人隣に来ただけで体温が上がったようだった。その反面、体温が逆に奪われてしまったかのように、湯船が温めているはずの自分の身体の熱を、感じなくなってしまった。


 同じ熱でも温かさが違った。


 表面的な熱ではない。


 黎奈が隣に来たことで火照(ほて)ったような感覚を持ったのは、人間そのものが与える温みだろう。


「ねえ、キスしよっか」


 黎奈は少年の肩に触れた。こちらを向かせようとしているのだ。少年はされるがままに彼女と対峙(たいじ)すると、振り向いた先の彼女の顔が思った他、近距離だったため、咄嗟(とっさ)に身を引いてしまった。


「私とじゃいや?」黎奈はまた首を傾げた。上下の唇を巻き込むようにして口角に窪みを作る。自然と頬がぷっくりと浮かび、そこに悪意はない、善意しかないのだと少年に訴えてくる。


 身じろぎせず、起きている事象にただただ呆然と(さいな)まれていた少年の口元を、黎奈は自分の唇で塞いだ。んっと声が漏れる。彼女の舌が少年の口内に滑り込んだのだ。(まさぐ)るように舌先をチロチロとする仕草は、手慣れたものだった。と少年が思ってしまったのは、あまりにもその舌の動きが自分の舌の動きと相まっているように感じたからだった。以前にも同じことをした、それも一度ではなく何度も同じ感覚を手にしている――ような気がした。少年の舌がいつの間にか彼女の舌と絡まっていたのだ。


 なんだこれは――己の中にある邪悪な汚れを黎奈に吸い取られているようだった。彼女の器にぽたっぽたっと落ちる汚れの粒は、まるで点滴が少しずつ人の体内に落ちていくようでもあった。「私の旨い飯はキミの汚れなの」そう言わんばかりの舌の動きだった。


 下唇を吸い合う。卑猥な音がそれなりの音で聞こえている。


 近距離での口づけに、目を開けていても焦点の合わない黎奈の額が見えるだけなので、目を閉じていた少年だったが薄っすらと(まぶた)を開けてみる。やはり焦点は合わない。辛うじて視界の下端で視認できる自分の鼻先に、彼女の鼻先が当たって潰れている様。彼女の閉じられていた瞼が開く。少年と視線が合う。近すぎた彼女の顔は、少年の口元から離れて行き、ピントが合った。


「ちょっと刺激が強かったかな?」


 少年が呆然としていたせいか、黎奈は呟いた。


「でもさ、いつかは知らなくちゃいけないと思うんだよね。ほら、小さい頃ってセックスとか性についてって大人は教えてくれないでしょ? 人間である以上成長するに従って、性知識なんて、本能的な好奇心で自然と身につくようにできてるんだから、間違った性知識を身につけられるくらいだったら小学校できちんと教えればいいだろうに。それをしないから誤った認識の大人が生まれ続ける。汚らわしい、隠すべきこと、っていうセックスに対しての認識がさ、なんかちょっと嫌なのよね。オープンになればレイプがなくなるかって言うとまた別の話になるんだろうけどさ、恋人同士になったら毎晩セックスするのが当然のことみたいな認識でいた方がさ、その恋人同士ももっと幸せになれる気がしない? 毎晩同じ寝床で寝てるのに、手を出していいものかって勘繰り合ってるよりはさ。まあなんかそれはそれで、そそるけど……」


 黎奈は「そう思わない?」と視線で少年に訴えているが、少年はそもそも小学校も恋人もセックスもレイプも、それらの言葉の意味を知らずにいたため、何を言っているのかさっぱりだった。それどころか、「同じ寝床で寝ているのに――」という言葉を不思議に思ったくらいだった。人同士が一緒に寝る? あり得ないでしょ。それくらい少年にとって人と人とが寄り添い合い、交わり合うコミュニケーションについて無知、あるいは軽薄(けいはく)だった。


「大事な人にしか見せちゃいけないはずの身体を軽視するのはさ、憎んでるからなんだよ。この不条理な世の中、髪色と髪の長さで区別され、幼い頃の育った環境に影響されて発せられている失言を、本音と受け取られて信用されなくなる。信用されなくなると、世の中で信用されていない事柄に手を伸ばすようになるの。その悪循環を作ったのが自分だとはまるで気づかずに大抵の人間は生きてる。世の中で信用されていないことに熱意を込め、自信をもって生きられる人は、自我が確立していない時期とか、自分で反抗できない時期に外野からの影響にあった人たちがほとんどだと思うの。世の中で信用されてなかったとしても、胸を張ってこれでいい、幸せだって思えるならそれでいいんだけどさ、私は過去を捨て去れるほど強くなかった。いつになっても過去が付きまとうの。今生きていられる根源は、私を(しいた)げた奴らにざまあみろって言ってやりたい、その一つだけ。でもさあ、それもどうなんだろうって最近思っちゃったのよう」


 黎奈は(うつむ)いて膝を抱えた。


「ざまあみろって言ったところで何が変わるかなあって。そもそも私はざまあみろなんて言えるだろうかって。可哀想だなって上から目線でしょうがない、許してやろう、まあいっか、昔のことだし、って思いそうなのよねえー」


 そこで黎奈は顔を上げた。


「アキくんどう思う? 私って悪役になり切れてる?」


 その意味が少年にはわからなかった。


 大地がさざめいている。渦巻く湯気が、風に吹かれて規則性を失くし、揺れている。その湯気の立ち上り方が、少年の胸の動きを表しているかのようだった。


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