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改札を抜けた後、JR線に乗って上野で下車した。長いエスカレーターを下り、駅のホームに着く。私鉄やJRのホームとは違って人はまばらだった。その閑散とした様子に、心も静まった。女子高生が男子トイレにいるなど思いもしなかった。レイプの事後現場を目撃してしまった焦りはまだ消化できていないというのに、彼女は自分のことをどこかへ連れて行こうとした。その不安。焦り、不安、焦燥、逃走、そのどれもが自分の心から消えてしまったようだった。
寧ろ、真逆の感情が生まれつつある。
いや、もうすでに形になっていた。
北陸新幹線に乗り込むと、女子高生は席に着くや否や目を閉じた。
その間、頭の中でマリアビートルを読んでいた。
彼女の瞼が開いたのは、軽井沢駅を発車して数分のことだった。列車がブレーキをかけ始めると彼女が立ち上がったので、この駅で降りるのだろう。膝に手を置き、立ち上がった。
ホームに降りると、左右確認せずに右側へと彼女は歩き出した。スカートのポケットからスマートフォンを取り出し、何か見ているようだった。人にはスマートフォンを捨てろというくせに、自分は持っていたのかと子どもみたいな屁理屈が思い浮かび、自分にも、相手にも呆れた。男の自分を信用できず捨てろと言ったに過ぎないはずだから、咎めるつもりは更々ない。
歩きながらスマートフォンに目を落とす彼女は、上り階段に差し掛かってもその行為をやめなかった。急にその場に立ち止まり、危うく後ろから歩いてきた人にぶつかりそうになっていたが、彼女に謙遜の色は見られない。後ろから歩いてきた男性は首をかしげながら階段を上っていった。しばらく階段の中腹で立ち止まっていたが、やっとポケットにスマートフォンをしまい、再び上り始めた。
登りきると彼女は後ろを振り返った。視線が合う。「お手洗い行きたいので一回外出ますね」言い終えるとすぐに前を向き、改札に切符を差し込んでいた。それに続いた。
改札を抜け、彼女は迷うことなく右斜め前の自動ドアの前へと進んだ。階段を下りると、観光案内所と売店が見えた。そこには寄らず、エスカレーターを使って地上まで下りた。その脇にお手洗いの案内板が見えた。どうせならとついていった。男子便所に入り、小便をしながら線路を墓場に決める。「一回外出ますね」とさっき彼女は言った。ということは、もう一度列車に乗ることになるだろう。もし仮にこのまま駅の外に出てしまったとしても、東京に帰るためにもう一度列車に乗ることになるはずだ。
いや、違う。そんなものは当てにならない。何しろ今日初めて会った人のことなんて底が知れない。おまけにどこに連れて行かれるかもわからない。もし、外に出るようなことがあれば、もう一度列車に乗ろうと、是が非でも働きかけるまで。
先に出てきたのは女子高生の方だった。まあ考えてみれば、トイレに行くと言って逃げる可能性だってあるわけだ。というか逃げればよかったのだ。彼女がトイレに入っている隙に。金も、スマホも、手持ちが何もなくても。そうさせてくれないのは――。
知ってしまったら最後、忘れたとしても忘却はできない。それが記憶だ。出逢ってしまったら別れはあっても、もう二度とその対象とは出逢えない。何もない状態から出逢うことはできない。もう出逢ってしまっている。その代償。
こいつと出くわした瞬間に感じたもの。これは一生忘れられそうもない。一目惚れか? 似ているけどそっちの方が何百倍幸せだったろう。
エスカレーターの脇で彼女は待っていたようだった。顔を見つけると、すぐに上りのエスカレーターに乗った。
エスカレーターで改札付近まで戻ると、彼女は切符売り場へと向かったようだった。また券売機で何かの切符を買ったようだった。一枚手渡され、彼女はすぐに改札へと通した。
「なんだ、トイレあったじゃん」改札を抜けた後、彼女は左上の看板を見上げながらそうつぶやいた。
今度は反対側のホームへと降りた。ホームに誘う手間が省けた。
一号車、一番前方の車両の乗り口まで歩いた。たどり着くと、彼女は突っ立ったまま黙っていた。無理に話す必要はないと思った。
彼女はこれから死ぬことになる。これから来る特急列車にはねられる。女子高生だ。身体も小柄。担いで線路に落とせば、停車しようと低速で入ってくる列車でも轢かれて死ぬだろう。
しばらくしてアナウンスが流れた。そろそろ列車が着くらしい。右奥のほうから来るようだった。遠く新幹線の前照灯の明かりがかすかに見えた。
きみは今何を考えている? あわよくば最後に、嘘でも本当でも、きみの口からそれが訊きたかった。
そろそろ……と彼女の背後に回ろうとしたとき、ちょうど彼女が口を開いた。
「私のレイプ現場見て同情した?」
そのとき違和感を覚えた。話具合が、どうも不釣り合いだったのだ。トイレの個室で交わしたときの口調とは似つかわしくない、はきはきとしたしゃべり方。あのときは曖昧で抽象的な表現を口にしていた。しかし、今の発言は端的で内容も簡潔だった。
「不憫、だとは……思った」
これは――あれだ。仲のいい友達と喧嘩して、「絶交」とか「もう二度と話さない」とか固く誓ったはずなのに、次の日に話しかけられて、ぶっきらぼうに返事して、でもいつの間にか前みたいに普通に話してて、それが毎回のことで。術中に嵌まる……とは違う、もっとこう、なんというか、あやふやで、不確かで、本当は儚いけど綺麗に見える――。
『俺この間あいつにばったりでくわしてさー。でもなんか最後に会えてよかった気がするわ。まさか交通事故で……』
『せんせー。この雲きれーい。そうねー。でもこの綺麗に見える雲の下じゃ雨とか雷とかすごいのよー。うわ、うちの母ちゃんみたいだー』
入道雲……ああ、そうか……。
「じゃあさ、自分より力の強い人に身体を制御される感覚味わってよ」
兆しだ――。
気づけば、地面から自分の足が離れていた。
抱っこされたのはいつぶりだろう。足を抱えられているから上半身の自由が利かない。ふと、小学校の組体操でやったサボテンを思い出す。彼女はこれを味わって欲しかったのか? 馬鹿な、違う。さすがに、想像できる。
新幹線のライトが右奥に見える。ああ、ここからか。ここからもうしくじっていたのか。てっきり左から来るのかと思い込んでいたよ。
開かないホームドア。女が男の膝を抱えてその上を通そうとするなんて滑稽だ。「ホームのぎりぎりに立ってっ」持ち上げながら彼女は言う。そうか、だから一号車の乗車口まで来たのか。停止線で止まるとはいえ、ブレーキをかけているとはいえ、ホームのぎりぎりに立てば電車が自分に迫ってくる感覚を味わえる。そうか。そうか。でもこれじゃ、死ななくねーか。まあいいや。でもこの女の子力あるなあ、成人男性の身体を持ち上げられるくらいなら、トイレに連れ込まれるまでもなく、男の人に引っ張られても振り払えるんじゃ、あ、いや、でもたとえそうだとしても逆らえないってことを彼女は――。
一瞬宙に浮いた。それは永い一瞬だった。女子高生が自分の身体をホームドアの向こう側へと放ったのだと気づいたとき、視界に一瞬映った。どうしてそのときそれを見つけたのか。一瞬という時間の中で、その文字を目にしたのか。電光掲示板。点滅する赤い文字。
『ただいま列車が通過いたします。』
視界がスローになった。手にしていた切符が宙を舞った。なんで今かなあ。なんで見えちゃうかなあ、これ入場券じゃん。気づかなかったなあ。ヒントは与えてくれてたってことか。逃げ道は少なからず残っていたのか。というか、通過列車なら右も左も、前方車両も後方車両も関係ないじゃん。馬鹿が頭使うとこうなるんだよなあ。結局頭のいい奴はそういう小賢しい、の上を行くんだよ。知ってた。知ってたよ。なんかそんな気がしてた。ずっと。前から。周りの視線が痛いなあ。女子高生は笑っていない。肩の荷が下りたようで、手をパンパン、と払っている。最初にトイレで目が合ったときと同じ目をしていた。「お前もあいつと同じなんでしょう?」そういう眼。地面に右のつま先が着地した。態勢は仰け反っている。早く上半身を起こさないと、って言っても腹筋ねえし――。
目とE7系の目が合った。距離にして十メートル。
音が聞こえない。列車がブレーキをかけているのかわからない。ただただ聴こえる自分語り。
ああ、先越されたなあ。
不思議と不快感はなかった。
未知の巨人に首と左肩が持っていかれる感覚を持った。そうか……これが女性にとっての――。




