表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラフネの造花  作者: 面映唯
42/60

5

 気づけばいつも息を荒げているのは気のせいだろうか。気づけばいつも軽く動悸がする。きっと気のせいだ。いや、気のせいじゃない。現に今走っている。徒競走をするために走っているのではない。いつかマラソンでサブテンを、とジョギングしているわけでもない。


 足を止めるな、と言い聞かせる。移動手段の大半が電車の都会で暮らしているのに、これ以上走り続けろと言われても……かといって止められもしない。現実的に。


 切迫感を背に走るというのはこんなにも自己を凌駕できるのか。けつに火をつければ走り出すというのもあながち嘘じゃなさそうだ。火事場の馬鹿力ってのも多分嘘じゃない。


 現に今限界を超えて走っている。


 走っていた。ただ走っているのではなく逃げている。何から? それは当の本人もわかっていない。なぜかって? その対象を正視していないからだ。


「できる」と「やれる」は違うと言った青年がいた。


 おのずと「できない」と「やれない」も違うとわかる。


 青年が逃げたのは、「できない」からではなかった。「やれる」けどやるに堪えない。一度は真正面から見たその対象は、利益に比べ、コストがかかりすぎる。


 だから青年は目を背けた。


 だから見ないことにした。


 誰に追われているのかはわからなかった。ただ、追いかけられたら逃げるのが人間の防衛本能。五感が言っている。逃げろと。なぜ? と問い質す。見るに堪えないからだそうだ。


「今日は、何から何まで、わからないこと、ばっかだなあ」息を荒げながら呟いた。


 同系色でできた水玉模様の湖を目の当たりにし、その美しさに没入していた。しかし、ふと気づくと視界に異物があった。没入していると周りのことが見えなくなるとは言うが、没入している対象に変化が起きれば当然気づくのも早い。兼六園の樹木にカメラのレンズを向けたときのように、視界には異物が紛れ込んだ。数百メートル先、黒い動く点。色とりどりの複数の水溜まりの上を、そいつは走っていた。だんだんと黒い点が蟻のように見え、それが人だと気づくのに時間はそうかからなかった。


 やましいことがない、と言えば嘘になる。道路に横たわる老婆を無視して素通りしたことも、見知らぬ誰かの背中を唐突に押したことも、駐輪所で自転車が出せず困っている人を見て見ぬ振りしたこともある。


 だが、人々は、やましいことがないのなら逃げなければいいという。


 追われているのに逃げないのか? 逃げなければ捕まるというのに? そもそも追われているというのが間違い? じゃあ目前に迫った恰幅のいい男はどうしてそんな無表情で、それも腕を一生懸命に振ってこちらに近づいてくるのだ。用事があるのならもっと柔らかい表情をするだろう。そもそもそんなに急いでくる必要はない。そもそも声を出せばいいではないか。走りながら要件を口にすればいいではないか。「待って!」そう叫べばいいじゃないか。まあ、待てって言われたら当然、逃げますが。


 だから、逃げていた。美しい没入も束の間。やはり刹那的。一瞬ですよ。この世の美しいものなんて。目の前には水玉模様の湖があった。水玉の湖を抜け、初めに横たわっていた遺跡へと戻ってくる。後ろは振り返らなかった。振り返ってはいないのに後ろから追ってきているということが分かった。それは杞憂でも思い過ごしでも何でもない。人気(ひとけ)や人間の感情に敏感だからこそ気づけてしまう唯一の欠点。言わばプロだ。人気のない場所でたった一人の人気を感じるのなんて、息を吸うように簡単だった。零から一。十から百よりも零から一。その変化が一番大きいのだから。


 遺跡の通路内は迷路のようだった。基地、とも呼べるのかもしれない。防空壕というにはレンガできちんと作られていた。トンネルというには幅と高さが狭い。下水道というには色味が多い。前にFPSでこのようなマップ内を移動したことがあった。それと似ていると思った。


 鼓動の音が煩いくらいに聞こえる。その後ろで、自分の足音が通路内に響く。天井、側壁、そして遠く前と後ろ。砂利を擦るような足音。足音は一つではない。ザッザッ、というリズムを追うように別のタッタッ、が追ってくる。カエルの唄の輪唱なら、先に歌い始めた声は八小節で終わってしまう。永遠に歌い続ければ追いつかれることはないだろう。並行して進んでいく訳だ。


 そのことが逆に、物事のすべてには終わりがある、ということを訴えているようで、走りながら顔を振った。何冷静に分析してんだ……。


 しかし、息が荒くなっている以上、もし止まってしまったら、追っ手に追いつかれたらどうなるのだろうかと想像を巡らせてしまった。追って来たから逃げているというだけで、訳も分からず逃げているが、別に大したことではないのかもしれない。止まって追っ手が近づいて来て、話してみたらなんてことはなかった。「あの、これ落としましたよ」そう言ってスマートフォンを手渡してくれるだけかもしれない。


「ん」


 そのとき、妙なことに気が付いた。


 走りながら、パンツの両サイドのポケットに手を滑り込ませた。後ろのポケットにも。ジャケットの内ポケットも含めすべて。


「ない……」


 何もなかった。


 普段ならポケットにスマートフォンが入っている。財布やらなにやらは手持ちの鞄にしまっていることもあるが、スマートフォンだけはポケットの中にいつも入れていたはずだった。それどころか鞄すら持っていない。


「おかしい」


 おかしいのに、今の今までおかしいと気づかなかった自分がおかしいということがおかしいと思えなかった。すでにこの状況がおかしいもの。


 気づけば薄暗い通路内で立ち止まっていた。やばい、と思い至りすぐに駆け出したが、三歩目で足を止め、耳を澄ました。


 静寂に心臓の音が響く。振り返ってゆっくりと後ずさる。


 自分の足音以外、聞こえなくなっていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ