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ラフネの造花  作者: 面映唯
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2

 年を重ねても相変わらず人混みが苦手だった。満員電車の中で一人、一升瓶でも浴びたかのように酔っていた。不規則に揺れる電車に酔ったのではない。目と鼻の先に見える背広の生地。右も左も自分の肩に触れそうなほど距離が近い。背後には制服の女子高生が居り、四面楚歌のような圧迫感。誰かが自分のことを咎めようとしているはずもないのに、寧ろ自分のことなどまるで見ていないはずだろうに、否応に急かされる感覚は――。


 鼓動を早める焦燥感。そして一時の感情に疲れ果て、ふと冷静になり、俯瞰された孤立感。自分にだけ光が当たっている明暗。ほとんどふらふらだった。次の駅で降りて息抜きをしようにも、池袋や品川のようなターミナル駅以外では降りるのも難しい。自分の身体に他人の肩が触れそうなくらいで人に酔ってしまうのに、降りる際は隙間を縫うようにしても、どうしても相手に触れてしまう。電車の下車ほど酷で、身近に気合を入れなくてはならないことはなかった。


 いや。


 気づいていないだけで、人がいる空間に同在することだって同じくらい疲弊する。覚悟を必要とする。上階の住人の足音。隣人の夫婦喧嘩、愛し合う二人、壁を通して聴こえるあらゆる音が、己を孤独にはさせなかった。実際は独り暮らしであるというのに? 自我以外に対話などほとんどしない生活を送っているというのに? おやおや、孤独、社会不適合、ぼっち、なんて言葉が似合いそうじゃないか。でもどうだろう。そもそも、地上で生きている時点で物理的に一人になどなれやしないだろう。だから、そういう次元の話をしているのではないのかもしれない。


 電車がブレーキを掛けている。気合を入れ、主要駅ではない駅で下車を試みた。降りようとして降りられなかった後の自分を俯瞰し、「な、恥ずかしいだろ?」と誰かが言っていることにした。見知らぬ人の肩に触れ、若干強引に、細い身体を乗降口へと滑らせた。


 ぷしゅー、とドアが閉まった。振り返ると、電車はホームから姿を消していた。下車したのは自分だけだったようだ。


 鼻から大きな溜息が出たのち、歩き出した。


 雑踏がいくらかましになったホームを歩き、階段を上り、改札よりも先にお手洗いの標識を探した。主要駅ではないせいか、見つけたときにトイレの外まで伸びる人の列は見当たらない。速足で歩いているつもりはないが、速足でトイレへと駆け込む。個室の扉を開け、便器に座るよりも先に鍵を閉めた。カチャッ、と薄い扉に音が響いた。その音に安堵を抱き、便座に座ろうとしたのだが、戦慄(わなな)いた。


 安堵を抱いたのは束の間の出来事。驚き、慄き、声を掛けるよりも先に「やってしまった」と思ったのは、個室の壁の隅にもたれるように、地べたに座っているのが制服姿の女性だったからだ。もし男性だったら、肩を跳ねさせ、「すみません」と言って逃げるように外に出、羞恥を感じながらも隣の隣の個室に入り、便座の上で鼓動を感じながら、紋々と数秒前を回顧していたことだろう。


 勝手が違った。


「え、……あ、……」言葉が出てこない。すぐにカギを開け、扉を押す。しかし、そこから見えるのは確かに男性用の小便器。


 自分が女性用のトイレに間違えて入ったという疑心は消える。普段ならそのまま逃げ出していた。面倒なことにはかかわりたくない性格だ。厄介なことからは避けて通りたい人生だ。もし、道端で老婆が悶え、倒れていたとしても、見て見ぬふり、他人任せにする。少なからず葛藤はある。だが、手を差し伸べる勇気はない。


 あれはできて当然のことではない。あれほど勇気のいることはないのだ。できない奴が普通で、できる奴が勇敢なのだ。


 他人の人生の枢要に、干渉する勇気がなかった。


 女子高生のすすり泣くような音が、薄っぺらい壁の個室によく響いていた。


 どうして……すぐに外に出ればよかったじゃないか。


 外に出られない服装なんじゃないか?


 じゃあなんで男子便所までついてきたんだ。


 ついて行きたくてついて行ったわけじゃないんじゃないか?


 誰か呼べばいいじゃないか。叫べば誰か気づくだろう。


 お前みたいに見て見ぬふりをする奴が多いからな。偶々手を差し伸べてくれる人がそこにいなかっただけじゃないか? 


 そっか……。そうか、そうか。今頃気づいたよ。こういう面倒を食わないために、日頃から他人に優しく生きろってことなんだな。


 でも、どうあがいても、そっち側の人間にはなれなかった。


 再び個室の鍵を閉めた。その場にしゃがみ、そっと手を差し伸べた。


「怖かった?」


 返事はない。


「誰にも見られたくなかった?」


 鼻をすする音。


「服、汚れちゃったね」


 目線が合った。


 スマホが震える。


 その目はどこを見ていただろうか。疲れ切った眼をしている。なのに、助けてくれてありがとう、そういった類の甘えや縋ろうとする眼ではない。「お前もあいつと同じなんでしょう?」優しさを棚に上げて――。


 絶望した後に残るのは虚無だろうか、希望だろうか、それとも意固地に捻じれた心臓だろうか。絞った雑巾のように捻じれた心。はちきれそうに血管がそこかしこで膨れ上がる。ほどくには酷く冷たい水か、温かいお湯が必要。


 彼女の目は見透かしていた。事実がどうであれ彼女自身の意思を事実にしてしまえる、そういう眼だった。現に、この状況に便乗してしまおうかと思ってしまっている。そんなこと生まれてから一度も想像したことがないのに、だ。道端で横たわる老婆に手を差し伸べる勇気がないのに、そんなもの勇気でも何でもなく呼吸をするのと同じくらい至極当然の行動であるのに、それすらできない、愚図で、すぐふらふらして、度胸がないのに。気が小さいのに。肝が据わっていないのに。なのに、なのに。アダルトビデオでさえ、強姦の類は見たことがなかったのに。これは――。


 カーテンの向こう側には、積乱雲が見えるかもしれない。


 でもまだ、カーテンは開いちゃいない。


「きみは……」



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