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ラフネの造花  作者: 面映唯
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12

 そこには父親がいた。手元が震えている。今しがた買ったばかりのカッターナイフの封を開ける手が震えている。取り出し、スライドさせて刃を出したとき、突然脳内で「これでいいのか」と問いかけられる。そんなもの考えたって仕方ない。そう結論づけたはずじゃないか。何を今更……でも取り返しのつかないことをするんだ。それだけ悩まなければならない行動なのかもしれない。


 店員を怒鳴りつける父親。店員は冷静だった。しきりに申し訳ありませんと頭を下げている。周りの客が怪訝そうな顔で見つめている。それに気づかない父親。それどころではない店員――足が震えている。駆けてくる別の店員。お前は関係ないだろ、こいつに言ってんだ、と追い払う父親。何もできない客。ただただ時間が過ぎるのを待つ客。待つのに懲りてか、商品を棚に戻して自動ドアを抜けていく人。その自動ドアを抜けていく客の残像だけが色濃く窪田の脳内にこびりついていた。


 たったこれだけの景色を見るためだけに産み出されたと思うと泣ける。ただ、その真実に辿り着けるのがごくごく僅かな人だけだと思えば、いささか悪い気もしない。


 父親は許される人間ではない。この父親のせいで家庭は崩壊した。


 母は夜逃げし、その後釜となったのは姉だった。姉はいつも弟を(かば)った。姉は強かった。いくら暴力を振るわれようと、多少顔に傷ができようと、学校に通い続け、バイトに勤しんだ。早くこの家を出よう。とりあえず五十万溜まったら一緒に、と姉は事あるごとに言った。膨れ上がった腕の蚯蚓腫れ。痛そうなのは火を見るよりも明らかであるのに、彼女は笑った。苦しい顔を見せたことがなかった。結局最後の最後まで。


 五十万に達する給料日の翌日、姉は弟を連れて家を出ようとしていた。必要最低限の荷物を鞄に詰め込み、さてこんな家とももうおさらばだね、と言い合ったときだった。五十万の封筒をタンスから取り出そうと姉が手を伸ばしたのを今でも覚えている。あのときの彼女の顔はもう覚えていない。


 姉の肩から鞄が滑り落ち、その場にへたり込むように姉は崩れた。右手には、札が二枚。ゆっくりと握りしめるようにくしゃくしゃにした。


「やられた。最近やけに静かだと思ったら……。敢えて現金で持っていたのに、こんなことなら銀行に入れたままにしておいた方がまだ……」



 姉は次の日、自室のドアノブにかけられた手拭いで、首を吊っているところを弟に発見された。



 姉はきっと正しかったのだと思う。今でも窪田はそう思うようにしていた。希望がもうすぐ目と鼻の先のそこにぶら下がっていて、その直前に大きな落とし穴を用意していた父親。


 これを絶望と呼ばずに何と呼べばいい。


 いろんなバイトを経験した。長くは続かなかったがわかったことがある。いい人ほど先に辞めていき、使えない奴ほどそこの職場に固執し、居座るのだ。使えない奴は使えないという客観的な視点を持っていないのだからそれもそうだろう。同じだと思った。母は頭がよかったからきっと早めに見切りをつけて逃げたのだろう。姉も頭はよかったが、優しい人だった。優しかったから、弟のことを見捨てられなかったのだろう。弟がいなければ、彼氏でも作って、彼の家に寝泊まりするようになり、優しい姉のことだから恋人の家族にも気に入られるはずだ。家賃や生活費に使うはずのバイト代は、可愛い洋服や鞄やアクセサリーに姿を変えて、傷さえも化粧と恋人の温みで消え失せ――。


 俺だ。


 俺自身が疫病神そのものだ。先に居なくなるべきは俺だった。あの日、母が家から出て行った日、あの日のことだけは妙に記憶している。置いて行かれたという疎外感はない。失望もない。母親に選ばれなかったことに対して日和見も抑圧もない。


 何かに急かされるような焦燥感だけが胸を覆っていた。あのとき、母親が出て行った日、今、まさに、ここで、決断しなければならなかったのだった。


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