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ある日突然、友人を殺せと言われた。殺せも何も、友人らしい友人が少年には思い当たらなかったが、目の前に連れてこられた同世代、十代前半の男児は、どうやら少年と仲がいいみたいだ。「助けて、あきら」と、諦めきったような顔つきで呟く。しかし、少年には男児が見知らぬ家の子どもにしか見えていなかった。「この子、僕の友達じゃありません」と、男児の横で見下ろす戦時中の兵士のような恰好の男に伝えることもできた。実際、首を傾げたそぶりで目配せをしたにもかかわらず、兵士はいいからやれ、という目つきで少年を睨んだ。少年が忘れているだけで、きっとこの男児は少年の友人なのだろう。男児が「あきら」という少年の名前を知っているということは、つまりそういうことなのだろう。
躊躇なく男児を殺せたらきっとこの先に訪れる未来の現実も、淡々と受け入れることができて、楽に生きていけたはずだ。
でも少年は一瞬躊躇してしまった。
それもそのはずだろう。昨日まで隣にいて、くだらないことを話す相手だっただろう友人を殺せだなんて、とても無造作にできることではなかった。少年自身は男児のことを全く覚えていないが、それでも少年と男児が友人関係であったと男児も兵士も言う。一緒に話した記憶のない友人を殺せと言われようが、仲のいい友人を殺せと言われようが、まったく見知らぬ他人を殺せと言われようが、結局のところ躊躇うには躊躇うのだ。仮に今目の前にいるのが友人の男児ではなかったとして、目の前に見知らぬ人間が助けを乞うていたとしても、殺すことに少年は躊躇したはずだ。
カン、カン、と音が鳴っている。
兵士から手渡されたなたを持った少年を、男児は怯えた目で見ていた。手首には縄が巻かれ、腰の後ろあたりで拘束されている。脚も縄で頑丈に拘束され、人魚みたいに一本になった脚をくねらせる姿は、芋虫そのものだ。男児の目はとても怯えていた。いつも目を見合わせてくだらない話をした日々が懐かしい――気がしなくもなかった。全く覚えていないというのに、まるで仲が良かったときの光景が思い出される。その日々の光景と同じ目玉をしているというのに、このときばかりかはその同じ目玉が怯えているような気がした。
目玉ではない。頬が引きつってぴくぴくと唸る。人魚みたいに一本になった脚をくねらせる。その動きが、怯えている、と少年に訴えてくる。
男児の口元にはガムテープが張られていた。唇が動かせないのだろう、うーうーと唸るばかりで、聞き取れる言語を話さない男児。
カン、カン、と音が鳴っている。
古びた軍服を着た兵士の一人が、「殺せ」と言う。言葉に感情は含まれていない。ただ、決まり文句を棒読みするように「殺せ」「殺せ」「殺せ」少年がなたを振り下ろそうとしないのを見て急かすばかりだ。
「無理だ。できっこない」そう少年が何度嘆いたことか。それでも少年と男児を囲んだ二人の兵士と一人の女は、「殺せ」「殺せ」それしか言わない。他の言葉を知らないかのように何度も繰り返し言い続ける兵士たちは、まるでひとつの単語を覚えた子どもが何度も何度も同じ単語を唱え、連呼する様だった。彼らは大人だ。少年はまだ成人していない。十二歳ぐらいだろうか。自分の年齢は覚えていない。まるで少年が大人で、彼らが子どもであるみたいに、兵士たちは強請る。「殺せ」「殺せ」、「殺せないのならお前の祖父と叔母を俺が殺すだけだ」と我儘を言う。
じいちゃん、おばさん、買い物に出て行ったきり何日も帰ってこないものだから、てっきり兵隊さんたちに殺されたものだと思っていた。でも、兵士は言った。「お前の祖父と叔母を俺が殺すだけだ」と。ということはどこかでは生きているのだ。よかった生きていたんだ。大好きなじいちゃん、おばさん。今どこで何してるの?
「いいから早く殺せ!!」
兵士の一人が怒号を挙げた。少年の身体は素早く小さく跳ねた。そんな大声で言わなくても。殺せないよ。殺せるはずがない。……友人を。
――本当に友人なのだろうか。
カン、カン、と音が鳴っている。
少年はしゃがんで、男児の顔を覗いた。猿轡の上からガムテープを張られているにもかかわらず、何度も呻いたせいか、涙は枯れ、もう吐ける息がないと疲弊しきったような顔だ。ガムテープの隙間からだ液が垂れ、顎の下に伸びて、滴っている。
無造作に、男児の口元へと手が伸びた。ガムテープを引っぺがすと、「うっ」と男児は呻いた。痛いと反射的に言えもしないのだろう。口元がガムテープの形に四角く赤い。
――柔らかそうな頬だ。
男児は何が起きたのかわからないという顔をした。しかしすぐに悶えた。芋虫みたいに足をくねらせるが、必要以上に体は動かせていない。先程からずっと芋虫の様にくねくね身体を動かしているが、一メートルも移動できておらず、その場にとどまっている。
猿轡が緩んだ。柔らかそうな頬がぱっくりと二つに割れて、横から歯の白が見て取れた。血の筋が横並びにいくつも垂れ始めた。顎の下まで到着すると血の筋は一つになった。猿轡のせいでそれはびしょびしょになっており、溢れた唾液と相まって顎の下から床へと数滴落ちた。
カン、カン、と音が鳴っている。
少年は、男児が動けないことを理解していた。キリストの磔刑の様に磔にされているわけではないので、多少は身動きもとれるのだろうが、それほど気にすることでもないのは、芋虫みたいに一本になった身体を必死に動かしても一メートルも四方のどこにも進めていないのを見ているからで、把握済みだ。
頭に血が上った。片頭痛のような痛みが脈拍の速度と一緒に内から音を響かせる。
そもそも、なぜ兵士は少年に友人を殺せと命令しているのだろうかと思ったときに、簡単に思いつくのは友人が何か悪いことをしたからだということ。
何もしていない善良な市民を殺せと、さすがの兵士もそんな残忍なことは命令しないだろう。
そうか、友人は何か悪いことをしたんだ。
カン、カン、と音が鳴っている。うるさいなあ、さっきから、と思い少年は顔を振った。
その音は部屋の奥から聴こえていた。一メートル四方程の手術台のような石畳の上に、若い女性が何か打ち付けている。大きな鶴嘴を頭上から振りかぶり、振り下ろす。すると、カン、と音が鳴った。砕けた破片か何かが、少年の足元にまで飛んできた。拾って、指で触ってみる。
何を叩いているのか。
人骨だった。
飛んできた破片が白かったこと、たったそれだけで人骨だと見極めるには乏しい。見えたのだ。次の人骨を砕こうと女性が石畳の上に腰椎や背骨らしい、あの均等に隙間の空いた形をした骨を。
ぞっと寒気が走った。
これが恐怖だと少年は悟った。
しかし、母親に追われていたときほど恐怖を抱いていないのも事実。
しかし、怖いものは怖い。まるで言うことを聞かなければ少年も骨になって、あの大きな石畳の上で骨を打ち付けられることを示唆しているかのようだった。お前にも同じ骨が体の中にあるのだよ、と。自分の骨など生れてこの方見たことがないというのに、それは現実味を帯びて少年の皮膚を、膝を、震わせた。