4
健吾はその後も絵を描き続けた。描き続ける理由がどこにあったのかはわからないが、映像や当時の場面を伝えようとするなら、言葉で誰かに伝えるよりは絵であった方がしっくりくる。素人が再現映像を作るのは難しい。
健吾は何かを伝えようとしていた。だが、それにしては、彼は困惑しているようにも見えた。彼は何に困惑していたのか。
健吾は部屋の壁に向かって青いペンキの付いた刷毛を振っていた。壁にはペンキの斜線ができていた。深寿が部屋に入ったとき、遂に健吾がとち狂ってしまったのではないかと思い焦った。ペンキと刷毛は深寿が用意したものだった。健吾に頼まれたことも理由の一つであるが、彼はもう数か月も外に出ておらず、監禁状態だった。だから、彼が唯一やろうとしている絵を描く、ということに対して表現の幅を広げてあげたかったのだ。
まずい。深寿は部屋の中に駆けるように入り、刷毛を振る健吾の背中に一目散に抱き着いた。もうやめて、と。声には出なかったが、深寿はそう伝えたつもりだった。
「もう止まれない」
「どうして」
「自分のやったことを正当化しなきゃならない。嘘を付いたり、黙秘することで守ろうとするのと同じ。もし仮に不本意だった行動や、動機もなく不可抗力で傷つけてしまったことが、正当防衛ではなく、意図的な犯罪だとみなされたとする。僕はそのとき嘘も黙秘権も使わない。その犯罪が正当化されるように自分を変えるはずだ」
健吾が歩み出す。深寿は彼の背中から顔を離した。彼は床に置かれていた新しいペンキの缶の口を開け、しゃがむ。その中に刷毛を突っ込んだ。じゃぶじゃぶと、零れ、飛び散るペンキには目もくれず、その上下の動きを繰り返していた。
「よく言うだろう。生まれた環境を理由に使うなって。高価なバッドを持っていないから打率が上がらないわけじゃない。ブランド服を身に纏っていないから人に好かれないわけじゃない。それが真理だとは思わないが、何かがないからと嘆くのは多分違うんだろうな。置かれた場所で、在るもの持つものすべてを駆使して戦わなければならない。罪というのは、背負ってしまったら背負う前には戻れないんだから。逃げる選択肢はない。時間は戻らない。生まれる前には帰れない。どうせ戦わなければならないんだったら、置かれた状況で最大限パフォーマンスするのがコスパってもんだ」
「なにを、言ってるの?」
「見栄は捨てろ。何処まで穢く生きればこんなにも……」
「だから、それはどういう……」
健吾の返事はなかった。
健吾は刷毛を振り続けた。ときに壁に線を引くように塗ることもあったが、深寿の買って来た十色のペンキの蓋をすべて開け、壁にペンキを飛ばした。
深寿の頬にペンキが飛んだ。そのペンキは何色だったか。小雨のように降ったペンキが深寿の頬を、続けてシャツを汚した。何色か。覗き込む。この薄暗い部屋では判然としない。
彼が何をしようとしているのか深寿にはわかりかねた。深寿はペンキの飛び散った床に腰を下ろし、壁だけをずっと眺めていた。白しかなかった壁が、汚いとはいえ彩られていく。
時間が経つにつれて、深寿の瞼は少しずつ、少しずつ閉じていった。
時間が経つにつれ、深寿の目が微々たる変化ではあるが、一匹の蟻が重い昆虫でも運ぶかのようにゆっくり、ゆっくり見開いていった。完全に開いた彼女の瞼。
教会のようなステンドガラスの下、壇上へ続く道の両側、壇上に敷き詰まった花。
「造花」健吾は言った。「供養されておきながら、産まれている奴がいる。生きている花がひとつだけ」とも言った。
「誰の記憶だろう」健吾は自分の書いた壁画を見つめていた。




