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開いているシャッターの向こうで、路地を歩く母親が視界に入った。母親はまだ少年に気づいていない。横顔。歩く姿。そのまま路地を通り去ってくれ――なんて少年は思いもしなかった。慌てていた手が止まっている。震えていた手がピタッと静止している。「やばいやばい」「早くしないと」それらの内からの囁きや思考のすべてが、いったん停止する。
足を止めた母親が振り返った。
薄気味悪い鬼面が少年の目に映った。
「なにしてるの?」
途端に再び時間が流れ出す。
母親がゆっくりと近づいてくることに少年は気づかない。
近づいて来たのは恐怖だった。
生れてこの方一度も出したことのない絶叫を、何度も続けざまに発狂する。魂が抜けるような絶叫と「たすけて」という聞き取れない発狂を繰り返す。腰の曲がったおばあさんを超える態勢。上半身と下半身を大きく鋭角に曲げ、少しずつ後ずさりながらも絶叫発狂はやめない。顔を大きく歪め、怯える姿は過去に一度恐怖を味わっているからだ。以前に母親に捕まった際に味わった痛みを知っているからだ。
蘇ってくるのだ。追われる、捕まる、ということの恐怖に。
そのとき、少年の頭に一つの記憶が映った。以前に母親に捕まりかけたとき、戦時中の商人のような男二人に助けられた。男たちが母親をどこか別の場所に連れて行ったような気がするが……記憶は曖昧で、助けられたということしかはっきりとは言えない。
一縷の希望。しかし、一縷は小さすぎる。目の前にいる母親という恐怖が全身を泣き叫ばせる。頭の片隅に一縷程度の希望が浮かんだところで、母親の恐怖には敵わない。それをわかっていても「たすけて」と発狂することはやめられなかった。
気づくと若い女が二人いた。叔母の客だろう。
それぞれが母親の両脇を持って少年との距離を増やしていく。「なにすんのよ! そんな綺麗な顔して!」母親は喚きながら引きずられていった――。
ガレージに面する路地の上で、草彅剛の声をした女が膝間づいていた。女の両脇には戦時中の商人のような恰好をした肌の浅黒い男が二人、片方は眼鏡をしていて、その隣には若い女が二人しゃがんでいた。黒いスキニーを履いた渋谷のライブハウス周辺で見かけそうな、カジュアルな服装だった。
低い声で咳払いをしながら、女がアスファルト近くで人差し指と親指でピンチアウトさせた。地面に映ったのは六つの異なる映像だった。縦横三×二で正方形が六つ並び、中の映像それぞれは動画のように動いていた。鮮やかな夕焼け、藍、がアスファルトの上に映し出される。まるで映っているのはパラレルワールドの様だった。
「次、どうする?」男の一人が呟く。
「あんた褒められてなかった?」若い女が隣の女に問いかける。
「番いが揃った」
「人はもう集まった」
まるでハリーポッターの世界に紛れ込んだ感覚だった。