忌まわしき赤竜の姫ー38
図書室のエントランスホールには四人程が対応できる大きなカウンターが備わっており、机の上には無数の本が乱雑に積まれていた。
図書室独特のあの紙とインクの匂いを懐かしく思いながらしばし様子を窺っていたが誰かがこちらに来る気配はない。
仕方なく無人のカウンターを横目に奥の部屋を覗き見るとそこには円柱型の巨大な書庫、壁伝いに天井に向かって伸びる螺旋状の本棚には名もなき本が並べられている。
さらにはこの書庫から四方八方に向かって伸びる通路にも道に沿って絶え間なく本棚が続き、そのどれもが分厚い本でギッシリと埋め尽くされていた。
これがすべて世界樹の見てきたこの世界の歴史。
どこまで続くとも分からぬ記憶の迷宮。
エフィロス長老の言う通り、確かにこの中から竜族に関する情報だけを探し出すのは手助け無しでは何百年いや何千年かかっても不可能だろう。
圧倒される程の本の量に思わず先の見えぬ天井を見上げるとそこには幾つもの本たちが大きく羽を広げ優雅に空を舞っていた。
やはりまず俺が最初にすべきことは世界樹の記憶の“管理人”を探し出すこと。
しかし管理人か。
ただでさえ入り組んだ迷路のようなこの空間、どうやって“管理人”とやらを探しだせばいい。
先に進むのを諦め、一旦エントランスホールに戻った俺は柱時計の傍にある椅子に腰かけると周囲を観察しながら管理人を探し出す手立てを模索していた。
エフィロス長老は管理人の事を司書と言っていた。
司書とは図書資料の整理・保管・閲覧などに関する専門的事務を行う者のこと。
今はこの場所を離れ室内のどこかで業務を行っているのだろうが、配架・書架整理の為にいつかはここに戻ってくるに違いない。
だが、それがいつになるのかは分からない。
数十分程度戻ってくればいいが、ここは記憶の世界、下手をすれば数年単位で戻ってこない可能性もある。
全館に来訪者を知らせる呼び鈴のようなものでもあればいいのだが、カウンターの上はきれいさっぱり片付いておりそれらしい物は見当たらなかった。
「ここには何もないか。……ん? 何もない?」
俺は妙な違和感を覚えた。
このカウンターの上、さっきまでこんなきれいに整理整頓されていたか?
いや、たしか乱雑に本が積み重なっていたはずだ。
その証拠に周辺にはまだ数冊本が散らばっている。
……誰かが片付けた。
俺は周囲を警戒しながら落ちていた本を手に取ると何気なくページを捲ってみた。
この本に世界樹の記憶が記されているのか?
まるで重さの感じない奇妙な本に目を通すとそこには挿絵は勿論の事、字すら一文字も書かれてはおらず、魔素の細かな粒子がただ紙の上に不規則に並んでいるだけであった。
どうなってるんだ、これ?
俺は何も書かれていない白紙のページを点字を探るようにそっと人差し指でなぞってみると、それまで不規則に並んでいた大量の魔素が突然指を通して俺の体内へと流れ込んできた。
“魔素の粒子一粒一粒に世界樹の記憶が記されている”
それは正にエフィロス長老の言葉通りであった。
体内に流れ込んだ魔素の粒子は自身に記憶した情報を一つ一つ再生していく。
それは視覚情報だけでなく、味覚や嗅覚、聴覚といったありとあらゆる情報がまるでその場でいま体験しているかのように再現されていく。
すごい。
これが世界樹の記憶。
――そこは見知らぬ月夜の街の風景。
夜の帳が降り、支度を整えた遊女たちが街に出て行き交う男に声を掛けている。
肌が透けるほど薄い妖艶な服を身に纏い、柑橘や花の香水を振りまき酒に酔った獣たちを誘惑する。
鼻の下の伸びた男は遊女の尻を弄りながら建屋の中に消え、ギシギシと軋む床の音、女の激しい喘ぎ声が夜の喧騒にかき消されまた一人この街の誘惑に溺れていった――。
記憶の再生が終わり現実に引き戻された俺の手には何も書かれていない白紙の本が一冊。
なるほど。
世界樹の記憶を内包した魔素が本と言う形に具現化しこうやってこの図書室に所蔵されているのか。
確かにこれなら目当ての本さえ見つかれば欲する情報を知り得ることが出来そうだ。
あとはその本がこの図書室のどこにあるかだな。
そしてその在処を唯一知っているのはこの図書室の司書である管理人だけだ。
俺は持っていた本を閉じると無人のカウンターに返却し、床に転がっていたもう一冊の本に手を伸ばした。
この本に管理人の行方でも記憶されてればいいんだが、流石にここでの出来事までは記されてはいないか。
俺は淡い期待を胸に拾い上げた本の記憶を読み取ろうと白紙に指を触れた刹那、突然背後から伸びてきた長い腕に本を奪い取られてしまった。
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