忌まわしき赤竜の姫ー9
古樹の前に立つと深く息を吸い込み再度その表皮に手を当てる。
俺の右手は長久の時を過ごしその身に時を刻んだ固い樹皮の感触を感じることなく、すーっと壁の向こうへと吸い込まれていく。
僅かな緊張を感じながら唾を飲み込み更に奥へ奥へと突き出すとそれまでしんと静まり返っていた森は大きな波紋を立て世界を飲み込むように広がっていった。
「――ここがアルフヘイム」
遥か先、天を突き抜けんばかりにそびえる巨大な世界樹がたおやかにこちらを見下ろしている。
世界と世界の狭間を一瞬で飛び越えると俺は外界の向こう側に立っていた。
「――ユシル様、いやユシル。俺がお前の望みを叶えたらアルフヘイムへ立ち入る許可をくれるっていうのは本当だろうな?」
「あんた、私を呼び捨てにするなんていい度胸してるわね。……はっ、まぁいいわ。えぇ、勿論よ。この永遠に続く退屈から私を解放してくれたら許可の一つや二つくれてやるわ」
「それを聞いて安心した。それじゃさっさと行くとしようか」
「……へ? 行く? 行くってどこへ?」
俺は首を傾げ戸惑うユシルを無視し、彼女の手首を掴むと有無を言わさず強引に引っ張り上げ、問答無用で湖を渡っていく。
「ちょ、ちょっと! あんた、いきなり何するのよ! 汚い手で触らないで頂戴!」
俺だってこんな面倒ごとは勘弁願いたい。
けど、こうでもしなければ先に進めないんだからしょうがないじゃないか。
「この手を離しなさい! いい加減にしないと本当に許さないわよ!」
「ユシル、お前この退屈な世界から抜け出したんだろ?」
「えっ、……えぇ、そうよ!」
「だったら。だったら俺と一緒に来ればいい」
「はぁ?」
予期せぬ答えに思わず足を止めたユシルは素っ頓狂な顔で俺の顔を見ていた。
「あ、あんた自分が何を言っているのか分かってるの?」
「分かってるさ。これからお前は俺と一緒に外の世界に行く。――こんな所にずっと一人でいるから頭がおかしくなるんだ。いいな! 俺はお前をここから連れ出す」
あっけにとられなぜか急に大人しくなったユシルだったが、湖を越え対岸に辿り着くと突然俺の手を振り払い悲し気に俯いていた。
「……こんな馬鹿な事をするあんたが人間は初めてだよ。私を外の世界に連れ出すか。それが出来たらどんなに楽しかっただろうね。でも、それは無理なんだよ」
「無理かどうかは俺が決める。ユシル、俺と一緒に――」
立ち止まるユシルの手を取り再び前へと歩き出そうとするが、何故か彼女の身体はまるで大地に根を張った樹木の様にその場から動かなかった。
「あんたって本当に馬鹿なんだね。言ったでしょ? 私はこの世界樹ユグドラシルの精霊だって」
「それが何だって言うんだ」
「私は決して世界樹から離れることは出来ない。これを見れば分かるでしょ」
そう言って両手を広げたユシルの身体には鎖となった世界樹の枝が何重にも絡みついていた。
「なんだよ。……それじゃお前は本当にずっとここから出ることは出来ないのか」
「そういう事かな。まぁ、これも運命ってやつだね。しょうがないよ。――でも、外の世界か。一度でいいから私も行ってみたかったな」
遠くの空を見上げ顔を上げた彼女の頬は一筋の朝露で濡れていた。
そっと頬を拭き何事も無かったように振り返るユシルに俺は自然と言葉をかけていた。
「――ユシル、本当に外の世界に行きたいなら、行けばいいじゃないか」
「行けばいいって、あんたね。言ったじゃないか、私は――」
世界樹の精霊なんだろ。
だから何だって?
「ユシル。一歩もそこを動くなよ」
「え?」
「俺はお前の言う通り馬鹿だから難しい事は分からない。きっとこれからやろうとしている事も間違ってるんだろう。――けど、お前と交わした以上、最後まで約束は守る」
俺は腰を落とし、目を瞑る。
深く息をし、意識を集中し、黒刃の形、質感、感触をイメージする。
左手をそこには存在しないはずの鞘に当て、使い慣れた柄を強く握りしめる。
ここは意識の世界。
より強い想いこそが形を成す。
静寂の中、目を見開き右手をふり抜いた刹那、漆黒を纏いし刃がユシルを縛っていた呪縛の鎖を断ち切っていた。
バラバラになった世界樹の枝が音を立て湖に波紋を浮かべ沈んでいく。
俺は呆然とするユシルの手を握りしめると何も言わずに彼女を連れ走り出していた。
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