風呂はわたしが存在できる時間
深夜。お風呂。ひとりぽっちのバスルーム。ぽんちゃんはしまってある。
ピンクのバリアフリーなデザインの一室。淡くて、優しさを帯びている。
湯船は心地良い温度に沸かされて、水面はふくらんで湯気になって霧散していく。
わたしは湯船に浸かって、そんな微笑ましい変化の光景を至近距離で眺めている。
湯気はゆれて、ゆれて、上昇気流に乗って舞いあがる。どこまでも高くへと届け。そんな希望を胸に飛び立つのも────束の間、
終わりはあっという間で、溶けかうようにして見えなくなってしまう。そしてやがてほんとうに居なくなってしまう。
現実的に、盛者必衰の法則はずっと続くって思った。
現実論。現実濃度を薄めることで、生き続けること『は』できる。湯気はまだ見えないだけで残ってはいる。だけどそれは消耗的な在り方だし、そして消耗していかなければあっという間に潰えてしまう。
私たちだって現代人だって何も変わらない。
悲しいなあ、と呟いた。
見開いたままの両目がちょうど半分浸かるくらいまでに沈んでいった時、
鼻が見えた。
自分の鼻。高くて、整っている。鼻っていうのは常に見えているものだって聞いたのを思い出した。見え過ぎて必要ない情報だから、見なくていいものとして普段は視界から省かれているらしい。
「 見えてはいるけど見逃している、か.......。」
ざばあん、と湯船からあがる。急浮上する潜水艇のような勢いで、お湯がたくさんこぼれる。
だから、人って習慣の生き物だ。普段過ぎることはあまりに自動化されて、最終的には無意識のうち終えられる。
無感覚のまま、バスタイルへ。
無感覚のまま、風呂椅子と風呂桶を用意する。
湯けむりのようにぼぉーっとしたあたまのまんま、パッケージから新品の剃刀を開けた。替え刃だけをひとつ取り出した。
座る。お湯を張った風呂桶に右腕をしばらく浸す。
その間、風呂鏡と向きあってみる。
水滴が素肌に点在している。曖昧な顔や、茶に薄ばんだ髪や、淡い乳房や、あそことかの色んなところに。
わたしを成り立たせるおおよそのパーツを見渡しても、やっぱり好きになりきれないや。
存在濃度が薄いんだもん。はやばやと現代社会とかから抹殺されかねないようなひ弱さが滲み出てるんだ。
だから誰よりも工夫しなきゃいけないんだ。
十分に温まった右腕をもたげ、左手でつまんだ剃刀の替え刃で思いっきりガラ空きの大動脈をかっさいた。
血が噴き出した。血滴がぱつぱつと湯を張った風呂桶に沈み落ち、赤い底ができあがっていく。わたしから吹き零れた血が蒸発することで、バスルームは個人的な現実の匂いに満たされる。心地の良い濃度だ。
わたしが平均的な現実濃度を確保できていると、そう思い込める。
思い込みは大事だ。自己肯定さえあれば大抵の事は最大のパフォーマンスで臨める。
こんなことを習慣にし続けたから、きっと〈終滅群〉と向き合う羽目になったんだと思う。誰かの代わりに、他でもないわたしが。
放蕩して、し続けた。湯気っぽい血の香りで肺をいっぱいにして、満足するまで。ひとりだけの時間。
やがて満足しきって、シャワーで身体をくまなく洗って風呂からあがることにした。途中、塞ぎかけていた腕の傷口が開きだして、また血が滲み出した。血は身体にこびりつくシャンプーと混ざりあった。分離して、黄ばんだ液体が浮かびあがる。
きれいだなぁ、と思った。