(8)切ない想い
カイ君はそれから、ぽつりぽつりと自分の事を話してくれた。
生まれも育ちも熊本で、調理師を目指している22歳――もう少し若いと思っていた。何だったんだ、昨日感じた初々しさは。こうして落ち着いて話していると、私よりもしっかりしている気がする。せっかく入った大学を中退したものだから親から勘当され、今は割烹でアルバイトしながら勉強しているそうだ。
創作和食に興味があって割烹に入ったけれど、今はまだ下働きなので特に何も教えてはもらえないんだとか。大将の技術を目で見て盗むしかない、そういう状況ですら楽しくて仕方ないんです、と月を見上げながら話した。時折向けられるはにかんだような笑顔がちょっとかわいい。
ミドリさんは、と聞かれ大した夢もないことに気付く。日々ダイビングだけを楽しみにやっつけ事務仕事だよ、と答えたけれど、少し虚しさと恥ずかしさをおぼえた。何やってんだろうな、私。
「いいじゃないですか。ダイビング、楽しそうですね」
「うん、楽しいよ。でもカイ君みたいに夢があるっていいなあ、羨ましい」
「どこか、潜りたい海は?」
「うーん、やっぱりグレートバリアリーフかな、ありきたりだけど」
「じゃあ、ミドリさんの夢はそこに潜る為に頑張る、ってことですね」
「そっかあ……ライセンスアップと貯金だね」
「英語、できます?」
「あ、できた方がいいよね、それも」
「じゃあ、その為に英会話」
「うっわ、英語苦手なんだけど……沖縄にしよっかな」
「ははっ、夢は大きい方が挑み甲斐がありますよ」
挑み甲斐のある夢……考えた事もなかったな。普通に大学行って、とにかく就職できればどこでもいいから、って今の会社入って、出世にも興味ないしいい人がいれば結婚して、ってぼんやりと生きてきた自分にとって新鮮な言葉だった。バックパッカーでいつもどこにいるかわかんない弟を親不孝の厄介者だと思ってたけど、あいつにも夢があるんだろうか。半年前に送ってきた写メは、どこかヨーロッパの街並みだった。
「ありがとう、なんだか……頑張ろう、って気になった」
「えっ? ははっ、それはよかったです」
どちらともなく立ち上がり、また元来た道を歩き始めた。もう手は繋がなかったけれど、私の半歩後ろを歩く彼との距離が心強く、そして心地よかった。
「明日で終わりだね」
「明日はもっとすごい料理、たくさん作りますよ。お腹空かせて来てください」
「カイ君、何担当?」
「内緒」
「えーっ、食べ損ねちゃうかもよ」
「大丈夫、ミドリさんなら全種制覇しますって」
「ちょ、何を根拠に」
笑いながら彼の肩をペシッと叩いたその時だった。
「ミドリちゃん」
男性の硬い声がし、荒々しく近付いてくる――隆志さんだった。
「どこ行ってたの。探したよ」
「ごめんなさい、ちょっと」
「トイレ行くって言ったまま消えて、心配するやろ」
「すみません、ちょっと自分に付き合ってもらってました」
「……君は、確か調理学校の学生さんだったよね」
「あ、隆志さん、あのね、この先に絶景スポットがあって案内してくれて」
「一言、言ってくれんと」
「ごめんなさい……」
こんなに怒った隆志さんを見たのは初めてだった。いつもニコニコして誰にでも人当たりいいのに。
「彼女はうちのショップの大事なお客さんなんやから、勝手に連れ出さんでな」
「すみませんでした」
カイ君は深々とお辞儀をして、私に申し訳なさそうな顔をするとホールの裏手に向かって去って行った。
「……ミドリちゃん」
「ごめんなさいっ、ちょっと話しこんじゃって」
「今、あの返事聞かせてもらえんかな。たまらんよ、こんなの」
答えは決まっている。私が断ったからって即サクラちゃんとうまくいくというわけじゃないことはわかっているけれど、そもそも私自身が隆志さんのことをそんな風に見れない。
「……ごめんなさい、隆志さんの事、そんな風に考えた事がなくて……」
隆志さんのフウッ、という溜息がやけに耳に響く。
「じゃあ、これからそういう目で見て、考えてくれん?」
「……」
「もしかして、サクラちゃんに気、遣っとうと?」
「えっ、いやっ」
わかってたんだ。そうだよなあ、さすがにあれだけアピールしてたら言わずもがな、だよね……
「気を遣ってるわけじゃなくて……そのっ、ほんとに! ごめんなさい……!」
「可能性ゼロか……ごめん、困らせた。わかった、もう言わん」
「……」
「戻ろうか。皆、心配しようけん」
本当に、言われるまでは気が付かなかったんだ。せいぜい思い当たることと言えば、先月「ミドリちゃんは好きな人とかおらんの」と聞かれたくらいだ。突然降って湧いたような告白に、日ごろモテることのない私はただワタワタしただけだった。
私と隆志さんが二人で戻ってきたからか、サクラちゃんは少し機嫌が悪い、というか落ち込んでいるというかかなりテンションが低かった。今日は村の人や他の島の人もたくさんいて、送迎のワゴン車も宿舎の他に港にも寄るからかなかなか戻って来ず、ぼちぼち歩いて帰ろうか、という梶さんの提案をサクラちゃんが断った。そして私といるのが気まずかったのか、隆志さんも「じゃあ俺も」と車待ちの列に並んだ。
砂利交じりで目の粗い、コンクリートの道をとぼとぼと梶さんと二人で下って行く。虫がぶんぶんたかっている水銀灯の下を大きく避けながら、時折立ち止まり降ってきそうな星空を見上げる。
「いいなあ、こんなのんびりした島で余生を過ごしたいもんや」
「そうですね、梶さんもうすぐ老後だし」
「なん言いよっと、まだ介護保険、払うとらんっちゃけど」
「えーうそーわかーい」
「なにその棒読み」
ははっ、と笑いまた虫の声の中を数分歩く。唐突に梶さんが口を開く。
「男と、おったらしいやん」
だからなんだ。心配かけたのは悪いと思ってるけど、24にもなれば親からですらそんな事で咎められたくはない。
「はい、いましたよ。イケメン君と海に浮かぶ月を眺めてました」
「んー……それで、隆志、振ったらしいやん? あれでも真剣やったんやけどな」
「……真剣だったら付き合わなきゃいけませんか? 好きでもないのに」
「ま、そりゃそうや」
「梶さん、もし私が『真剣に好きなんです』って言ったら付き合います?」
「……」
「下から上まで舐めるようにジロジロ見るな、変態!」
「無理。胸が……」
ドカッ 無駄に引き締まった尻に蹴りを入れた。
「ちょっ、もぅ、ミドリちゃんったら乱暴なんだからあ」
「無理なもんは無理」
「サクラちゃんに気ぃ遣っとうと?」
「私も好きだったら気なんて遣ってる余裕ありませんよ。捕りに行く!」
「きゃー、男前」
「……梶さんだってサクラちゃんに好きって言えばいいじゃないですか」
「今言えるかっつーの……それに、もうバレバレでしょうが」
「確かに」
暗闇の中、蛍光イエローのTシャツだけが歩いているように見える真っ黒な顔で白い歯を浮かべニカッと笑った梶さんもまた、切ない気持ちを抱えている。