(7)祭囃子と月の海
小高い丘の上にあるイベントホールの広場には、昨日より多い人で賑わっていた。元々お盆の時期には周囲の島の人達も集まって伝統的な「バグ祭」が開かれるのだけれど、この機会に私達にも楽しんで頂きたい、と村人が一丸となって準備をしてくださったそうだ。
七つの島にはそれぞれ鎮守神がいる。これがどう見ても日本っぽくない。バリ島とか東南アジア系の仮面神で、大きなソテツの葉っぱを体に巻き付けて、赤や青、黄色い恐ろしい顔のお面の「バグ神」達が手には鬼の金棒のような松明を持って村人を追いかけまわす。子供なら絶対チビるくらい不気味な声で怖いんだけど、松明の炭を顔に付けると一年間無病息災でいられる、ということで大人はその炭を何とかしてバグ神から奪おうと水をかけたり投げ縄をしたり、一人が囮になってみたり、と頭脳戦を繰り広げる。
私とサクラちゃんもキャーキャー言いながら逃げ回り、梶さんと隆志さんはバグ神の死角から炭を奪おうとして失敗し羽交い絞めにされ、ただでさえ真っ黒に日焼けした顔に炭を塗りたくられていた。
「ほれ、お裾分け!」
梶さんが自分の顔を撫でて炭のついた掌で、ベタあっと私の両頬を挟んだ。
「ぎゃあっ! もう、なんしよん!」
「善意! 善意やから……ぎゃっ、いてええぇっ!」
軽くふくらはぎを狙ったキックが脛にヒットしてしまい足を抱え込む梶さんを、真っ黒な顔した隆志さんと、バグ神の身に付けていたソテツの葉をもぎ取った(これも幸運らしい)マユミさんとサカエさん達も一緒に笑う。
「サクラちゃんもほら、付けてもらいなよ」
「だよね! 梶さん、私にもつけて」
私は隆志さんに付けてもらえば、というつもりで言ったのだけど?
「お、おう」
梶さんは私にやったように掌でサクラちゃんの頬を挟もうとして、ふと手を止めた。そして、人差し指で猫の髭みたいに3本ずつ両頬に描いたのだ。
「ちょっ、カワイイ! なんなの、この扱いの差!」
「そりゃあサクラちゃんは『女子』やけん! 相応しい炭の付け方というものが」
「ばっ……こンのクソオヤジ……!」
「ほら、そういうとこやろぉ!」
下心ミエミエじゃん! とツッコミたいところだが、見ちゃったのよね。炭を付けられそうになったサクラちゃんがギュッと目を瞑った顔を、一瞬愛おしそうに見て、頬に触れるその指が少し震えていたのを。いい歳のオッサンが童貞中学生かよ、と思いつつもなんだかちょっとせつなくなってしまった。
本当にサクラちゃんのこと、好きなんだな。
しばらくはその顔のまま、今日も調理専門学校の皆さんが作ってくれた素晴らしく美味しい料理を頂いていたけれど、トイレに行った時鏡を見てさすがに酷い、と思い顔を洗った。水だけだからそんなにキレイにはならなかったけどまあ暗いからいいや……おっと、タオル忘れた。女子力……
濡れた顔のままトイレから出たそこに通りかかったのは、初日に料理の感想を聞きに来た調理専門学校の男子生徒だった。シンプルなグレーのTシャツにデニムの裾を折ったその足に蛍光イエローのスニーカーが映える。
「あっ、こんばんは。今日はどう……どうしたんですか、顔」
「こんばんは! ちょっと炭つけられてちゃって。洗ったんだけど、タオル忘れて」
「……よかったら、どうぞ」
彼は斜めがけにしたショルダーバッグから紺色のタオルを出した。タオルも持たずに顔を洗いに来た自分が恥ずかしい。
「いやあ、汚れちゃう! 全然落ちてないから。すぐ乾くし」
「こんな色ですから炭がついてもわかりません」
クスッと笑いながら胸の前に押し付けパッと手を離したものだから、慌ててキャッチする。
「どうぞ」
「う、じゃあ、お言葉に甘えて」
なるべくこすらないように、サッと拭き取り返した。
「ありがとう……あ、今日の料理もすっごく美味しかった!」
「パエリア、食べました?」
「あ、今日の担当? ニンニクの香りがすごくよくて食欲そそった、味もちょっと濃い目で美味しかったよ」
「あ、濃かったですか?」
「いやっ、悪い意味じゃない。濃い目好きなんだ」
彼が歩き始めたので、なんとなく私も自然に隣を歩いた。何も言わないのは気を悪くした、とか? 本当に悪い意味じゃないんだよぉ……
ホールの外に出る。広場には提灯の灯りの中、笛や太鼓を鳴らしながら村の人達が盆踊りを踊っているそれとは反対方向へ歩いて行く。
「あのぉ……」
「後片付けまで自由時間なんです。ちょっと付き合ってもらえませんか」
あ、怒ってるんじゃないんだ。ホッとして頷いた。イベントホールの裏手の道をハイビスカスの生垣に沿って歩いて行くと、水銀灯もなくなり暗くなってきた。
「ひょあっ」
レンガ敷きだったはずの道が途切れたことに気付かず、その段差を踏み外しよろけた。転ぶ、と覚悟を決めた私の腕を、彼が咄嗟に掴んで引き上げてくれた。
「あ、りがとう」
「捻挫、してませんか? 歩けますか?」
「うん、大丈夫」
「……もうすぐですから」
「えっ」
わあっ……いつの間にか手、繋いでる。最初見た時「弟みたい」と思ったけど……しなやかで色白の手は優しそうに見えたのに、手のひらはいつも包丁を握っているからか意外とごつごつしていて力強い。暗い中でも、私の日焼けした手とのコントラストがはっきりとわかる。
膝くらいまで雑草の茂った中にある獣道のような細い道を進む彼の背中に、見とれながら手を引かれていった。皆から離れて、よく知らない男の人についていっちゃっていいんだろうか?――名前も知らないのに。でも、足が止まらないのだ。決して速く歩いているわけでもないのに、鼓動が早くなる。
ふと彼が足を止めた。道が二つに分かれている所に看板があり、右に行けば昨日行った天文台に行く道に出るようだ。私の方を一瞬振り返っただけで、左の方へ歩き出す。
「ね、どこに行ってるのかな」
「ああ、ほら、そこです」
崖、というほど急ではないけれど、雑草の途切れたその下は簡単には降りれそうにない岩場、目の前は海だ。
「満月だったら最高だったんだけど」
見上げると、夜空には昨日と変わらず半月がぽっかりと浮かんでいた。そしてその光を落とす海――小魚の群れが鱗を反射しながら泳いでいるように、穏やかなさざなみが柔らかに光を揺らす。海には何も浮かんでいない――そう、太平洋の海原。私たちの目の前には星空と、月と海しかない。
「いいね、太平洋」
「わかります? よかった。村のHPで見たんですよ、ここ。絶対見にこようと思って」
「穏やか……」
祭囃子の太鼓の音だけがドン、ドン、と遠く響く。虫が、沈黙隙間を埋めるように鳴いてくれる。月を見上げる彼の横顔をチラリ盗み見た。涼しげな目元――実を言うと、隆志さんのようなくっきり二重のアイドル系な顔は少し苦手だったりする。
「ミドリさんは、どこから来たんですか」
彼の目は、空を見上げたままだ。私も同じように月を見上げた。
「福岡市……えっ? な、なんで名前」
「ああ、すみません、他の方が呼んでたから……オレ、カイっていいます」
「甲斐さん、ね」
「苗字じゃないですよ、名前。苗字は芦木原」
「へぇ、珍しい」
「長ったらしいでしょう。だから、カイ、で」
「私は端谷っていいます。あ、でもミドリでいいんで」
なぜか二人同時にははっ、と笑ってよろしく、と今更だけど握手した。