(6)青い空白い雲赤いハイビスカス!
「えっ、な……」
「流されてる時、ミドリちゃんの事しか頭になかった」
隆志さんの大きな鼓動が伝わって来る。いや、でもちょっとまって、まずいって! 慌てて胸を力いっぱい押し返しその腕から逃れると、隆志さんに背を向けて丸椅子に座った。
「わ、わたっ……私なんてっ、ガサツだし男みたいでっ……」
「そんなことない……優しいよ。男みたいとか思ったことない。前から、気になってたけどお客さんやし、言ったらいかんって思ってた。でも、死ぬかもしれんって思った時、言わんと後悔するって……戻れたら絶対言うって決めとった」
こんなタイミングで言うなんて、ずるいっ。しかもいきなりキス……何年振りよ!? ……いやいや、そんな問題じゃない。違うっ、隆志さんとくっつくべきなのはサクラちゃんだからっ!
「えっと……」
ちゃんと目を見て断ろう、と体を隆志さんのほうへ向き直った時だった。部屋にサクラちゃんと梶さんが帰って来たのだ。
「ただいまー、腹減ったやろ。弁当もらってきた」
「あっ、おっ、お疲れ様でした」
「隆志さん、もう起き上がって大丈夫なんですか? よかったぁ」
サクラちゃんが弁当を持って駆け寄ってきたので、逃げるように椅子を譲った。
「うん、もう大丈夫。さすがに午後は潜れなさそうだけど……梶さん、すみません」
「そりゃそうだ、お前はもう今日は無理だわ。僕は最後の船に乗せてもらって行ってくるよ。あの、ほら、えーっと……マユミさんに誘われてね」
「へえ、マユミさんと! 梶さん、体大丈夫なの」
「僕は全っ然、何ともない。おっと、時間がない、早く食べなきゃ」
「あっ、梶さん! ほら、ここ座る所ないから、私達は待合室で食べさせてもらおうよ、ね」
部屋の中に他に椅子がないのをいいことに、サクラちゃんと隆志さんを部屋に残してそそくさと出て行った。
この村唯一の病院の、誰もいない待合室で二人、黙々と弁当を食べ梶さんは半分ほど残して蓋を閉めた。
「これくらいにしとくか……ミドリちゃん、どした? 何か隆志と話……」
「へっ、いえっ、なんっ、何もないですよ」
「ぷっ……ミドリちゃんはほーんと、素直やなあ」
「えっ」
「何か、あったんや。顔、赤いし」
「ひっ、日焼けっ」
「ふーん、ま、そういうことにしとくかな」
ニヤッと笑う。まさかこのオヤジ、隆志さんの気持ちを知ってる……?
「ごめん、悪いけど急ぐから、これ本部に捨てに行ってくれる? あと隆志とサクラちゃん頼むわ、夕飯まで宿舎で休めって言っといて」
残した弁当を手渡され、ヒラヒラ手を振りながら去って行った。それにしてもタフ。これからディープダイビングでマユミさんと潜る、って……どっちが誘ったのかなあ?
何となく部屋に戻り辛くて、スマホでゲームでもしようかと取り出してみたけれど何度やっても通信できずに諦めた。夕飯前に温泉入って潮を落としたいなあ……
「サクラちゃん、私、先に戻ってお風呂入るね」
あえて隆志さんとは目を合わせないように声を掛け、サクラちゃんの返事を聞き終わらないうちに部屋を出た。
湯船に浸かり、ふうっ、と大きなため息をつく。
隆志さんかあ……そういう風に意識したことなかったし、サクラちゃんの好きな人なんだし。好きだと言われても、やっぱりピンとこなかった。もちろん嫌いじゃないけど、イントラとスクール生以上の何者でもない――早く返事しよう。
午前中は少し波があったけれど、すっかり穏やかになった音を聴きながら浸かる温泉は、気持ちを穏やかにしてくれる。波に合わせて揺れる湯船は、まるでゆりかごのようだ。注意書きに「波が高い時は入浴禁止」と書いてあるけれどその基準は特にないようで、そのおおらかさがこの島の良さ。
スッキリして温泉の外に出て、思いっきり伸びをする。海の上には底辺を水平に切り揃えられたような積乱雲のタマゴたちが、ソフトクリームのように遠く続く。青い空――こっくりと濃厚なブルー。そして、島のいたるところに植えられている真っ赤なハイビスカスがその空にくっきりと映える。日本だと思えないのは、この湿気のない風。
「すっきりしましたかー、お嬢さん」
温泉に入りに来たのだろう、肩にタオルをかけた島のおばあちゃんが声を掛けてくれた。白髪交じりの髪を後ろでお団子にまとめ、ウエストのないラフな水色のワンピースが涼しげだ。
「はい、気持ちよかったです! いいお湯ですね」
「そうやろう、ここの湯は生きとるからのー」
「生きてる……?」
「火山と海の神様の恵みやからー」
そうか、この麦星島がある唐麦諸島は火山性の島だ。海に繋がった温泉なのに熱いのは、火山のお陰なのだ。おばあちゃんは、ひとり頷きながら温泉へ降りる階段へ向かって行った。
西陽にさらされて、私の短い髪は公民館にたどり着くまでには乾いてしまっていた。ヘアオイルも何もつけていない髪はパサパサ。ほらね、こういう所がサクラちゃんとの女子力の差よ。隆志さん、女見る目ないわ。
公民館に戻ると、皆に囲まれ質問攻めにあった。あまり詳しい事は知らされていないからか、そもそもなぜ流されたのかという核心を話さない私に多少イライラしている人もいたけれど、それを言ってしまえばサクラちゃんが批判されることになるだろう。
「よくわかんないけど……ま、いいんじゃない、フェスタは中止にならなかったんだからさ」
マユミさんの次にお姉さんのチハルさんがその場を収めてくれたところへ、サクラちゃんとマユミさん、サカエさんが帰って来た。一斉に顔を向けられ、サクラちゃんは一瞬ビクッとしたけれどすぐに深々と頭を下げた。
「あのっ、皆さん! お騒がせしてっ、ご迷惑をお掛けして……ご心配をおかけして、申しわけございませんでしたっ」
部屋の中が静まり返った。
「ほーんと迷惑」
「だよね」
小さな声だったのに、それは私達の胸に深く刺さった。これをきっかけに責める声が大きくなるかもしれない、と不安がよぎった。せっかくチハルさんが収めてくれたのに……覚悟の拳を握ったその時だった。
「やめなって!」
一喝したのはマユミさんだった。真っ赤な顔をして涙を堪えているサクラちゃんを座らせ、皆の前に立った。
「皆にだって起こりうることなんや。絶対にないとは言い切れんよ? いつ何が起こるかなんて予想、海相手に完璧にできる人間なんておらん。その為のバディであり、仲間なんやから。今日の事は、確かにちょっとしたミスはあったかもしれん、でもミドリや梶さんの対処が早くて的確だったから大事に至らなかった、サクラだってその場を動かんかったから、一緒に流されんですんだ。その事を評価したってよ」
「せやなあ、そのイントラだって頃合い見計らって流れから逃れられたんやろ、上出来やん」
「そうそう、明日は我が身ですから。文句言っといてもし自分がそんな事なったら恥かくよ?」
「仲良くやろうよぉ」
あちこちからそんな声が上がり、皆も笑顔で頷いた。大体誰が言ったのか想像はついたが、責めても仕方ない、心配をかけたのは事実だ。
「サクラちゃん、大丈夫? もう平気?」
「はいっ、ほんとに、ごめんなさいっ」
「さぁさ、そろそろお迎えが来るよ。今日もお祭りじゃあよ!」
いつの間にか夕焼け色に染まった空は、見た事もないくらいに濃いオレンジ色だった。皆は「わぁっ、眉描かなきゃ!」などと笑いながらそれぞれの部屋に散っていった。
「マユミさん、ありがとうございます」
「ほんまのことやし、な。気にせんでええのよ、ええ勉強したと思って?」
「はい」
「それよりなあ! ふふっ、サクラちゃんには悪いけど私もお陰で梶さんと潜れて幸せやったわあ、めっちゃいい写真撮れたから明日のフォトコン大賞はイタダキよ!」
さっきまで厳しいイントラの顔をしていたマユミさんが、カメラを片手に幸せそうに笑う。もう写真が撮れないサクラちゃんは複雑だろうと心配したのも束の間、その写真を覗き込んでだ目をキラキラさせ歓声を上げていた。
明日潜った時は私のカメラを貸して、交代で撮ろうっと!