(18)いつも、胸に。
昼も夜も弁当だと、カイ君達が作ってくれたあの豪勢なバイキングオードブルが心底恋しい。サクラちゃんと梶さんは二人でどこかへ消えてしまったし、隆志さんはまたあの東京の女の子達に連れて行かれてしまった。マユミさんとサカエさんは疲れたからちょっと寝てくる、と雑魚寝部屋へ行ってしまった。他の女子メンバーと一緒に食べたけど、なんとなく落ち着かない。
カイ君達はひとつ下のフロアにいるようで……同じフロアならバッタリ会うこともあったんだろうけど。LIME、結局まだ聞けてないし。
どうしようかな……もう、心が折れそう。皆は諦めるな、って言ってくれるけどきっと「縁」がないってことなんじゃないかな。
デッキの柵にもたれかかり、薄雲の合間に星を探す。ああ、初日は天文台に行ったっけ。遠い昔のように感じるなあ……あの時はまだサクラちゃんは、隆志さんのことが好きで……ほんっと、人生何が起こるかわかんないわ。どうやら最後の夜に「色々」あったらしい。
下のフロアの甲板は上よりも広い。ちょっとしたテーブルと椅子が何組か置かれていて、一番離れた所にサクラちゃんと梶さんらしき二人を見つけた。イチャイチャしているわけではなさそうだけれど、さすがに声をかけるのは野暮だろう、と思った矢先に梶さんがサクラちゃんの頭をポンポン、と優しく撫でたりして。チッ、ごちそーさま。
不意に下から賑やかな声が飛んでくる。調理専門学校の学生さん達なのだろう、大人の話し声とはノリが違う。縁がなかったんだよ、とか言いながらやっぱり……気になって仕方ない。彼らも数組の大人カップルがいるテーブルの方へは近寄りがたいのだろう、上から見える甲板のスペースには出てこずサイドのデッキにいるようだ。
降りてみようかとも思ったけれど、白々しいような気がして動けない。辛うじて、上下フロアを行き来する階段の横に移動して海を眺めてみたりなんかしてみる。なんだか子供じみてるなあ……中学生の時好きだった先輩が部活終わるのを、偶然を装って待っているあの時の感覚に似ている。そんなことを考えているうち、学生さん達の声も聞こえなくなった。
やっぱり恋愛に向いてないんだ。サクラちゃんみたいに、仕掛けることも甘えることもできない。かといって隆志さんみたいに仕掛けられても引いてしまう。今までも「自然の成り行きで」みたいな恋愛ばかりで、こんな風に初めてでどうしていいかわからない。
――いやいや、そこはさあ、ちょっと自分から動こうよ。
――いやいや、もう絶対的に時間足りないじゃん、もうすぐ学生さんは消灯だってよ?
――いやいや、時間、って。梶さんは一晩でゼロを100にしたんだぜ?
――いやいや、あれは、……その……
――ほら、探せ、呼び出せ。少なくとも消灯まであと30分あるっ。
頭の中でミドリと翠莉の押し問答――くそっ、足掻いてみるか。梶さん流に言うなら「一生あなたのお料理のモニターにしてください」ってとこ? いや、言わないけど。一生、は重いでしょ。
……よ、よしっ! 下のフロアとデッキ1周する、その間に会えなければ諦める。会えたら……会えたらモニター、じゃない、せめてLIME聞く。
ペンキが何度も塗り重ねられゴツゴツした鉄柵をぎゅっと握り締め、目をつぶった。カイ君にばったり会ったら「ちょっとデッキにでも出て話さない?」とか、うん、そういう感じで。そうだ、「ビールでも飲まない?」とか。うんうん、シミュレーションOK。下の階にはお酒の自販機があるし。よし。
ぴゃっ
突然、頬に冷たく硬い感触。
「飲みませんか、ミドリさん」
振り向くと、カイ君が両手にチューハイの缶を持って立っていた――!! あわわわわっ!!
「び!! っくりし、たあっ!」
「ああ、すみません……一度声掛けたんですけど」
「そそ、そうなんだ、気付かなかった、ごめん」
動揺を隠そうとする笑顔が強張っているのが自分でもよくわかるっ。何だコレっ。顔、見られないっ。
――いやいや、キタコレ、でしょ。
遠くで「翠莉」の声が聞こえる。
「どっちにします?」
カイ君は、チューハイのレモンと梅を差し出した。
「え、あ、どっちでも……いや、じゃあ梅、頂きます」
手が震えているのを、悟られはしなかっただろうか。口から心臓飛び出るってこういうことか。
「さっき、ここにいるのを見て急いで買ってきたんです。話そうと思って」
……どうしよう、嬉しすぎて泣きそう。
「もう消灯なんじゃないの?」
「ああ……ま、あいつらは未成年だけどオレはもう大人だし。いいんじゃないかな、と」
少し砕けた口調が嬉しかった。カイ君がチューハイをゴクリ、喉を鳴らして飲むのをチラリと横目で盗み見る。再び、フェリーの作る白い波跡がライトに照らされ規則的に走る海面に視線を落とす。まだドキドキが止まらなくて、片手は鉄柵から離せないままだ。私がチューハイを飲む姿を、カイ君がじっと見ているのがわかって耳が熱くなった。
「麦星島……いい所でしたね」
「うん」
あ、またデスマスに戻った。
「今日は朝からホールの調理室を綺麗にして、反省会して……それからちょっと海を散歩して」
「そうなんだ、お疲れ様」
「ミドリさんと海で会った時の事思い出して」
「う、ん」
「ええと……うん、これでもう会えなくなるのは嫌、かもしれない、と」
「えっ」
「あ、いや、かもしれないじゃなくて。あーっ、何言ってんだ、オレ」
お酒のせいなのか、再び崩れてくる口調が愛おしい。たまらん。もうダメ。
「だから……その、」
「カイ君!」
「あ、はい」
私がカイ君の方へまっすぐ体を向けると、カイ君も私を見てくれた。
「私も、カイ君とこのまま会えなくなるの、嫌」
「えっ、じゃあ」
「……連絡先、聞いていい?」
*
「ミドリちゃん、今日は本当にありがとう」
今にも雪が舞い落ちそうなクリスマスイブに、梶さんとサクラちゃんはレストランでこじんまりと披露宴を開いた。介添えなんて初体験だったけれど、幸せそうな二人のそばにいると私も満たされた気分になった。1年半経とうとしている今でも、あの日何が決め手で付き合うことになったのかはとうとう教えてもらえなかったけど、これでもかと言うほどサクラちゃんを溺愛している梶さんに安心して甘えきっているサクラちゃんを見ていたらそんなことはどうでもいいような気がしてきた。
「サクラちゃん大丈夫? つわり、きつくない?」
「うん、もう後は帰って休むだけだから」
サクラちゃんはそっとお腹に手をあてて、優しく微笑んだ。
「隆志も観光客が落ち着いたら1週間くらい帰ってくるから、その時は集まろう」
「わ、本当? 是非是非!」
今年の夏、隆志さんは一流のイントラになるためグアムに渡り、現地のダイビングショップで働いている。「ブルードア」は隆志さん目当てで着ていたスクール生をつなぎ止めるため、イケメンのイントラと見習いを2人も入れて業務拡大。サクラちゃんもただ梶さんに甘えているだけではなく、入籍後は仕事を辞め、持ち前の経理の腕を生かして二人で休みなく働いたのには驚いた。
来年あたり大きいテナントに引っ越そうか、と言っていた矢先の妊娠で計画は先延ばしになったが、今のショップからそう遠くない、ちょうどいい物件を既に交渉仮押さえ済みなんだとか。
「あれっ、ミドリちゃん、時間いいの?」
「ふぁっ、しまった! もうすぐ駅に着く……じゃあ、またお店寄るね」
「ふふっ、彼によろしく」
「うん!」
瀟洒なレストランの、アイビーの絡まる門を出ようとした時再びサクラちゃんの声がして振り向いた。
「ミドリちゃん、これ、受け取って!」
小走りで近付いたサクラちゃんが私の胸に飛び込むようにやって来て、真っ白なバラを桜色のリボンでまとめたブーケを渡された。
「ブーケトス、しなかったでしょ。最初からミドリちゃんに渡そうと思ってたの」
「ええっ……い、いいの?」
「カイ君、春からこっちの料亭で働くんでしょう? ふふっ、次はミドリちゃんのドレス姿が見たいなっ」
「ええっ、気が早いよぉ……でも、ありがとう。嬉しい」
*
バラにしては少し控えめな香りが、優しく部屋を包む。タイマーをセットしてあったエアコンがそれを更に柔らかい風にする。
「おはよう」
「お、はよう、翠莉」
最近ようやく名前を「さん」付けで呼ばなくなってきたところ。まだ少し照れくさいらしい。私を抱き枕のように抱え込みおでこにそっと唇をつける。跳ねるでもなく、いつも私が動くまでずっとそのままでいる。
「ね、卵はどうする? コーヒーは……」
「オレが卵作る。翠莉はコーヒーして……目玉焼きにする?」
「あ、この前してくれたのがいいな。ポー、なんとか」
「ポーチドエッグ。黄身はゆるめ? 半熟?」
「半熟で……ん、ね、離して」
「もうちょっと。寒い」
普段は朴訥な人からこんな風に甘えられると弱い。ヤバい、ニヤける。
「……二度寝はなしだよ、海威君」
彼の名前の漢字を知った時は何だか運命のようなものを感じ鳥肌が立ったっけ。威厳ある海のように、と漁師だったおじいちゃんがつけてくれたそうだ。
「オレには『さん付けで呼ぶな』って言っといて」
「ぎゃっ、やめ……くすぐったいっ、わ、わかったからっ」
「……」
「か、海威……」
「ん」
私の前髪をくしゃっと撫で上げ、再びおでこに唇をつける。あったかい……幸せだなあ。
――はっ、うっとりしてる場合じゃない!
「海威、そろそろほんとにヤバい、遅れるよ!」
「あ」
慌てて食事を採る。今日から年末年始の間、春から働く割烹に「研修」と言う名の下働きをしに行く彼を玄関から送り出す。
「いってらっしゃい」
「いって、きます」
そして私もいつものように。
身支度をして8時にはアパートを出て、8時15分の電車に乗って、8時40分に駅についてそこから徒歩8分で会社、9時始業、12時に昼休憩、5時半終業――相変わらず時間に追われて生きている。
でも――あの島を思い出すとフッ、と肩の力を抜くことができる。
エメラルドから群青へ美しいグラデーションを見せる海。光る波、色とりどりの魚たち。海と水平にどこまでも続く雲、空の深い青。
満天の星、海に映る月。乾いた風に揺れるハイビスカス、ブーゲンビレア。
のんびり話す島の人達の声、子供達の笛の音。お祭りの松明に浮かぶお面。島とともに生きている温泉の硫黄のにおい、おばあちゃんが話してくれた「ぼんじぇんさん」。
ゆったり、ゆったり寄せる波。
時間を忘れて、皆と笑った。いつかまた、ここで過ごそうと約束した。あのメンバーのLIMEグループは健在で、時々誰かがつぶやく「島にカエリタイ」という言葉に皆がGood!とスタンプを投げる。
いつか皆で、なんて非現実的なのは承知の上。今日もまた時間に追われ雑多な一日が始まり、そして疲れて眠りにつく。
でも、胸にあの島がある限り――あの日の海に身を委ねればまた明日、しなやかに生きていける、と自信を持って言える。
了
最後までお付き合いありがとうございました。
この島は、鹿児島県沖にあるトカラ列島がモデルです。火山性の島で、元々微細な地震はよくあったのですが、最近頻発していて大変心配です。
海はもちろんのこと、日本とは思えないようなビジュアルの神様のお祭り、公民館の目の前の温泉などなど、とても魅力的な島です。
私の拙い文章ではとてもこの魅力を充分にお伝えできているとは思えませんが……ふと「カエリタイ」と言いたくなる島です。
不思議な事に、あまり手元に資料が残っていないと思っていたのですが、連載終盤の頃実家から送られて来た荷物の中にトカラの写真や観光冊子などが入っていました。懐かしかったです。
本当に時計がないわけではありませんが、必要ないなあ、と思ってしまいます。
のんびりと、太陽の位置のままに過ごす、そんな数日間。
翠莉もサクラも、それぞれの幸せを掴んだようです。
いつかきっと、あの島をまた訪ねる事でしょう。