(15)カイ君、彼女いないってよ
バタバタッ パラパラ ボッ パタッパ、パ、ピチャ、パチャ、ボタッボボボ ダッ ザァ ブチュ
傘に当たる激しい雨音と、ぬかるみを避けながら歩く不規則な二人の足音が、夜に煙る雨の中を進んで行く。風も強く結局濡れていないのは頭だけになっていたけれど、カイ君はバッグを胸の前にしっかりと抱いて歩いたのでフルーツタルトは無事だった。イベントホールのテラスの下にあった、勝手口のタタキに座り再び差し出されたタルトを頬張る。パイナップルの酸味とピスタチオの香ばしさ、メロンとマンゴーのトロトロな甘さを、軽やかに仕上げられたカスタードがひとつにまとめてくれる。
「うっわ……なにこれ……おいひー!」
「よかったです」
顔を上げた私を見て、カイ君がプッ、と吹き出した。
「ははっ、ミドリさんって……」
ふいにカイ君の手が伸び、私の頬についたカスタードを親指で拭う。そしてそれを、カイ君の唇が舐めとった。
「子供みたい」
グイ、と冷えた肩を抱き寄せられ、その手のぬくもりも伝わらないうちに二人の唇が重なり合う。二人の吐息は甘いカスタード――
ああ、幸せ……好き……
「……ちゃん、ミドリちゃんっ!」
そんな、昂ぶった声で肩を揺らさないで、優しくギュッて抱きしめて……
「もうっ、起きてよ! いい加減やばいって、一番最後になっちゃうよ?」
「ふえっ」
無理やり腕を引かれ、ズル、と布団から体が落ちた……夢オチかーいッ!! サクラちゃんが、その名に恥じぬ桜色の唇を尖らせている。
「もうほとんど皆朝食行っちゃったよ? 今日はほら、港で島の人達が『朝獲れ漁師汁』振舞ってくれるって楽しみにしてたのミドリちゃんでしょっ」
……ひどい。逆に落ち込むわ、こんな夢。
実際のところ――タルトを食べて「おいひー」と言った私に、カイ君は「よかったです」と満足気に去って行ったのだ。1分位呆然と突っ立っていたかもしれない。頬についたカスタードは自分で気付いて拭いましたとさ……
ショックって脚からくるのね。よたよたとホールに戻り、半ばヤケ酒となった。
何だったんだ。
わざわざ大雨の中探しに来てくれたのに、タルト食べたら終わり、って。じゃあ、って。単なるモニター? だったらおいひーだけじゃなくてもっと突っ込んで聞けよ! と胸の内は大荒れだった。隆志さんには察しがついたのだろう、もういいだけ酔っ払った後はウーロン茶を飲まされていた気がする。おかげでちょっと頭痛いくらいで済んでるけど、胸のムカムカはどっちが原因なんだろう。
昨晩の雨に洗い流された空気と緑の木々が眩しい。真っ赤なハイビスカスはより一掃真っ赤に、濃いブルーの空に映えて咲く。原色のオンパレードに二日酔いの目がシパシパする。
今、8時くらいかな? 時間……あ、スマフォ忘れてきたわ。ま、いっか。
まだ涼しい朝の風が、襟足の髪を撫でていく。ああ、釈然としない、わけがわかんないッ! こんなに清々しい朝なのに、なんだこのモヤモヤは。
……いや、落ち着け、翠莉。男を漁りに来たんじゃなかろうもん。潜りに来たんだ、写真撮りに来たんだ、出会いなど求めてない――忘れよう、あれはきっと幻、とまでは言わないけれど開放的になってこの非日常に惑わされただけ。ましてやダイビング関係者でもないんだから、現実に戻れば交わることのない人……日頃モテない私に神様が「お前は女としてどうなんじゃ、ちったあ考えろ!」と投げつけた戒めなんだわ。
「どうぞー、まだたっぷりあるからお代わりして下さいねー」
よく陽に焼けた笑顔が眩しい島のおばちゃんが、香ばしい味噌汁をよそった丼を渡してくれた。大鍋の横にはバーベキューコンロがあり、鉄板の上では味噌が焼かれていた。一度香ばしく焼いた味噌を、贅沢にも鯛や海老の殻でとった出汁に溶き、やはり炭火で焼いた海老と白身の魚と、獲れたての「あおさ」がたっぷり入っている。
香りを深く胸に吸い込むと、口の中に唾液がどばっと出てきた。貴重な「島海苔」を巻いたおにぎりには、昔田舎のおばあちゃん家で食べたようなガツンと味の濃い梅干。ほぐした鯖の身がまざった方もおいしそう!
一口味噌汁をすすれば、二日酔いの五臓六腑に染み渡るぜ……いや、だからその表現がおっさんだと。
「料理学校の人達、朝一番に来たんだって。残念だったねえ、ミドリちゃん」
「……別に、いいし」
「えっ……カイ君は?」
「なんかねえ、もういいよ。彼、別に私自身に興味があったわけじゃないみたい」
「どういうこと? 嘘でしょ、待って待って。ねえ、何か言われたの?」
「ううん。ただ、おいしそうに食べる人だったら誰でもよかったんじゃない?」
「そんなわけないって!」
「いいんだ、もう。忘れて?」
「やだあ、ミドリちゃん、泣かないで……」
えっ。私、泣いてる? いやいや、鼻がちょっとツーンとなっただけ。
「なっ、泣いてないよ?」
サクラちゃんはじーっと私の顔を見ると、クスッと笑った。
「だよねー」
なんなんだ、カマかけたな? 次にサクラちゃんは、スマフォをポケットから取り出し綺麗にネイルをした指で操作するとその画面を私に見せた。
「いる?」
「ひっ」
そこには、少し困惑したように微笑むカイ君が映っていた。
「い、つとっ、たのっ」
おにぎりを喉に詰まらせ、むせた。慌ててお茶で流し込む。
「えー、昨日。ケーキ取りに行った時ね。最初断られたけど、強引にお願いしちゃった。LIMEに送っとくね」
「えっ、ちょ、いらないって。駄目だって、勝手にっ」
「……そんな意地張らなくていいじゃん、彼にはミドリちゃんに送る許可もらってるし。あ、彼女いないってよ?」
「なっ、許可っ……彼女いるかって聞いたの!?」
「私じゃないよぉ、梶さんが」
……絶句。もぉ何なの、この二人――そっか、いないのか、と昨日までの私ならぱぁっと頭の中にハイビスカスが咲いたんだろうけど。
昨日すっかり酔っぱらってしまって、サクラちゃんが梶さんに送られて公民館に帰って来た時には既に眠っていたので話していなかった昨日の事を、説明した。
「えっ……でもそれってぇ……ほら、恥ずかしかったとかさあ……まあ女の子慣れはしてなさそうだから、ね?」
「とか言いながらサクラちゃんだって『脈なし』って思ったでしょ?」
「んんんー……難しいなあ。気にならないならわざわざ探してまでケーキ持ってこないんじゃない? だって『おいしー』なんて皆言ってたんだしさ。ミドリちゃんからの一言が聞きたかったんだよ、それで満足しちゃったんでしょ」
「でもさ、それで終わりってなくない?」
「んー、じゃあ、ほら、時間ギリギリだったとかさ」
早くも強くなってきた日差しを、鮮やかなピンクや白のブーゲンビレアで覆われた漁協の車庫が遮り、爽やかな風が送り込まれてくる。このもやもやした心を浄化して、遠くに持って行ってくれないかな。
「焦っちゃうよねえ……今日までだもんね」
「焦ってなんか」
「気持ちはわかるけどさ。帰りのフェリーでゆっくり話しなよ」
「う……」
「ふふっ、ミドリちゃんかわいい」
何も返せなかった。自分の耳がこんなに熱く感じることなんてそう滅多にあるもんじゃない。彼氏いない暦4年、恋の始め方なんてもう忘れてた。気持ちを伝える方法なんていくらでもあるじゃん、と思ってたのに、いざ自分の事になるとどうしていいかわからない。
一緒に月を見た時の穏やかな横顔、低く落ち着いた声、手の温度。海に濡れた髪、広い背中。昨日「よかった」と言って笑ったカイ君が、頭の中で折り重なって胸の辺りがぞわぞわして。わけもなく泣きたくなる、この状況――学生時代のそれとは、ちょっと違う。あの頃は、ただひたすら楽しかった。たとえ実らない恋でも、毎日会えればいい、話せればいい。「自分の気持ち」を楽しんでいた、と今になって思えばわかる。
でも、これは違う。一番違うのは、タイミングを間違えばもうチャンスは来ない、ってこと。その事を考えただけで、身が引き裂かれるように辛い、ってこと。
だからと言って年上の自分からガツガツいくのも怖い。こんな出逢って数日で「好きです」なんて、尻軽みたいに思われないだろうか。
くだらないプライド……いや、本当はただ怖いだけ。
自分の気持ちを楽しむ余裕なんて、もうない。