(11)そうだ、移住しよう
あんまりびっくりしすぎてシュノーケルが外れ、海水が口の中に流れ込む。もがきながら捕まれた腕を振り払い海面へ顔を出すと、そこには水中眼鏡を額にずらし上げたカイ君が手で顔の水気を払いながら浮いていた。
「ちょ、……びっくりしたっ!」
「すみません、そんなに驚かれると思わなくて」
慌てて追って浮上したサクラちゃんが、状況を飲み込めず「えっ? えっ?」と二人の顔を交互に見ている。
「ミドリさん、呼んだのに気付いてくれないから」
「え、二人とも知り合いなの?」
「いや……あの、昨日ちょっと話した、だけ……って、ちょっと手、放して」
「あ、すみません」
……次の言葉が出てこない。心臓のバクバクが頭の中まで響いてる。
「えーっと……あ、私喉乾いちゃった! 先に上がっとくね」
サクラちゃんは高校時代水泳部だった華麗な泳ぎで、海面を滑るように素早く去って行ってしまった。
「えっと……気付かなくてごめん、何か用?」
わー、そっけない。もうちょっと愛想よくできないのか、私。
「昨日、あれから怒られませんでしたか」
「ううん、別に何も。子供じゃないんだし」
寄せる波が二人を揺らす。なぜか緊張して体に力が入り、沈みそうになるのを、意識して力を抜いて浮いている。
「よかった、それが気になって。オレ……自分達、あと30分で自由時間終わるんで。会えてよかったです」
「あ、そう……」
え? 良かった? ……彼の、次の言葉を待ってしまう。
「お邪魔してすみません」
「えっ、ああ……」
彼は方向を変え、ゆったりと平泳ぎをしようとした。いや、ちょっと待って!
「カイ君!」
思わず呼び止めてしまった。何で? 何で呼び止めたの? 何を話すのかもわからないまま。彼は、泳ぐのを止め、再び私の方へ顔を向けた。
「あの、えーと……これから料理作るの」
わー、馬鹿! そんなわかりきった事しか出てこないのか! もっと気の利いた話題ないのかっ!
「あ、はい」
「うん、あの……楽しみにしてるから。頑張って」
「はい……っと……今日、ケーキ担当なんで」
「へぇ、ケーキも作るんだ」
「一応、一通りは」
「内緒なんじゃなかったの」
「あ、そうだった! ははっ、まあいいや。絶対食べてくださいね」
少しうつむき自嘲気味に笑ったあと、まっすぐ私を見た。その優しげな笑顔と目が合った瞬間、下腹からなんだかもぞもぞしたものが湧き上がってくる。明るい海面へ浮かんでいくバブルみたいに。顔が、熱い。
「も、もちろん、食べるよ? デザートは別腹だし」
「良かったです。じゃあ、感想聞きに行きますから」
ゆったりと平泳ぎで岸に向かって泳ぐカイ君を、ぼーっと見送る。なんだろう……この感じ。早く離れて欲しいような欲しくないような。彼が浜に上がって歩いていくと、早速2人の女の子が寄ってきてこっちを見ながら何か不満そうに彼と話している。どっちかが彼女なんだろうか、と思った途端に気持ちが拗ねている。
彼の事をよく知りもしないのに?
いいじゃん、トータル1時間位話した。頑張ってる人だってわかった。優しい人だって思った。声が好き。目が、好き。何なら、今日はケーキだけを食べ続けたっていい。
彼女、いるんだろうか。いたとしたら、こんな風に追いかけてきてくれたりしないよね? じゃあ、あの子達は何? 少なくとも敵視されてるのはわかる。
浜まで泳いで帰る間じゅう、そんなことをグルグル考えていた。サクラちゃんはそんな私に、ニヤニヤしながらお茶を差し出す。
「え、じゃあ昨日の夜は隆志さんじゃなくて、あの子と一緒にいたの?」
「あ、うん」
「なんだぁ、てっきり隆志さんといたのかと思った……誘われたの?」
「いや、たまたま会って……景色を観に行こう、って」
「いやーん、素敵! いいじゃん、彼。気になってるんでしょ」
「えっ……いや、うん、わかんない」
学生さん達が、一斉にワゴン車に乗り込む。その姿を、膝を抱えチラ見する。男子が少ないという事もあるけれど、やはり彼は目立つ……んじゃない、私の目が彼しか追っていないからだ。乗り込む瞬間、ちらっとこっちを見たような気がした。いやいや、うぬぼれるな、たまたまだって。ミドリ、あんたねえ、ただでさえ年上なんだし貧乳なんだし料理下手なんだし遠距離なんだし。なーんにもいいとこないのに彼とどうこうなれるわけないんだ。
さっさと諦める、さっさと。
「彼もミドリちゃんの事気になってるよ、絶対。イケるって!」
「やめてよ、無理無理」
「えー」
「この話、終わり! さ、人も少なくなったし今度はあっちの岩場行ってみようよ」
反対側の岩場には、結構たくさんの種類の魚がいた。おまけに他のスクールダイバーの女の子達とビーチバレーしたりして遊んでいるうち、陽が少し傾いてきた。
「今、何時だろうね」
「さあ……」
「なんかさあ、どうでもよくなってくるよね、時間なんて」
「そうそう。この島、異様に時計ないし」
「あー……私たち社会復帰できるんでしょうか」
「無理……もうここにずっといたい……」
皆、寄せては返す波をぼぉっと眺めながら口々に、そして何かの催眠にかかったようにつぶやく。
朝7時に起きて、8時にはアパートを出て、8時15分の電車に乗って、8時40分に駅についてそこから徒歩8分で会社、9時始業、12時に昼休憩、5時半終業、その間に何時に打ち合わせだの会議だの、と時間に追われて生活しているとここの生活は天国のようだった。
陽が昇るとともに起き、お腹がすいたら朝食の会場へ行き、さすがにダイビングは時間が決まってるけどその他は本当に自由で。自分の好きなタイミングで温泉浸かって眠くなったら寝る。昨日こそ昼間はバタバタしたけれど、皆最初に出逢った時の緊張した顔はいつの間にか呆けてしまっていた。
「カメハメハだね……」
「え、何?」
「歌、知らない? 陽が昇ったら起きて沈んだら寝て。学校は風が吹いたら遅刻して雨が降ったら休みなんだって」
「うん、カメハメハや……最高やん……誰か、島の男性嫁にもらってくれへんかな」
「若い人、いたよねえ。ちらほら」
「あれって鹿児島県庁の人っちゃろ」
「まじか……島の人じゃないんだ。もうさ、皆で移住しよ! 自給自足で」
この広い空の下で。お互いの役割を果たしながらも気ままに伸び伸びと生きる自分たちを想像する。畑仕事なら田舎のおばあちゃん家で手伝った事あるし。虫も意外と平気だし。釣りならダイビングの合間にやったことあるし素潜りもできる。贅沢などしなくても、私たちには海がある。
砂浜に寝転がってぼんやり空に描く、この島で暮らす私。そうだなあ、あとはおいしい料理を作ってくれる人がいれば……白いシャツに藍染のエプロンをしたカイ君が隣にいてくれたら……最高。
おいおい、全く都合のいい女だよ……
見回せば、みんな口をポカンと開けて空を見上げてる。ねえ、皆の隣には誰がいるの?
女たちの現実逃避は、ワゴン車で迎えに来た島のおっちゃんが鳴らしたクラクションで弾けて、虚しく波にさらわれていった。