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第11話 異世界少女へ思うこと

「さるすけ、ぽてちとってですよ」

「『さすけ』だっての。はいよ」


 ストック用のバッグからポテトチップスを一枚取り出して、テーブルにぺたんと座るチビ妖精に渡してやる。


「ありがとーです。あむっ」


 両手でそれを持つと、俺にお礼を言ってからひとくちぱくりとかじりついた。チビ妖精が美味そうに食べてるポテトチップスは、ノンオイル・ノンフライの先輩お手製。だから、油で手がべたつく心配もない。


「ピピナちゃん。梅昆布茶の粉、手とか口についてるよ」

「ふぇっ? わっ、ありがとーです。んむんむ」


 はす向かいのソファーに座っていた有楽がウエットティッシュを一枚取って、チビ妖精の口や手を優しく拭う。こいつめ、すっかり有楽にも甘えてやがるな。


「サスケもカナも、ピピナと仲が良くなったようだな」

「まあな」

「このあいだルティちゃんが寝てたときに、いろいろとねー」


 確認するようなルティの言葉から、俺はポテトチップスを食べて逃げ、有楽もごまかしてるんだか本当にあったんだかわからないことを口走って逃げる。

 レンディアールから帰ってきた俺たちは、ルティに心配をさせたくないというチビ妖精のお願いもあって、ひとまず行ったことは秘密にしようということで口裏を合わせていた。


「ふたりとも、やさしーですから。あむっ」


 その張本人であるチビ妖精――ピピナも、あくまでもなんでもないように装う。違いといえば、俺と有楽にすっかり懐いているぐらい……って、俺についてはこの間とは全く違いすぎる態度なんだけど、


「仲良きことは、とてもよきことだ」

「ですねっ」


 ルティと赤坂先輩は、その言葉を素直に受け入れているらしい。

 ……ほんのちょっと、ほんの少しだけ痛む良心は、ポテチを食べてごまかそう。


 チビ妖精――ピピナに魂だけレンディアールへ連れられていったのが、昨日の夜のこと。今日は、赤坂先輩の家でルティ向けのラジオ教室の手伝いをしていた。


『埼玉武蔵野ライオネス、外野手の竹井正人です。東都放送ライオネスアワー、グッと行こうぜ東都放送、グッと行こうぜライオネス!』

「せんぱいっ、そろそろCM明けですよっ」

「あいよ」


 日曜日からサッカーの試合、若葉南高の放送部、わかばシティFMのスタジオと続いたルティへのラジオ教室は、今日で4日目。プロ野球の試合がデーゲームで中継されるからと先輩の家でやろうということになって、


『少し日が傾いて参りました、ここ武蔵野ドーム。埼玉武蔵野ライオネスと千葉ポセイドンズの試合は9回で決着つかず、これから10回の表、延長戦へと突入いたします。実況は私、松浜(まつはま)文和(ふみかず)、解説は〈伝説のミスターポセイドンズ〉・立芝(たてしば)(きよし)さん、1塁側はベンチリポーター東都放送の石塚(いしづか)千治(ちはる)、3塁側は同じく菅原(すがわら)吾朗ごろうの〈ゴールデンウィーク・フォーメーション〉で引き続きお伝えしてまいります』


 教材には、松浜文和――俺の父さんが実況を担当している野球の生放送が使われていた。


『さて先ほどの9回裏、7対3の4点ビハインドで迎えたライオネスですが、夏川と深町の連続ヒットから竹井がデッドボール、満塁になったところでパグラリアールがレフト芝生席の最上段へ起死回生の同点満塁ホームランを叩き込み、試合を振り出しへと戻しています』

「サスケの父御といいヒロツグ殿といい、よくこれだけの情報を短く濃密に言えるものだ」

「目の前の情報をできるだけ早くまとめて伝えるのが、アナウンサーの仕事だからな」

「しかし、先日の〈さっかぁ〉と同じように一点の場所から試合を見なければならないのだろう? 〈てれび〉で見るだけなのとは違って、とても大変そうだ」


 そして、補助教材としてテレビでのライオネス対ポセイドンズの中継映像もあわせて使っている。映像はテレビ、音声はラジオにして、ルティにわかりやすくしてみようっていう先輩からの提案だ。


「サッカーにしろ野球にしろ、全体を見渡さないといけないのは同じだ。普通のトーク番組……えっと、参加者がしゃべる番組にしても、見渡してまとめる人がいないと収拾がつかないみたいにな」

「なるほど」

「せんぱいのポジションですよね」

「暴走しまくりなお前のせいだよ」


 そういう意味では、有楽の暴走はラジオの進行を守るいい参考にはなっているとは思う。子守りという意味でも。


『ツーナッシング、ノーアウトランナーなし。7対7、延長10回ポセイドンズの攻撃。先頭打者里村、ここは塁に出たいところ。第3球を投げました。アウトコース低め、打った、ライトの右、ハーフライナーだっ。ライトが右へ寄っていく。ワンバウンド、ヒットになった! 里村1塁を大きく回って急ブレーキ! ゆっくりと1塁ベースへと戻ります。ノーアウト1塁!』


 お、延長初っぱなから動いたか。


『今のバッティングはいかがでしょうか、立芝さん』

『さすがの里村ですね。外へ沈むシンカーをうまくすくい上げました。あれを打たれたら何も言えませんよ』

『里村は絶好調ですからね。レフト前ヒット、センターオーバーのツーベース、レフト前のタイムリー、三振、そして敬遠と5打席で4打数3安打。本日、文句なしの猛打賞です!』

「既に4時間ほどしゃべり続けているというのに、まだまだ口がまわるのか……」

「もっと試合が長くなれば6時間ぐらいしゃべることもあるし、トーク番組じゃ9時間ぐらいしゃべる人もいたりするからな。ここらへんはもう慣れだよ」

「9時間もだと!?」


 実際、県内が放送区域のFMムサシノでは金曜日の朝9時から夕方6時まで大ベテランのDJさんがロングラン放送を毎週やっていたりする。もう70代も半ばだってのに、実にファンキーな大先輩だ。


「せんぱいのお父さんは、今年でアナウンサー歴何年なんですか?」

「今年でちょうど25年だな」

「四半世紀ですかー、長いですね」

「俺が生まれる前は夜ワイドをやってて、その後にスポーツへ転向したんだとさ」


 俺が物心ついてたときには、父さんはもう東都放送の第一線でスポーツの実況アナウンサーとして活躍していた。正月は大学駅伝の実況に行って、2月になればプロ野球のキャンプインで取材。3月の下旬になればプロ野球が開幕して、それが10月末まで続く。オフシーズンには生活情報番組を担当して、また次の年へ。

 一年中忙しい父さんではあるけれども、時間を見つけては勉強を見てくれたり、母さんの店を手伝ったり、朝から晩までとことん遊んでくれたりと松浜家の頼もしい大黒柱だ。


『ピッチャー小沼、第5球を投げました。インコース高めっ、空振り三振っ! スリーアウトチェンジッ!』

『いやー今のは強気でしたね!』

『三振したベイリー、悔しそうにバットを叩きつけます! ボール球につられて振ってしまったベイリー、今日は5の0と絶不調! ランナーひとり残塁で10回の表終了、7対7の同点のまま、試合は延長10回の裏へと進みます!』


 ラジオのスピーカーからは父さんの上ずった声が、画面のほうでは折れてグラウンドに落ちたバットが映し出されて、それぞれCMへと移っていった。


「ふむ、実況に勢いを付けることで起伏をもたらしている面もあるのだろうか」

「おっ、そこに気付いたか」

「最初のほうは得点を取っても幾分か淡々としていたが、さきほどの9回といい今の回といい、走者が出るたびにサスケの父御が盛り上げているように聴こえたのだ」

「最初のほうで得点が入っても、そこで試合が必ずしも決まるってわけじゃないからな。大詰めになればなるほど緊迫感を出すって、父さんは言ってた」

「そこは〈さっかぁ〉と共通しているのだな。なるほど、実況とは奥深い」


 ふふっと楽しそうに笑いながら、ルティが手にしたポテトチップスぱりっとかじる。ルティもだんだん、ラジオがどういうものかがわかってきたらしい。


 その後も延長戦は続いて、10回裏、11回表と両チーム無得点。試合が動いたのは、11回裏に入ってからだった。


『さあ十一回の裏、7対7でライオネスの攻撃。ツーアウト満塁、一打サヨナラ、最大のチャンスを迎えました!』


 ポセイドンズの投手、村浜からライオネス打線が連続ヒットを放つと、ここでクローザーの小森が登板。フォアボールを出してから連続三振でツーアウトにしたところで、コンポのスピーカーからは父さんの実況と観客の大歓声が響いていた。


「サスケよ、ここであと何点入れれば〈らいおねす〉が勝てるのだ?」

「あと1点だな。9回か延長で同点の場合、表のチームが点を入れて裏を守り切るか、裏のチームが点を入れれば試合終了になる。『サヨナラ』ってのは、それで裏のチームが勝った時に言われるんだ」

「試合と〈サヨナラ〉するというわけか。ふふっ、なんとも洒落ている」


 日曜日にサッカーを見に行ったときと違って、今日のルティは落ち着いて試合を見ている。やっぱり、直接観戦するのとラジオかテレビを経由するのとじゃのめり込み度合いが違うのかな。


『ここで打席に立つのは〈武蔵野の蒼き豪砲〉、怪我から復帰したばかりの竹井正人。レフトスタンドの応援団が、今日一番の大歓声で迎えます!』


 父さんが言い終わるのと同時に、歓声のボリュームが一気に上がる。球場のボルテージを伝えるために、実況アナウンサーがよく使う手法だ。


『一昨年のファイナルシリーズでライトフェンス際の大飛球をジャンピングキャッチし、チームの日本シリーズ進出と引き替えに右肩を脱臼して右上腕とすねを骨折。全治10ヶ月の大怪我を負いながらも、不屈の闘志でリハビリと練習に励んで参りました。

 今日607日ぶりのスタメンで一軍復帰を果たした竹井は、ここまで三振、ライトライナー、ピッチャーゴロ、ライトフライとデッドボール。まだヒットは出ていませんが、立芝さん、この第6打席をどう見ますか?』

『そうですね。9回のデッドボールはヒヤリとしましたが、無事でしたし同点ホームランの足がかりを作りましたから、ここで仕切り直しといきたいところでしょう』

『まさに、真価の問いどころですね。対するポセイドンズの内野はツーアウトになったことで前進守備から通常守備へ。ピッチャーは美浜の防波堤・小森雅之。マウンドに集まった内野手が、元のポジションへと散っていきます』


 唸るように、父さんが興奮を抑える。大詰めのチャンスやピンチの時には、いつもこうして呼吸を整えていた。テレビの画面では、小森の背と向かい合ってバットを構える竹井の姿が映し出されている。


『ピッチャー小森、セットポジションから第一球――』


 そして、小森が豪快なフォームからボールを投げたその瞬間、


『バント! スクイズだっ!』


 竹井はバットを寝かせると、押し出すようにしてボールを前へ転がした!


『ランナー全員走る! ピッチャーの横をすり抜けた打球はショートがキャッチして一塁へ! 竹井ヘッドスライディング!』


 走る竹井が一塁ベースに飛びつくと、審判が素早く両手を横に広げて、


『セーフ! ファーストすかさずホームへ投げる! 大関もヘッドスライディング! 判定は!?』


 瞬間、歓声が実況を覆い――


『セーフ! セーフ! サヨナラ! ライオネスサヨナラぁぁぁぁぁぁぁぁ!』


 父さんの実況が、それを破り返した。


『竹井! 復帰第二打席は奇襲のプッシュバント! 間一髪のサヨナラ! サヨナラでっ! ライオネス連敗脱出っ! ヒーローが! ヒーローが帰ってきましたぁぁぁぁぁぁ!』

『いやぁこれはお見事ですね! そうでした、彼にはこの足とバントがありました!』

『竹井、完全……復活、ですっ! 立芝さん、うぐっ、立芝さぁん……!』


「えっ」

「これって、ないてるですか?」

「あー……」


 試合展開からして、もしかしたらとは思っていた。思ってはいたけど。


「父さんさ……実況中に感極まると泣くんだよ……」


 よりによって、みんなで聴いてるときに泣く試合が来ちゃったか……


『まさか、まさかこんな形で、こんな形で立ち会えるとは……一月の自主トレの時にっ、単独インタビューしてっ、彼は約束しましたっ……ひぐっう、必ず、必ずまた球場を沸かせると! そして今日、彼の復活した快足がチームを連敗から救いましたぁぁぁっ!』

「号泣ですね……」

「ま、松浜くんのお父さんは『泣く実況』で有名なのよね」

「さすがに今はこっぱずかしいっす……」


 呆気にとられてるルティにチビ妖精と有楽はまだしも、慰めるような先輩の言葉はちょいと堪える。まあ、巡り合わせってことで仕方ないとは思うけど……


「嫌、なのか?」

「ん?」


 頭を抱えていた俺の耳に届いたルティの声は、どこか硬くて、


「サスケは、父御がこのような実況をするのが嫌なのか?」

「へっ? いや、いやいやいや!」


 顔を上げて合った悲しそうな目に、あわてて否定してみせた。


「そんなことはないって。ただ、みんなに父さんの泣き声を聴かれるのが恥ずかしいだけだ」

「???」

「例えばだけど……そうだな。親しい友達とラジオを聴いてたら、突然ルティの父さんがうれし泣きしている声が流れてきたらどう思う?」

「父様の声が……」


 納得いかないとばかりに眉をしかめていたルティは、目を閉じてその光景をイメージしてみたようで、


「は、恥ずかしいな。確かに」

「今の俺がそんな感じだ」


 同意したその言葉と、紅くなった頬には恥ずかしさが混じっていた。


「まあ、父さんの気持ちもわかるっちゃわかるんだけどさ。竹井さんが怪我をしてからずっと追い掛けてたし、ずっと復帰を待ち望んでたから」

「さっき607にちっていってたですけど、それからずっとですか?」

「ああ。というか、怪我した日の実況も父さんだったんだよ。だから、それからずっとだ」


 あの日も今日みたいなデーゲームで、竹井さんが激突して動けなくなったときの硬い実況は今でも耳に焼き付いている。泣くのをこらえた父さんが「元気な姿で帰ってくることを願います」と言い切ってから今日で607日。その日々を思えば、父さんの涙の理由もわからなくはない。


「タケイ殿の生き様を、ずっと見続けてきたからこその涙なのだな」

「竹井さんも含めて、ライオネスに関わってきた多くの人たちを見て来たからかもしれないな。入団してから引退するまで見て来た人も、相当多いし」

「その生き様を伝えるのもまた、実況の仕事というわけか」

「そういうことだ。ルティ、いいこと言うじゃん」

「これも、〈ニホン〉で出会った皆のおかげだ。〈らじお〉とは何たるかを、少しずつわかってきたような気がする」


 まだ序の口かもしれないがと照れ笑いを浮かべるルティだけど、さっきのペース配分のことといい、ラジオがどういうものなのかを猛スピードで学んで、理解しようと努力している。

 赤坂先輩の家ではずっとわかばシティFMや大手民放も聴いているそうだし、今日の午前中は初めて俺たちと会ったスタジオ前で有楽と公開生放送の番組を見学していた。そして――


「今のことも、忘れずに書き留めておかねば」


 紺色のキュロットに包まれた膝元のノートへ、ルティが何かを書き始める。昨日の収録後に赤坂先輩が買ってあげたらしく、午前中にスタジオ前へ行ったときからずっと肌身離さず持っていた。


「ルティちゃん、そのペンで大丈夫だった?」

「うむ。書き応えがあるレンディアールの鉄筆もよいが、軽いこれも書きやすくてよいな」


 そして、その手にはここに来る前に有楽が文房具屋で買ってプレゼントした、ちょっとお高めのボールペンが握られている。書いている文字も内容もさっぱりわからないけど、さらさらと書くルティの筆使いはとても軽やかだった。


 先輩も有楽も、ルティの助けになればといろんなことを考えて行動している。


「ん? どうした、サスケ」

「いや、なんでもない」


 言えるわけがないよな。

 俺も、他にルティの助けができないか……なんてさ。


 *  *  *


 レンディアールに連れて行かれたことでふたりを全面的にバックアップしようと決めたのまではよかったけど、結局のところ、俺がルティにできるのはラジオを教えることだけ。

 先輩と有楽みたいに、ルティとチビ妖精のことを生活面でケアしてあげられるわけじゃないし、かといって、これまで以上にできることなんてほぼないわけで。


「さーすーけー」


 今は、それがちょっともどかしくて。


「こら、佐助」

「あいてっ」


 ためいきをつこうとしたところで、叩かれたような衝撃が頭に軽く走る。


「ホウキ持ったまま突っ立ってないの。ただでさえあんたは図体がデカいんだし」

「だからって、トレイで叩くことはないだろっ」


 振り向くと、木製のトレイを軽く振りながら母さんが困ったように立っていた。


「もう一回叩かれたくなかったら、さっさと掃除掃除」

「へいへい」


 母さんにけしかけられて、店内のほうきがけを再開する。

 夕方近くに先輩の家から帰って、時間はもう夜の8時半。閉店作業も早く済ませないととは思うんだけど、ルティのことを考えて時々立ち止まっていた。


「ほーら、また手が止まってる」

「わかってるよ」

「さては少年、恋わずらいかい?」

「ちげーよ!」

「あら残念」


 からかうような口調に反論してみせても、母さんはテーブルを拭く手を止めてニヤニヤと俺を眺め続けている。

 赤坂先輩はあくまでも尊敬する先輩だし、有楽は背中を任せられる相方。ルティは出会ったばかりなんだし、恋愛の好き嫌いとかそういうのはない。ただ、力になってやりたいってだけだ。


「まあ、別に悩むのはいいけど、ちゃんと集中して掃除しなさい。なにか壊したりしたら、こづかいから天引きだからね」

「はいはい」


 苦笑いで促された俺は、改めてほうきで掃き始めた。

 定休日以外のこの時間帯は、部活や外出で遅くならない限りはこうして母さんの閉店作業を手伝うことが多い。ちゃんと800円の時給で計算してこづかいをくれるし、母さんの手伝いもできるんだからサボるなんて選択肢はなかった。ちゃんと、母さんの手伝いがメインだからな。本当に。


「ただいまー」


 あらかた掃き終わってちりとりの中身を捨てたところで、店のドアが開いて聞き慣れた声が響いた。


「あら、おかえりなさい」

「おかえり、父さん」


 つい数時間前までラジオで実況していた父さんが、くたくたのスーツ姿で店の中へ入ってくる。


「文和さん、ごはんはどうします?」

「もちろん食べるよ。延長戦だったから、さすがに真っ直ぐ帰ってきた」

「お疲れ様。父さん、麦茶いれとくよ」

「ああ、頼む」


 父さんがうなずいたのを見て、俺はカウンター奥にある玄関の下駄箱にちりとりとほうきをしまってから先に2階へ上がった。

 先代のマスターだった母さんの父さん、いわゆるじいちゃんが建てたこの家は1階が店、2階と3階が住まいになっていて、そのうち2階にはリビングとダイニングキッチンに父さんの書斎、3階には俺の部屋と父さんと母さんの部屋、そして物置と化した空き部屋っていう部屋割りになっている。


 リビングとダイニングキッチンの灯りをつけて、食器棚へ。コップを2つ取り出した俺は、麦茶の入ったボトルを冷蔵庫から出すとそれぞれのコップにくんでダイニングへと持っていった。


「おっ、いい匂いがするな」

「今日はキーマカレーだってさ。母さん、朝からはりきって作ってた」

「そいつは楽しみだ」


 上下とも黒のスウェットに着替えた父さんが、期待にあふれた声でダイニングテーブルの向かいにつく。父さんが実況をした日は、夜遅く帰ってくる父さんのために母さんがいつでも食べられるカレー類を用意しているのが定番だ。


「お待たせー。これからチャパティを焼くから、もうちょっと待っててね」

「うん、期待してるよ」


 閉店作業を終えた母さんがリビングに入ってくると、そう言って父さんと笑い合った。今年で結婚22年。留守にすることが多くても、このふたりの笑顔を見ればいつだって安心できた。


「今日の実況、聴いたよ」

「おう、どうだった?」

「久々に泣きの実況だったね。去年の東口さんのノーヒットノーラン以来?」

「あー、やっぱりあれはクるよ。竹井選手が決めたんだもんなぁ……うん、本当に実況できてよかった」


 そう言ってぐいっと麦茶を飲み干した父さんの笑みは、満足そのもの。それだけ、会心の実況だったんだろう。


「友達が言ってた。『竹井さんの生き様をずっと見続けてきたからこその涙の実況だ』って」

「友達と聴いてたのか?」

「赤坂先輩と後輩の有楽と、ほら、この間話したラジオ好きの外国人の」

「ああ、エルティシアさんだっけ」

「俺たちはルティって呼んでるんだけど、そのルティがさ、言ってたんだ」

「そうか……そう伝わってたのなら、アナウンサー冥利に尽きるな」

「ねえ、文和さん」

「なんだい?」

「佐助、その子たちの誰かに恋わずらいみたいよ」

「ぐぇふぇっ!?」

「なに、本当か!?」


 やべっ、気管入った! って、母さんってばなにホラ吹いてるんだよっ!


「げふっ、げほっ……ち、違うって。言いがかりだよ!」

「またまたー」

「本当に違うんだって」

「その割には、今日は朝からぼーっとしてたじゃない」


 チャパティの生地を焼こうと背を向ける母さんは、まだこの話を続けたいらしい。くそっ、続けさせてたまるか。


「友達のことで、ちょっと考え事してただけだよ」

「誰が好きなのかって?」

「ちげー! ぜんぜんちげー!」


 しつこい! こういう時の母さん、ホントにしつこい!


「佐助、智穂さんには言わないから俺にだけ教えないか?」

「教えねーし! いねーし!」

「智穂さん、これは本当にいないみたいだね」

「なーんだ、残念」

「残念がるなよ! 俺まだそんなのいらねーし!」

「だって、ねえ」

「ねー」


 父さんまで母さんのからかいに乗って……もうヤダ、この万年ラブラブ夫婦め。


「はぁ、はぁ……いや、ルティが故郷に帰ったらラジオをやりたいって言うんだよ」

「どうしてまた」

「個人的に、ラジオをやってみたいんだって。政治的とかにはまったく問題はないんだけど、現地にはそういう機材は一切無いし、電力も乏しいんだってさ」


 本当ならレンディアールにはラジオも電力も全然ないんだけど、それを言うと疑われるからほんのちょっとだけウソを混ぜることにしてみた。これくらいなら、バチは当たらないだろう。


「なるほどな。低電力でラジオを発信したいと」

「ああ。でも、どうすればいいかってところからつまずいてる」

「佐助、FMトランスミッターはあたってみたのか?」

「FMトランスミッターって、あれだろ? 父さんがよく使ってる、スマホとかの音楽をカーオーディオのFMで聴くやつ」


 小さい頃、家族で出掛けると父さんはそれでよく俺の好きなテレビアニメの曲をかけてくれたから覚えていた。ついでに、父さんがよくそれにノって歌っていたのもよく覚えてる。


「でも、あれって車専用じゃん。それに、そんなに電波が届きそうもないし」

「ほほう」


 俺の物言いに、父さんがにやりと口の端を上げた。


「ちょっと待ってろ。いいものを持って来てやる」

「お、おう」


 そして、その表情のまま部屋から出て行く。『いいもの』とか言ってたけど、なにか特別なFMトランスミッターでもあるのか?


「そういうことだったら、文和さんに早く聞けばよかったのに」


 と、母さんまで仕方ないって感じで台所から声を掛けてきた。


「どうしてさ」

「文和さん、大学の頃からそういうの好きだったんだから」


 大学の頃……って、アナウンサーを目指してた頃だよな。好きだって言うけど、アナウンス以外の何が好きだっていうんだ?


「これだ、これこれ」


 そう言いながら戻ってきた父さんは、トランプよりひとまわり大きい透明なケースと、ケーブルが後ろのほうから出ている指示棒っぽいものをテーブルに置いて俺のほうへずいっと差し出してきた。


「これ、使ってみろ」

「使ってみろって、いきなり言われても」


 差し出されたケースの中を見てみると、中には丸見えの電子基板やパーツ、外側には2本分の単3電池ケースに昔のゲーム機でよく使われていた赤と白のコネクタと、それとは別の緑のコネクタが。さらに左右の側面には、とても小さいスピーカーのようなものがつけられていた。


「何なのさ、これ」

「これも、FMトランスミッターなんだよ」


 俺が見たのとは全然違う形だけど、これもFMトランスミッターだっていうのか?


「そして――」


 俺の戸惑いを見透かしたかのように、にやりと笑った父さんは、


「別名、ミニFM放送局キットとも言う」


 とてつもなく魅惑的で、とてつもなく信じられない名前を口にした。



今回はほんの少し短めで。

前後編の前編と言ったところですので、次回をお楽しみに。



最後の機械については、また次回。

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