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羊の短編集。

アトリエには墓守がいる。

作者: シュレディンガーの羊


油絵の独特の匂いが充満する部屋はいつもどこか寂しい。

いわゆる、アトリエと呼ばれるここには僕と碧が座っている二脚の椅子しかない。

残る床のスペースには足の踏み場もないほど画材や絵が散乱している。

碧は傍らに置かれた絵をまた一つ手に取って、僕の方に掲げて見せる。


「これは?」

「嫌いじゃない」

「そう。なら、これは?」

「…………」

「だめね。じゃ、次これは?」

「悪くはない」

「じゃあ、だめね」


碧が後ろに放り投げたキャンバスが騒々しい音を立てて、積み重なった山がとうとうバランスを失って床に雪崩れる。色とりどりのキャンバスは投げた時にどこかしら破けるか、壊れるかしていて、もう絵としての価値はないのだろう。僕には絵の世界のことはわからないが、きっとそうだ。


「これで最後の一枚ね。これは?」


碧がこちらに差し出すキャンバスに目を向ける。走らせる視線は一瞬で返す言葉を迷うことはない。


「嫌いじゃない」

「なら、この子は生き残りね」


丁寧にその絵を脇に置いて、碧はんーっと椅子から背を逸らして伸びをする。

インドアのくせにそんな体制でよくひっくり返らないな、とぼんやり見ていれば浮いた椅子の脚が、床に散乱していた画材を踏む。

あっと思った時には椅子は見事にバランスを崩して、椅子ごとひっくり返った碧の頭が床に激突する。


「い……ったぁ……」

「大丈夫? 脳みそ、ちゃんと無事?」

「そこは普通、可愛い碧ちゃん、大丈夫?って聞くところでしょ……」


うぅっと後頭部を押さえて碧は床に転がる。画材やらで汚れている床に転がるなんて不衛生だな、と椅子に座って見ていれば、ふいに碧は意図的にごろごろと転がってさっき丁寧に置いた絵を手に取る。投げられた絵たちと比べて、丁寧に置かれた絵たちは少ない。


「これ、生き残ったの意外だわ。逆にあの薔薇は生き残ると思ったんだけど」


碧は仰向けに寝転がったまま、絵を両手で持ち上げて眺めている。

薔薇の絵なんてあったかな、と記憶を漁るけれど覚えていなくて、誤魔化しもかねて空気喚起の為に窓を開けようと立ち上がる。


「数えてないと思うから言うけどね。今日の絵、全部で50個あったのよ」


絵を抱きしめて仰向けのまま碧が僕の背中にそう声をかける。その声にわずかな意図を感じて、返す言葉を少しだけ探してみる。


「そう。多いね?」

「なんで疑問形なのよ。寝食忘れてこの量よ? 多いって褒めてほしいわ」


背を向けていても拗ねている様が想像できて、どうやら言い方を少し間違えたことを知る。

簡素な錠に手をかけて、窓を開けると新鮮な空気が一気に部屋の空気を動かした。吹き込んだ風に身を震わせて、窓の開き具合を調節する。床に散らかされていた紙が風に飛んでいく。

描いては死んでいった絵たちがこれなら、ここは墓場で碧は墓守になるのだろうか。そんな陳腐な想像は一瞬で枝を広げ、それからすぐに朽ち果てた。


「だけど、量がすべてじゃないこと碧は知ってるよね。それに碧は誰かに褒めてほしくて描いてるの?」


振り返れば、舞い上がる紙の中で碧がひそやかに呼吸をしていた。

乱雑とした床に寝て絵をその胸に抱きしめて、碧は息をつめて天井と舞う紙を見ていた。


「そう、わかってるのよ。量じゃなくて質。でも不安になるから量が欲しくなるの」

「碧は不安、なんだ」

「いつだってそうよ。だって心を削って描いているんだもの。それを認められなかったら、私が否定されているような気持ちになる」

「なら、なんで描くの」


寝転ぶ碧の傍らに立つ。見下ろせば、碧は薄く笑った。潤んだ瞳はそれでも涙を零しはしなかった。


「誰かに褒められたくて描いてるかって、さっき言ったわね?」

「そう、言ったね」

「褒められたい、とは違うの」


違うのよ、碧は吐息を零して瞼を閉じた。

部屋に舞い込む風はなくなって、紙は再び床に沈む。

入れ替えたはずの空気がまた絵の具の匂いを帯びて重くなる。

絵を抱きしめる腕も、晒された首も、酷く白くて、閉ざされている瞳に死んでるみたいだ、なんて言葉を飲み込む。


「わたしは、きっと君の、沙樹のだけのために絵を描きたいのよ」


死んだような唇から柔らかに紡がれたそれに、緩慢に目を瞬く。


「沙樹が認めてくれたところだけもっていられたらって、そう思うの」

「僕が認めたところ、」

「そうよ。わたしにはこんなにたくさん色々いらないもの。もっと身軽に生きていきたい。でも、今のままじゃ重たくって生きていけない。溺れそう。だから、削るの。だからきっと厳密には決して沙樹のためじゃないんだわ」


碧の呼吸に合わせて穏やかに胸の上で上下する絵を見つめる。

それは、真っ赤な血のような絵。

真っ白で、乱雑で、生に執着しない風な彼女とは似つかない色彩。

見ろと訴えかけるような激しい何か。

僕はいつも、そんな激情を垣間見るたびに、彼女の陶器のような肌の下にはどんな色彩が隠されているのかと夢想する。それは、赤なんてありふれたものではなく、もっと、鮮やかな何かだと。


「なら、碧は絵を描くたびになくすの?」


問いは無意識に零れ落ちて、それに呼応したように彼女がそっと目を開く。

飴玉のような瞳が僕に焦点を合わせる。

息を吹き返したはずの墓場の主は、それでも、一層、死に近い生き物に見えた。


「えぇ、そうよ」


薄いガラスを弾いたような声が答える。


「それなら、碧はいつか何もかも、なくすじゃないか」


僕が認めたところだけを持っていたいと彼女は言った。

けれど、描くたびに自分から切り離し、削り取るというのなら、彼女はいつか何もかもを削り取ってしまうのではないか。

そんな僕の思考を読んだかのように、ふっと彼女は口元を歪める。


「だって、そうしたらずっと愛してくれるでしょう?」


絵になった私を――――絵の具の匂いが深く重くなった気がした。

このアトリエは、本当に墓場なのかもしれないと、僕はまた思う。

けれど、この墓場はきっと、他でもない彼女のものだ。


「……嫌いなんだね」

「あら、知らなかった?」


何が、とも、誰が、とも僕は言わなかった。

けれど、彼女にはしっかりと伝わったのだろう。


「でなければ、あんなことしないわ」


逸れた瞳が示すのは、崩れ去った絵の山。

彼女が切り離し、僕が否定した彼女自身。

絵を抱きしめたまま、彼女が起き上がる。


「だから、忘れないでね」

「…………」

「わたしのこと、ほんのひとかけらでもいいから」


背を向けた彼女が絵を強く抱きしめたのがわかった。

窓から風が舞い込む。けれど、床に散らばった絵は微かに動くだけで、もう舞い上がることはない。

死んだように、彼女の足元に横たわるだけだ。



アトリエには墓守がいる。

いつか、自分自身を弔うための場所を守るために。











この作品ファイルの一行目に「胸きゅん」と書いてあったのですが、この話のどこに胸きゅん要素が含まれていたのか謎すぎます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 雰囲気がすごくいいと思いました。
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