八
「天水に聞いたの?」
暗くなって、猫を探すのをやめた古泉が言った。彼女のカメラは頭上の桜に向けられていて、三脚ごと動かして構図を変えながら撮っている。
「そうだよ。さっきメールが来た」
古泉は口数が少ないというよりも、言葉を省くことが多い。そのため、会話がすれ違うこともあったが、今ではそれも少なくなった。
「どうして?」
「夜に一人で外にいることになるから、心配したんだろ」
「……水上は、どうして来たの?」
古泉は手を止めて、水上を見て言った。
水上はすぐにこたえることができなかった。
「少し考えさせてくれ」
「どうぞ、ごゆっくり」
古泉は三脚を桜から遠ざけて、僅かずつ動かして構図の微調整をした。ISO感度やF値、レリーズを押す時間の組み合わせをいろいろ試し、何枚か写真を撮った。
ここに来たのはなぜだろう。
問われて、水上は考えた。天水からのメールを見て、理由なんて考えずにここに来た。
心配だったというのは確かだが、それだけではない気がする。
「来たかったから、来たんだ。邪魔なら帰るけど」
彼女の横顔に向けて言った。
恥ずかしさをごまかすために余計な一言を付け加えてしまった。今の言い方はズルい。そう言われたら、たとえ迷惑に思っていても言いづらくなるに決まっている。
しかし、もう言ってしまった後だ。
「いや、来てくれて、ありがとう」
古泉は水上に顔を向けて、少し笑って言った。恥ずかしがっている水上に対して、「しょうがないなあ」と苦笑しているように見えた。
普段から言葉には気をつけているが、その場のはずみで余計なことを言ってしまうこともある。しかし、こうして同じ場所にいて言葉を交わすときに、伝わるのは言葉の意味だけではない。
言い方や仕草で、言葉以上のことが伝わる。彼女が笑ったのを見て、そう思えた。
「どういたしまして」
今度は、はっきりと言うことができた。
古泉はカメラに向き直って、
「光がうまく当たらない」
「暗いのか?」
「明るさが、何と言うか、むらができる」
すぐ近くに交通量の多い道があり、街灯や車のライトの光が桜に当たり、明るいところと暗いところが不自然に写ってしまう。
「車とかの光が当たらないほうがいいのか?」
「うん」
「それなら、向こうに行ってみるか」
水上は県道の方を指さした。県道を挟んだ先にも桜並木は続いている。むしろ、向こうのほうが桜は多い。
「うん。行く」
古泉は三脚の脚を閉じて持ち上げた。
「それ、持つよ」
水上はカメラを取り付けた三脚を受け取った。
「……ありがとう」
「うん」
二人は自転車を押して、夜の桜並木の道を歩いた。
県道を横断して、川の下流に向かって歩いた。しばらくは道の両側に桜があったが、やがて桜並木は川のほうだけになった。この道は狭く、車はめったに通らない。堤の道の先は小さな道路とつながっているが、小さい割に車通りが多いので、そこまでいくと車の光が写真に入ってしまうだろう。
古泉が前を歩き、水上がついていった。街灯はなく、二人の自転車のライトが暗い道を頼りなく照らしていた。自転車を押す速さを緩めると消えてしまう不安定な光だった。
県道を走る車の音が聞こえなくなったあたりで、古泉は歩みを止めた。桜並木に目を向けて、
「ここにする」
と言った。水上は三脚を渡してから周囲を眺めた。古泉が止まったところは桜並木から少し距離のある場所だった。二人が歩いてきた道が川から離れる方向に曲がり、桜並木と遠ざかりはじめた場所だ。
古泉は道から外れたところに三脚を立てた。
「車が来たら教えて」
「わかった」
彼女は三脚のネジを回して、カメラを縦向きに固定した。
それを水上は不思議に思った。桜並木を撮るなら、多くの木が画面内に入るように横向きで撮ったほうがいい。古泉にはなにか考えがあるのだろうか。
水上が訝しんでいることを察したのか、古泉は桜に目を向けている水上の肩をちょんちょんと指でつついた。
見ると、古泉は上を指さしていた。見上げた先には月があった。
満月から四五日経ったような月だが、周囲に光がないせいかとても明るく感じた。
「月が」
と、古泉は月に向けていた指を、弧を描くような動作で桜の上に向けた。
「あのへんまで来るのを待つ」
「ちゃんと行くのか?」
「たぶん」
古泉は自信なさげに言った。
月が桜の上に来るまでどのくらいかかるのだろう、と水上は思ったが、考えたところでわからない。
「こうやって、写真を撮るために長時間待ってることも多いのか?」
「多いわけじゃない。たまに」
一人で、景色を見ながらじっと待っている古泉の姿を思い浮かべた。
「すごいな」
「何が?」
彼女にとって、それは苦ではないのだろうか。
「ごめんね、待たせて」
何か勘違いしたのか、古泉はそう付け加えた。
「いや、いいよ。言ったろ、来たかったから来たって」
それは水上の本心だった。
一週間前の旅行で、水上は町を歩き回って景色を探した。景色を見て、すぐ判断をして、写真を撮ったり撮らずに移動したりした。こうやって、一つの場所で待つことをわすれていた。
同じ場所でも時間によって表情を変えることをわすれていた。それを、古泉が思い出させてくれた。
待っている間に今年度から始まるゼミの話をしたり、最近撮った写真を見せ合ったりした。
「色がいい。空と桜の色が」
夕日を受けた桜の写真を見て古泉が言った。背景の空もほんのりと赤みを帯びている。
「俺もこの色は好きだな」
水上の言葉を聞いて、古泉は少し考えるようにしてから、
「この色が見られるのは、夕方だけじゃないよ」
「朝か」
「うん。夜明け前、おすすめ」
「起きられるかどうかだな」
「起きられたら外に出てみて。普段と違う町が見られるから」
「わかった。ありがとうな、教えてくれて」
「どういたしまして」
古泉の撮った桜は、月の光を受けて銀色に光っているようだった。