七
履修登録の日、立原に昼食に誘われ、メールにあった待ち合わせ場所に向かった。約束の時間には余裕があったので、遠回りして春の町を眺めながらゆっくりと自転車を走らせた。並木道は通らなかったが、町中の桜の多くが八分咲ほどだった。
水上は部活のない日にはデジタルカメラを鞄に忍ばせているが、なぜか桜を撮る気にはならなかった。
何度か行ったことのある駅前の定食屋で昼食をすませて、大学に向かった。大学の前の坂、道の反対側に桜が咲いていた。立ち止まらなかったので、横目でちらっと見ただけだった。
すでに決めておいた講義の登録を済ませ、他に用もないので帰ることにした。構内にも桜の木が点在していて、スマートホンで写真を撮っている人もいた。
駅の近くで電車通学の立原と別れて、来た時とは違う道を通って自宅に向かった。すると、通学路から一つ外れた道の横に小さな公園を見つけた。公園といっても道に挟まれた空間に低い垣で画されていて、中心にベンチと桜の木があるだけだった。
自転車を降りて、ベンチの横に立って桜を見上げた。離れて見ていた時には開いた花ばかりに目が行っていたが、蕾も多くある。一つの枝から何本もの細い茎のようなものが伸びていて、そこに花や蕾が四つ五つほど付いている。
そうやって桜を見ていると、古泉が植物を観察している姿を思い浮かべ、触発されたかな、と思った。しかし、小さなことでも発見があると面白い。彼女がマクロレンズを使って写真を撮る理由が少しだけわかった気がした。
そこからは自転車を押して歩いた。自宅の前まで来たが、通りすぎて市立図書館の方に進んだ。まだ歩いていたかった。
図書館の駐輪場に自転車をとめた。携帯電話を取り出して見ると、天水からメールが来ていた。
『今日、古泉が夜桜を撮りにいく、って言ってたよ』
という内容だった。
『どこに?』
と、返信すると、町の西側を流れる川沿いの、桜並木がある場所だと教えてくれた。そのメールに、
『一人で行くのか?』
と、返信した。天水からの返答はすぐに来た。
『うん。私はバイトで行けないし。一人だと思う』
『わかった。様子を見に行く。』
余計なお世話かもしれない。そう思ったが、ひとまず気にしないことにした。メールをしてきたということは、天水も心配しているのだろう。
『夜間警護、頑張って』
『残業代は出んの?』
『頼りないなあ。けど、後は任せた』
任されてしまった。天水とのメールのやり取りはそれで終わった。図書館に入るのはやめた。
水上は自転車に乗って、自宅とは反対の道に進んだ。向かう先の空では、日が傾きはじめていた。
川の東岸には一キロメートルほどの桜の並木道がある。
昼間は桜を見に来る人もいたのだろうが、夕方には犬を連れた人がたまに通るくらいだ。
明後日から十日間、春祭りというイベントで夜の間桜がライトアップされる。水上は来たことがないが、この道に出店が並ぶらしい。その期間は人が多くなるだろうから、写真を撮るのは別の日がいい。古泉もそう思って今日夜桜を撮ることにしたのかもしれない。
少し高くなっている桜並木に挟まれた堤の道を、自転車から降りて歩いた。川のほうを見ると、堤と川の間の広場のようになっているところに古泉がいた。三脚に設置したカメラを堤の斜面に向け、レリーズを手にしている。その先には桜の木があるが、カメラは根本に向いている。
猫でもいるのだろうか、と思い目を凝らすと、本当に桜の根元に猫がいた。
猫が逃げてしまうといけないので、古泉に声をかけずに、少し先の坂道から川の横の広場におりた。
斜面の近くに自転車がとめられていたので、その隣に自転車をとめ、川のほうに目を向けた。
川の反対側には平野が広がっていて、遠くに山脈がそびえている。稜線に夕日が重なろうとしているところだった。
近づいてゆくと、古泉が気づいて顔を向けた。
「こんにちは。ん? こんばんは、か?」
と、水上が声をかけた。
「水上、こんばんは」
古泉はそれだけを言って、カメラに向き直った。堤の上から見えた猫はいなくなっていた。
「あれ?」
と古泉が言い、草に覆われた斜面を見回した。
「何を撮りに来たんだ?」
「夜桜」
言っていることと探しているものが違うようだ。古泉のことはおいといて、水上は堤の斜面に生えている桜を見上げた。どれも、満開の一歩手前といったところだ。花は夕日を受けて色が濃くなったように見えた。
カメラを向けたが、昼間と比べて暗いためうまく写らない。ISO感度を上げれば明るく写るが、数年前のコンパクトデジタルカメラなので、ノイズがたくさん入ってしまう。だからといって、シャッタースピードを遅くしたらブレてしまう。
「三脚、使う?」
どうにかして撮ろうとしていると、いつの間にか後ろにいた古泉が三脚を差し出してきた。受け取って、カメラを取り付けた。
「付けたのはいいけど、レリーズがないな」
メーカーが違うので、古泉のレリーズは使えない。三脚に固定してもシャッターボタンを押すときにわずかにカメラが揺れる。それがブレとして写ってしまう。
「セルフタイマーを使うといい。二秒のやつ」
そう古泉に言われた。セルフタイマーのボタンを押すと、十秒のと二秒のが選択できた。水上は二秒のほうに設定した。これで、シャッターボタンを押してから二秒後にシャッターが切れるので、ボタンを押す時の揺れは生じない。
「この機能、何に使うのかわからなかったけど、こう使うんだな」
「うん。ただ、バルブ撮影には使えない」
昼間とは趣の違った桜の写真が撮れた。
夕日が山脈の向こうに沈んだ。
レリーズ:カメラに取りつけて、離れた位置からシャッターを切るための装置。フィルムカメラのシャッターボタンにはねじ穴が開いており、そこに取りつける。
ISO感度:国際標準化機構で定められた写真フィルムの規格。数値が大きくなるほど、より弱い光でも写せるようになるが画質は落ちる。水上の一眼レフは「ASA」(アメリカ標準規格)表記。ある程度古いカメラは「ASA]のようです。
どうでもいいことですが、私は「イソかんど」と読んでいます。