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海と前髪

作者: 眠る
掲載日:2014/11/21

やっぱり、辞めておけばよかったな


電車に揺られながら、隣に座る伊藤くんを盗み見る。腕を組んで軽く俯き、口は静かに閉じている。まっすぐに切り揃えられた前髪の隙間から長い睫毛が覗き、まばたきの度に前髪が微かに揺れる。


わたしは伊藤くんの前髪を眺めているのが好きだった。教室でも、その黒くてまっすぐな前髪をこっそり見つけて、遠くから眺めていた。外を見る振りをして、窓際の席に座る伊藤くんを視界に入れる。大抵軽く俯いて、たまにふと顔をあげる。また俯く。前髪が、揺れる。


どうしたらあんなにまっすぐ…


わたしは自分のぐねぐねした前髪を手で引っ張りながら思う。


そうしていたら、わかったのだ。わたしは伊藤くんの前髪のどんな動きも見逃すまいと息を潜めて見ていた。何の音もしなかった。女の子達が悲鳴に近い歓声をあげるのも、男の子達の低くてどきっとする笑い声も、椅子を引く音も、先生がドアを開ける音も。


何も聴こえなかったのに、伊藤くんが顔を上げた時だけ周りの音が聞こえた。喋り声や笑い声。教室の真ん中で、谷田くんが、何か喋っている。笑っている。谷田くんはまだ寝ていたい朝の太陽みたいに煩わしいほど明るくて、声の大きな男の子だ。


伊藤くんがまた俯く。谷田くんが喋る。伊藤くんは顔を上げてまた戻す。


いつも自分以外にひとがいないみたいに窓のほうばかり見て教室のこっち側には目をやらない伊藤くんが、ちらりとこちらを見る。わたしの斜め後ろで机の上に腰掛けて、喋ったり、笑ったり、友達の肩を叩いたりしている谷田くんを見る。


あの時、目が合ったと勘違いして嬉しくなってしまった自分のことを思い出して顔が熱くなる。片手で前髪を引っ張っる。教室ではあんなに遠くにいるのに、今、触れるか触れないかの距離に伊藤くんが座っている。緊張して、何度も何度も前髪を引っ張った。


伊藤くんに聞きたいことはたくさんあったけれど、口を開くのは躊躇われた。わたしが何を聞こうと伊藤くんはわたしの為に口を開いたり、頭を動かしたりしてくれないような気がした。話しかけてもこっちを見てすらくれないかもしれない。さっき呼び止められたのはきっと奇跡なんだ、そう思った。


さっき、駅で伊藤くんを見つけた。すぐにわかった。前髪と、細い脚。わたしの前を通り過ぎようとするのを、思わず呼び止めてしまった。怪訝そうな顔で振り返ってわたしの顔を見て更に怪訝そうな顔をする伊藤くんに怯えながら、声をかける。


「あっ、あの…わたし!同じクラスの!えっと、あ、わかる…?」


前髪を揺らして、伊藤くんが頷く。


「あ…ど、どこに行くの?」


伊藤くんはますます怪訝そうな顔になる。当然だ。急に呼び止めて、こんなことを聞くなんて。だけどこんなところで、伊藤くんを見つけて、いてもたってもいられなくなってしまったのだ。わたしはひとりで海を観に来ていた。そこはその海の最寄り駅だった。季節外れの海の駅にはほとんど人がいなくて、伊藤くんもひとりだった。そうして、帰るのとは逆の電車に乗る伊藤くんに着いて来てしまった。


何をしていたのか、これからどこに行くのか、そこへは何をしに行くのか、勝手に着いて来たわたしのことをどう思っているのか。

なんにも聞けないやと途方に暮れて、窓の外を見る。見慣れないけれどありふれているような風景が流れて行く。そろそろ口を開かなければという思いに駆られて、出かかった言葉を何度も飲み込む。


すると、ふいに伊藤くんがこちらを見た。少し居心地の悪そうな顔でじっと見ている。なんだか目を逸らせなくなってしまう。耐え切れず、


「海を、う…み、観に来てたの?」


口から出た質問に唐突過ぎるなと顔が熱くなる。そっと目を逸らす。伊藤くんがこちらを見たまま微かに頷くのがわかった。


「あ、海、海好きなの?」


今度は首を振る。


それからわたしは一生懸命、伊藤くんを質問攻めにした。電車は好き?今日は寒いと思う?晴れの日は好き?プールは好き?夏が好き?じゃあ冬が好き?


伊藤くんはわたしの質問に頷いたり、首を振ったりして、その度に前髪が揺れた。堪らない、と思った。


いま、ここで、どこへ行くかわからない電車の中で、お互いを知っているのはふたりだけで、伊藤くんがわたしの言葉に前髪を揺らして頷いたり首を振ったりしていることが、堪らないと思った。欲しくて欲しくてたまらないお人形の片足だけを手に入れて、それでずっと遊んでいるような気分だった。何か悪いことをしているようで落ち着かなかった。


伊藤くんがお人形の片足のように決して口を開かないような気がして、どうして海にひとりで居たのかとか、これからどこに行くのかとか、本当に聞きたいことは聞けなかった。


ふいに質問が尽きてしまい再び沈黙が流れる。わたしは前髪を引っ張る。引っ張っては離し、引っ張っては離し、引っ張っては離し。


「谷田くんのこと好きなの?」


と聞いてしまった。伊藤くんは腕を組んで前を見たまま頷きも、首を振りもしなかった。しばらく沈黙が流れた。耐え難い沈黙だった。わたしは何度も何度も前髪を引っ張る。


隣に座る伊藤くんからは何の気配もしない。顔を見る勇気はなかった。

窓の外にはまだ見慣れないありふれた風景が流れていて、電車は永遠に止まらないような気がした。

即興小説にて匿名で投稿した内容を加筆・修正しました。

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