表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

改札の向こうに待つ者・・・

作者: 草苅徹

序章 修行


 「はい、い〜ち、に〜、さ〜ん、し〜、」

 今日も、師匠の号令で修行が始まる。朝は主に筋トレからスタートだ。私の他にも数人の弟子がいる。いずれも、同門でありながら、ライバルでもある。ここにいる同門の志士たちが、近い将来最も手強い存在になるだろう。私は、気を引き締めて修行に臨む。


 両手に酒杯を持つ。足だけで鉄棒に逆さまにぶら下がる。頭の辺りに見える水瓶から酒杯に水を汲み、足元の水桶まで、腹筋を使って上体を起こし、水を入れる。これを水瓶の水が無くなるまで繰り返す。


 師匠がその昔に何かの映画で見た修行法なのだそうだ。これは確かにきつい。腹筋を鍛えているように見えるが、使っている筋肉は腹筋だけではない。身体全体を使っている。酒杯の水をこぼさないように起き上がるという動作のために、無意識に身体全体を使っているのだ。さらに、相当に神経を使うし、神経を使うからこそ、身体中の筋肉がセンシティブに使われる。適度な緊張のもとでは、あらゆる筋肉に負荷がかかる。これがこの修行の狙いだ。


 師匠の発破がかかる。

 「ほら! まだまだ! 124、125、126、……」

 カウントする間隔も、段々と早くなっていく。だが、思ったより水瓶の水は減っていない。こんな小さな杯では、回数を重ねてもすくえる量はたかがしれている。


 腹筋が、さすがに限界に近くなってきた。あと数回できるかどうか。


 突然、師匠がカウントをやめた。

 「ようし、いったん休憩だ。」

 助かった。

 それにしても、こんな基礎練習ばかりの日々が続いている。ろくに鋏も持たせてもらえていない。

 こんなことで、一人前の改札拳士になれるのだろうか。


 「次は腕立てだ! 気合い入れて行くぞ!」

 短い休憩が終わった。私はただひたすらにこの特訓についていく。いずれ、最強の拳士になれると信じて。


往路前夜:種田キヨ子の場合


 心地良い揺れが、定期的な振動として身体に伝わってくる。車窓からは、気持ちの良い日差しが降り注ぎ、この季節にしては心持ち暑い。

 ちょうど列車は荒川を渡るところに差し掛かっていた。川の向こうに、それは今や巨大なランドマークとして君臨するスカイツリーの勇姿が、日差しを浴びて構えている。スカイツリーの周囲にもだいぶ高層建築物が増えた。東京都は、この周辺一体を再開発し、超高層居住空間を作る構想を打ち出した。今後十年を見越し、人は高層階へ、地面そのものは、自然あふれる空間へと変化させていく。人と自然との新たな共生の仕方を模索した結果の、一つの解決方法だ。こうした、人と自然に優しい取り組みが、十年後、三十年後、五十年後の未来には有意義なものとなっていてほしい。私はそんな感慨に耽っていた。

 私は、スマートフォンを取り出して、今、まさにこの景色を見て感じたそのままを、文字にしたためようと思った。スマートフォンでエバーノートを起動する。心に感じたままを打ち込んでいく。


 突然、列車は急停車をした。

 ドアの傍に寄りかかるようにして立っていた私は、何の準備も予測もしていない無防備な体制のまま、列車の急停車に抗うこともできず、そのまま前方に身体を投げ出され、転がった。袖の手すりにしこたま頭を打ち付けた。打った瞬間は火花が出たような衝撃。しかし、その後痛みらしい痛みを感じない。大丈夫だ、と思って立ち上がろうとして、うまく立ち上がれない自分に気づいた。

 「あんた、大丈夫かい?」

 すぐ傍の座席に座っていたおばあさんに声をかけられ、私は右手を振って大丈夫だと合図した。

 「あんた、頭を切ったね。血が出ているよ。ほんとに大丈夫かい?」

  言われて、頭の右側、目のちょっと上あたりが、熱くなっているのを感じた。手で拭う。べっとりと赤い血が流れていた。床には、私のスマートフォン。かわいそうにこちらも画面が粉砕されている。

 「災難だったねぇ、次の駅で降りなさい。手当てをしてあげるから。」

 まるで、ドラマのようなストーリーの始まりだが、これが、私と種田さんとの出会いだった。


 種田キヨ子さん、七十歳。この仕事についてから、かれこれ二十年近くになる。大の男でさえもが泣き言を言うこの仕事を、彼女は文句一つ言わずに続けてきた。

 「みんなはねぇ、疲れる疲れるって言って毛嫌いするけど、あたしはそんなに嫌いじゃないのよ、この仕事。腰には負担がかかるから、かなりしんどい時もあるけど、無理せず、あせらず、急がずやってれば、長続きするもんなのよね。」

 そういう彼女の両手は長年の仕事の疲労のせいか、しわしわで切り傷だらけだ。

 そんな私の視線に気づいたのか、彼女は自分の手を見ながら言った。

 「ひどい手でしょう。どうも、余計なことまでやりだしちゃうから、その分余計な怪我をしちゃうのよ。」

 彼女くらいのエキスパートになると、いろいろなところまで目が届く。職員の足元のゴミ、時には針やら画鋲やらボタンやら、あるいは、ライター、携帯用灰皿など、小物の類いが幾つも目につくのだそうで、彼女はそれらを丹念に拾う。

 「こういうのはね、気づいたその時に拾わないとだめ。忘れちゃうから。」

 彼女の両手の切り傷は、そんな余計な仕事の時ほどついてしまう。先日は、カミソリ刃が落ちていたそうで、それを拾おうとして傷を負った。 右手の人差し指には、絆創膏が巻かれている。

 「こういうのも、戦士の勲章って言うのかしら。」

 言いながら、その表現がやはりマッチしていないことに気づいたのか、言いながら笑っている。


 「あの、チャンチャンチャチャン、チャンチャンチャチャンっていう、あれ。あの音が嫌いだって人がいるらしいけど、私は結構昔から気に入っていて、ようく聞くとなんだか合奏を聞いてるようでねぇ。なんだか楽しくて、それで、この仕事も辛くないのかもしれないねぇ。まあ、他に何が楽しいという事もない仕事だから、こんな楽しみの一つくらい見つけたほうがいいってもんだよね。」

 そう言いながら、ふと気づいたように立ち上がる。そろそろいつもの時間なのだろう。使い慣れたほうきとちりとりを持って、昔懐かしくもほっかむりをしながら、キヨ子さんは、颯爽と仕事場に向かう。


 十五分もしないうちに、キヨ子さんは戻ってきた。

「ずいぶん、早かったですね。」

 私は少し驚いたように言う。今思うに、私は彼女の仕事ぶりの本当のところを、まったく理解していなかったようだ。彼女の持っているほうきとちりとりだけで、こんなにも早く終えられるのは、実は難しいことなのだ。だが、この時の私は、気軽にもそんなふうに声をかけてしまった。

「なあに、最近は、徐々に乗降客は少なくなっていくみたいでね。なんでかねぇ。少子化のあおりかねぇ。」

 彼女は、他の同僚のように電気掃除機を使わない。コードのある掃除機は取り回しが面倒だし、コードレスだと充電のタイミングが合わなかったり、パワーがいくぶん足りなかったりと、どうも自分の使い勝手に合わなかったようで、それで結局、今のほうきとちりとりに落ち着いたそうだ。

 「どうも、ああいう機械は、最後の最後のところで、なかなか小さいのが拾えなかったりするからね。これなら、一発で仕留められるのよ。」

 そう言って、彼女は使い慣れたほうきを誇らしげに私に見せてくれた。別の手には大きめのゴミ袋が一つ。ピークの時間には、このゴミ袋が四つも五つも必要になるらしい。ターミナル駅であれば、その量たるや半端ではない。こうしたものを処理するだけでも、新たな雇用が発生している。今の世の中、失業者を出さない策としては、まんざら悪くはない。特に高齢者に働く生きがいを与えられたことは、すごく意義のあることなのだ。


 ほうきの先はずいぶんすり減っている。と言うよりも、角のゴミを上手く払いだせるように、鋭角にすり減っているのは、彼女が上手な使い方をしている証拠だ。結局、アナログの道具を、人の熟練した技術で使いこなしている。本来日本人はこういう職人技が得意な民族なのだ。それをこの三十年間、機械に頼る社会に変えようと悪戦苦闘してきたが、結局は人だということに気付いたのが今だ。

 私が、この仕事に入ってから、かれこれ十年。時代は逆行しているかに見えたが、しかし、人々は却って活き活きと生活している。機械は、テクノロジーは、ITは、いったい何を残してきたのだろうか。種田キヨ子さんのような人と出会うたびに、私はいつも疑問に思ってしまう。テクノロジーは人を幸せにしなかったのではないかと……


 「なんでも、最近じゃ、相当すごい掃除機があるらしいんだけど、やっぱりなかなか新しいものには手が出なくてねぇ。相変わらず、こんなボロッちい道具を使ってるんだけど、どうも変える気にはならないし。これで仕事もできているしねぇ。だから、このほうきと私と、どっちかが働けなくなるまでは、がんばろうと思っているのよ。」


 そう言って、ほうきを右手で高く掲げ、ニッと笑ってみせた。キヨ子さんのその笑顔が、私には、これからの日本の未来、世界の未来は明るいものなんだと感じさせてくれた。私たちの生活は、こうした背伸びしない普通の人たちの生き様が絡み合った世界にある。人と人とが笑顔を向け合えば、それだけで、生きていく自信と価値を感じ合うことができる。


 キヨ子さんの掲げたほうきが、いつまでも私の目に焼きつき離れなかった。


往路第一区:菊池源次郎の場合


 二〇一五年、日本。この年、日本は未だ経験したことのない、未曾有の大不況の最中にあった。人々の生活水準は大きく落ち込み、国の大動脈とも言える物流は、全くと言っていいほど閑散とした、せせらぎのような流れにまで落ち込んだ。かつては、大量の荷物を国の隅々まで行き渡らせたトラック網は、もはやその台数を維持できなくなっていた。積載量を落とし、燃費のよい小型車輌に変えたところで、その効果は出るか出ないか。そして結局は、ドライバーもろとも解雇せざるをえない物流業者が続出することとなった。


 そんな中、辛うじてドライバーを続けてきた、菊池源次郎(五十三歳)は、そのたるんだ下腹を何度も持ち上げては、ばりばりとかきむしりながら、私のインタビューに答えてくれた。


 「そりゃあ、昔みたいに運ぶ物があればな、俺なんかは、日本国中どこへだって運ぶさ。あぁ、今だってそのくらいの気合いも体力もある。だがな、いかんせん、物がない。小口をやってもいいが、あれは全然儲からない。それにもう、やれお歳暮だ、お中元だなんて言って、他人に贈り物する奇特な奴が、今のこの世にどれだけいるというんだ。そんな、裕福な奴は、ずいぶん見かけなくなったぞ! だから、この商売もそろそろ年貢の納め時だと思ってるんだ。」

 ところどころ、もう使われなくなった言い回しを挟みながら、源次郎はさらに語り続けた。


 「こう見えても、俺はその昔はIT技術者だったんだ。そうは見えないだろう。いや、見えないはずだ。正直に言ってくれ。そうだろう、こんななりとルックスで、IT用語を使いこなすなんて、想像できないだろう? だが、そんな時代もあったんだよなぁ。」


 一呼吸おいて、少しこちらの反応を楽しんでいるようだ。仕方ない、少しは喜ばせてもっと語ってもらうか。ちょっと大袈裟なくらいに驚きのリアクションをすると、源次郎はこれもまた、非常に満足した表情になり、顔をほころばせた。煙草を一本くれと指で示し、箱ごとライターと一緒にダッシュボードの上に置く。すまんな、と拝むようにしながらも、すばやく煙草を手に取り、一本どころか、両方の耳に一本ずつ煙草を挟むと、三本目に火をつけた。深く吸い込み、ぷはぁ〜と吐き出す。狭い運転席は、すぐに煙で充満していく。


 「あんちゃん、いい煙草吸ってるな。LARKじゃねえか。それも赤。最近じゃちょっとお目にかかれない。こいつを吸ってるんだから、若いのに凄いもんだ。ライターも百円ショップの安物じゃないし。あれか? あんちゃん、お歳暮をまだきっちり贈っている口か?」


 少し、いびつな笑い方をして、また煙草をふかす。この時代にまだいい思いをしている奴がいるのか、と、妬みの心情が痛いまでに伝わってくる。


 「ほんとに若いのに大したもんだなあ。なんだ、その、エッセイストとかいうのは、そんなに、儲かるものなのか?」


 そんなことはない、その煙草もたまたま編集者にもらっただけだ、と説明したが、妬みの気持ちは払拭されなかったらしい。嫌みとも蔑みとも思える口調で、源次郎は続けた。


 「まあ、そのIT企業ではな、俺はいっぱしのデータベース設計者だったんだ。だが、四十を過ぎた頃に、早期退職勧告を受けてな。まとまった退職金をもらって、その会社を辞めてやったんだ。その会社にも感謝してもらいたいもんだよな。あいつらが生き残るために、俺が身を引いてやったんだからな。で、その退職金で、こいつを買ったわけだ。ITを続けるつもりはなかったね。あれは、きついし、人間関係も最悪だからな。だから、気ままに一人でもできる、ドライバーになったんだよ。積載量こそ少ないが、一人で生きる分くらいは稼げたんだよ、こいつでもな。」


 愛おしげにハンドルをさする。我が子を見るような源次郎の視線の先に、フロントガラスに貼られた一枚の紙。「廃車」と書かれたその紙は、海風にあおられ、パタパタとフロントガラスを叩いている。


「もう十年経っちまった。十年こいつに乗って荷物を運び続けた。始めた頃は、すぐにトラック一台分くらいは稼いで、もっとでかいのを買う気満々だったんだ。だが、結局は、十年間こいつで仕事した。相棒だよ。こいつは。でもな。運ぶものがなくなっちまったら……こいつは廃車、俺は廃業。笑えるだろ。」


 またもや、いびつな笑いを見せた源次郎だが、先ほどとは違い、今度は妬みも蔑みもない。今は、切なさと、悲しさが入り混じった、重い笑みを口元にのぞかせただけだった。


 「まあ、こうなった以上は、別のやり方で生きていくしかないな。こいつも、もうちょっと走りたかっただろうが、十年働き続けたこいつは、ビタ一文にもならなかった。持っているだけで維持費はかかるからな。いい相棒だったが、こうして潰すことにしたんだよ。」


 そう言うと、源次郎は、右耳に挟んでいた一本を取り、火をつけた。その火をつけたライターを何の気なしにポケットにしまってしまったが、私は敢えてそれを指摘しなかった。どうせライターも編集者からもらったものだ。


 「あんちゃんは、こんな話を聞いて、何か、これは本か何かになるのか。」

 一服一服を味わいながら、源次郎は聞いてきた。


 「まだわかりません。本になるかもしれないし、ならないかもしれません。でも、何か形にはするつもりです。」


 ふぅーっと吐きだした煙が、私に向けられる。目に染みる。どうやらこの解答は源次郎のお気に召さなかったらしい。とは言え、今のところそれが真実だ。他に何と答えればいいのだろうか。


 「お気楽なもんだな。俺が暑い日も寒い日も、こいつでわずかな稼ぎで暮らしてきたってのに、同じ時代に生きてて、文学だか小説だかエッセイだか知らないが、ただ何か文字を書いてりゃ十分に生きていける奴もいる。あまりに不公平ってもんじゃないか。」


 三度ふぅーっと吐き出した煙を、今度は、きっちり避けさせてもらう。

 ふと見ると、目の前のグローブボックスから、何かはみ出している。取ろうとすると、すかさず源次郎が手を伸ばしてそれを抜き取った。それは、一枚の写真だった。


 「俺にも、家族がいてな。前の仕事をやってたときな。あの頃はバブルの頃からの名残もあって、結構な年収をもらってたんだ。その時の、絶頂期の俺と家族。幸せそうだろ。こんなに笑っててよ。」


 写真には、幸せそうに笑う若かりし頃の源次郎と、奥さん、娘。皆、カメラに向かってピースをしながら笑っている。三人の後ろには、ピカピカの、このトラック。恐らく車を買ったばかり、個人事業主として新たな人生の門出を祝した一枚だったのだろう。幸せを目一杯感じながら、三人の瞳がきらきらと輝いている。笑みがこぼれている。


 「結局、苦労をかけ過ぎたせいか、女房は若くして死んだ。心筋梗塞だよ。休みの日も一生懸命働きやがってな。俺があんまり稼がないもんだから。」


 そう言うと、源次郎は向こう側の窓に身体を向けた。泣いているのだろう。幸せ一杯だった、家族と共に過ごした時期を思い出したのだ。少し背中が震えている。


「娘さんは……」


 沈黙に耐えきれなくなり、思わず聞いた。源次郎は、しばらくそれに答えないでいたが、やがて意を決したようにこちらに振り返り言った。


「女房が死んでからしばらくして出てったよ。まあ、もう一人で生きられる年齢だったから仕方ないかと思ったよ。女房を俺が殺したようなもんだったしな。一緒に住むのが苦痛だったんだろう。」


 菊池源次郎というこの元ドライバーは、こうして私に様々な想いを語ってくれた。煙草はゆうに一箱を吸ってしまい、さすがに狭い車内にいるのは息苦しいため、外に出て、近くのベンチに腰かけてのインタービューとしたが、家族の事を話して何のこだわりもなくスッキリしたのだろう。こちらが聞こうと思っていた以上に、源次郎は語ってくれた。


 「源次郎さん、最後に聞かせてください。今、国とか、政府とか、世の中に、何か言いたいことはありますか?」


 私は、最後の質問としてとっておいた、この質問を源次郎に投げた。またもや源次郎は、少し嫌味混じりの、しかし、多くは語れない難しさもあったのだろう、若干困惑した表情も交えながら答えてくれた。


 「そりゃあ、あんた。何てったて景気回復だろう。俺みたいに失業する奴とか、そもそも就職出来ない奴とか、そんな奴が日本中にごろごろしているようじゃあだめだ。政治は、これを何とかしてくれることを望むよ。吸いたい煙草を自由に吸える、お歳暮もお中元も出せる、そのくらいの国民の余裕を生み出せる社会にしてもらいたいよなぁ。あ、でも政治ばかりに文句を言っても仕方ないよな。一人一人が頑張らないと、やっぱり良くはならないんだろうな。俺なんか、何を頑張ればいいか、わからんけどな。はっはっは!」


 源次郎は、今度は腹の底からの笑いを見せた。この言葉は、きっと紛れもない本心なのだろう。家族とも別れ、愛車も失い、絶望の淵にいる源次郎に、私はあまりにも気安い言葉で質問してしまったかもしれない。そんな簡単に語れるほど、人の人生はシンプルではない。

 私は源次郎の最後の言葉をメモした。「一人一人が頑張らないと。だが、何を頑張ればいいのか。」


 「どうもありがとうございました!」

 最後の別れの挨拶。源次郎の手を取り、がっしりと握手をした。源次郎の大きくて分厚い手は、その心を表しているかのように温かかった。ぬくもりとはこういう手のことなんだ、と私は感慨深く思った。


 「なあに、なんてことないさ。あんちゃんも、しっかり真面目に働けよ! 詩だか小説だかなんだか知らんが、いまどきそれじゃあ、飯は食えんぞ。あ、俺が言うことでもなかったか。失業中は俺の方だったな。はっはっは!!」


 一段と大きく笑うと、これからハローワークに行くから、と私に背を向けて歩きだした。源次郎は大きな声で独り言を言う。

 「ハローワークとか言って気取りやがって。何が”こんにちは仕事”だよ。仕事なんてあるのか? いまどき……」


 私は源次郎の後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。メモと、それからずっと録音中だったレコーダーを止めて鞄にしまう。

 ひどく暑くなりそうな、そんな一日が始まろうとしていた。


往路第二区:佐藤賢一の場合


 門をくぐると、だだっ広い土埃の舞う広い空間。青い空に常緑樹の緑が映える。風が強いので砂埃が気になり、木陰に避難する。木陰の下のベンチに落ち着くと、熱気も幾分和らぎ過ごしやすい。

 終礼のチャイムが鳴り、子供たちが元気よく飛び出してくる。今日は一学期の最終日。いわゆる終業式だ。一人一人のランドセルの中には、もらったばかりの通信簿が、今日は俺様が主役だとばかりに、他の教科書に交ざって収まっているはずだ。この後これが親の目に留まり、さて吉と出るか凶と出るかは各家庭の小さなイベントとして刻まれていく。


 子供たちが全員出てきて、それぞれが思い思いに友達と話したり、ちょっと追いかけっこなどをしていると、最後に現れたのが佐藤賢一(四十一歳)だった。佐藤は子供たち全員に声をかける。

 「ほら、みんな真っ直ぐに家に帰れ。車に気を付けて帰れよ。寄り道するなよ。」

 その昔、ザ・ドリフターズの全員集合で、加藤茶が言っていたようなセリフをリアルに聞く。その優しい声かけは、遠目でもこの教師が心底子供達を愛しているのだということがわかる。

 一通り子供たちを見送ると、佐藤は初めて木陰にいる私に気づき、軽く会釈をした。誠実そうな、それでいて強い芯を持っている、そんな印象だった。


 「こんな狭いところで、すいませんね。」

 職員室の中の、端のスペースをわずかに切り出し、簡単な会議スペースとして活用しているのだろう。四人がギリギリと思えるそのスペースで、私たちは向かい合った。空調はそれほど効いていない。節電で設定温度は高めなのだろう。脇の下からじんわりと汗をかくのがわかる。


 「この辺もかなり過疎化が進んでましてね。おかしいでしょ、都心からそう遠いわけでもないのに、世帯数も、もちろん子供の数も毎年減少です。さっき送り出した子供たちも、あれで、二年生と三年生全部です。少ないでしょう。」


 あ、お茶煎れますね。と言い残しつつ、佐藤は立ち上がって、冷たい麦茶を準備してくれた。


 「人数が少なくなったとはいえ、教師のやることは多くなりましたね。平和そうに見えても、モンスターピアレンツ対策だったり、不登校児童対策だったり、なかなか簡単には解決できない課題が山積しています。」


 そう言うと自分でついだ麦茶を二口、ごくごくと流し込んだ。ようやく、息を吹き替えした、という安堵感にも似た表情になる。


 「この一学期は特に大変でしてね。熱中症で親を亡くした子がいまして、その子のケアだとか、あと、まったく理由はわからないのですが、突然若い先生が辞めてしまって、そのフォローだとか。まあ、多かれ少なかれどの学期でも何かしらあるんですが。」


 極端にひどい景気の悪化は、様々なところで波紋を呼ぶ。この学校にしても、この佐藤教諭にしても、例外ではない。


 「とにかく、突然親が失業した、という家庭が増えています。もちろん、小学校は義務教育ですから、そういう家庭の子供達も受け入れるわけですが、そうなると、給食費も払えない、遠足にもいけない、と一筋縄ではいかない問題ばかりが出てくる。教員は学問を教えることが責務ですが、とても教えるどころではない、人としてどうするかを、毎日問われているようなものです。」


 佐藤の語りは強みを帯びてきた。社会に対する何らかの怒りが、きっと彼の根底にあるに違いない。その怒りは、どこにもぶつけようがないことも、佐藤自身は解っている。私のように話を聞いてくれる存在は、例え話したところで変わりようがないとは解っていても、それはそれで嬉しいようだった。さらに佐藤の語りは熱を帯びていく。私は真剣にメモをとり、佐藤の訴えたい真の問題を、彼の言葉の中から導きだそうとしていた。そうするには、まだまだ時間も知識も足りなかったが。


 「そうそう、子供たちが、『将来なりたいもの』というテーマで絵を描いたんですよ。見ますか。何かの参考になるといいんですけどね。」


 そういうと、佐藤は自席に行き、十数枚の画用紙を取って戻ってきた。


 「子供らしいというか、昔のように野球選手やサッカー選手になりたい、という子供たちは相変わらず多いです。なでしこ人気も手伝って、女子のサッカー選手希望も、ほら、こんなに。」


 そういうと、目を輝かせながら、一枚一枚の絵について説明していく。


 「この子なんかは珍しいですね。お父さんがIT技術者らしいんですが、お父さんと同じようにコンピューターを使う仕事がいいと本人は言ってます。」

 見ると、そこには、頭よりも大きな両手で、体よりも大きなノートパソコンのキーボードを叩いている姿。きっと、父親の姿をイメージして描いているのだろう。子供らしく、元気で迫力のある将来像が描かれていた。


 「他に人気のある職業は、電車の運転手ですね。ほら、これなんかも、凄く上手い!」

 紙いっぱいに、電車を正面から見た絵。運転席には、帽子を被った笑顔の男の子が両手を挙げている。電車を運転できる喜びが全面に出ている、とても躍動感のある絵だ。


 「子供らしいだけでなく、すごく表現も上手いでしょ。こうやって子供達の絵を見ていると、この子達の希望がかなう世の中にならないかなと、心底思いますよね。」


 世の中に対する怒りやあきらめは、これから世の中に出ていこうとする子供達には何の薬にもならない。大人のネガティブな心情を今から子供達が味わう必要はない。佐藤はそう考えているが、とは言え、どこかで大人のジレンマをクリアにしたいという願望もある。


 「これは……これはまた珍しいな。この子は正志というんですが、他の子以上に電車が好きで。でも、よく知ってたなあ。この時代は知らないはずなんだがなぁ。」


 見ると、そこには駅帽をかぶり、右手にキップ切り鋏を持って改札に立つ駅員の姿。自分のなりたい職業だとすれば、これは今では到底叶わぬ夢物語ということになる。


 「この子はどこでこうした光景をみたのかなぁ。かなり山間部のローカル線の駅でも見かけなくなったけどなあ。」


 すでに、自動改札機の普及は百パーセントとなっていた。有人で、キップを切るという仕事が残っている駅は一つもない。


 「正志のところは、確か親が電車関係だったかな。今の子供たちには、有人の改札なんて想像つかないはずですからね。きっと親に教えてもらったか、写真でも見せてもらったか、どちらかでしょう。」


 佐藤はそう言って画用紙をきれいに束ねた。


 「もう一度、見せてくれますか、その、キップ切りの駅員の絵。」


 私は少しだけ妙に引っ掛かった違和感が気になり、もう一度絵を見せてもらうことにした。


 「やっぱり……」


 誰かから話を聞いたり、あるいは昔の交通図鑑のようなものに載っているものを写したのではないか、とも思ったが、それは違っていた。私の呟きを気にしたのか、佐藤ももう一度絵を見ている。そして、どうやら同じことに気づいたようだ。


 「この改札の絵は、今の自動改札機ですね。カードをタッチするところもあるし、あと、これ、開閉するドアも。この絵は今の自動改札機に駅員が立っている絵なんだな。」


 その違和感を、私も佐藤も絵を見ながら味わっていた。これは、この子の理想なのか。もしかしたら、こうなるという予言なのか。いずれにしても、今はありえない、この絵。不思議なものを見るように、私も佐藤も絵に見入っていた。


 「そうだ。これから正志の家に行ってみましょうか。なに、学校のすぐ近くなんですよ、あいつの家は。うまくすればこの絵の謎を解明できるかもしれませんよ。何と言っても、正志が駅員になりたいなんてことも、面と向かって話をしたことがなかったんです。いい機会なんです。」


 佐藤は一人興奮気味にしゃべり、一人で結論付けた。私は特に反対する理由は見当たらない。新しい発見があるかもしれない。素直に佐藤についていくことに決め、荷物をまとめた。


 本当に正志の家は学校から近かった。近いも何も、もうこれは隣と言ってもいいだろう。学校の正門とは別の東側に別の門があり、その門を出るとすぐに左折、左折した二件目が正志の家だった。学校の近くの住宅地の一軒家。どこにでもありそうな家だ。門柱に「平野」という表札。正志は平野正志と言うらしい。

 佐藤がインターホンを鳴らす。二度目に押したときに子供の声がした。

 『はい……』

 「おう、正志か。先生だ。ちょっと話をしたくてきたんだが、ご両親はいるかい。」

 『お父さんもお母さんも仕事です。』

 「そうか。じゃあ、正志だけでいいから、玄関口まで出てきてくれないか。家にはあがらなくていい。なあに、五分かそこらだよ。」

 『はい。』

 言うと、すぐに、ガチャッと鍵を開ける音がした。正志がドアを開け、こんにちはとお辞儀をする。玄関口から覗くとランドセルが無造作に放り出されていた。通信簿は、まだランドセルの中だろう。


 「正志。この人はな、先生に学校の事をいろいろ聞いて、良かったら本にしてくれるそうなんだ。それで、うちのクラスのみんなの、ほら、この前描いてもらった、『将来なりたいもの』の絵、あっただろう。あれを見ていたんだが、正志の絵が気になってな。それで、ちょっと聞きに来たってわけだ。」

 「僕の絵、何か変でしたか?」

 「いや、変じゃないよ。ただ、駅員さんになりたいって絵なんだってことはわかったんだけど、駅員さんが使っているキップを切る鋏。あれは、今はもう使われていないからね。それで、正志はこれをどこで知ったのかな、って、ちょっと思ったんだ。だから別に全然変じゃないんだよ。」

 そう言って、佐藤は筒状にして丸めて持ってきた正志の絵を広げて見せた。


 「ああ、なんだ、そんなことですか。」

 正志は、絵を見ながら指差した。

 「この絵は、なりたいもの、って言うより、こうしたほうがいいんじゃないかな、と思って書いたんです。おじいちゃんが、昔は自動改札なんてなかった、って話をしてくれたんです。僕は、昔のほうが良かったんじゃないかなって、おじいちゃんの話を聞いて思ったんで、絵にしてみたんです。」

 小学校三年生とは思えない、しっかりとした受け答えで、正志は話をしてくれた。

 「おじいちゃんは、昔のお話がすごく上手なんです。聞いてて楽しくなります。今よりも便利じゃなかったって言うけど、おじいちゃんはすごく楽しそうに話をしてくれるんです。だから、きっと昔のほうが今よりも楽しかったんだろうなって。だから将来は楽しくなってればいいな、と思って書きました。」


 思いのほか、大人のような返事をする正志に、佐藤はいたく感動したらしい。今の正志の成長ぶりを、彼の知るどこかの時点の正志と比較し、そしてその成長を喜んでいる、そういう感情が彼の背中から伝わってきた。私もそれに感化されてか、妙に嬉しい気分になっていた。そのため、正志の話した内容が、実はすごく意味のある言葉だったと、この時は思ってもみなかった。

 佐藤は、一通り正志の話を聞いた後、駅員になりたいのか、と再び聞いた。正志が、本当のところはまだよくわからない、といった返事をしていたが、佐藤はそれでも、ちゃんと正志と話ができたことだけで嬉しいらしく、いちいち正志の言葉にうなずいていた。


 正志にさよならをした後、私は佐藤と学校の門の近くで別れた。

 門から右折した道は、学校の体育館に沿った一本道で、その先に駄菓子屋のような小さな店がある。喉が渇いた。そこで飲み物を買おう。

 この後、正志の話を振り返ることになるとは、この時は露とも思わず、私は無性にのどの渇きを潤したかった。


往路第三区:田中謙信の場合


 「いらっしゃいませ!」

 元気な声で店の受付で挨拶するのは、田中謙信(三十三歳)。早くから自分の店を持ち、当初は二、三名の従業員もいたが、今は一人で切り盛りしている。一人では手に余るくらいの広さだが、このくらいのスペースがあったほうが田中にとっては使い勝手がいいらしい。空いたスペースには大きめの観葉植物を置き、エコと癒しの雰囲気を店の中に漂わせている。


 「今日はどうします?」

 暑くなったし、ばっさりと、と言うと、じゃあ短めに、と言って準備を始める。

 この店で髪を切るようになって、もう十年近くになろうとしている。三ヶ月に一回くらいのペースで切りにくるから、年に四回しか会わない。 それも、大体が短髪にカットするだけなので、シャンプーやらマッサージやらを含めても一時間程度しかいない。なので、年に四時間しか接点がない。それにも関わらず、田中とは非常にプライベートな事までお互いに知っているし、よく話す。美容師とはなんと不思議な職業なのだろうか。髪を切る以上に、親密な空気を共有できる稀有な職業と言ってもいいかもしれない。

 田中の名前。「謙信」は、言わずと知れた上杉謙信からとった。そう田中からは聞いている。父親が馬鹿がつくほどの歴史好きなのだそうだ。 上杉謙信のように、強く、賢く、たくましく生き抜いてほしい、という父親ならではの願いを込めての命名だ。


 「最近は、どう? 仕事の方は。まだ、横浜でしたっけ?」

 横浜まで通っていたのはずいぶん前で、今は都内なんだ、と最近の仕事の話をする。へぇ、そうなんだ、へぇ、と相槌を打って聞く田中だが、実はそんなに客の仕事については興味はない。ただ、その日のその客が、今日はどんな事を話したいのか、を探ることが目的だ。だが、そんなことは決して客に悟らせない。それが彼の美容師としての力量以外のテクニックの一つである。


 「へぇ、都内なんだ。でも、前より近くなったんだったら、良かったんじゃない?」

 そうだね。横浜よりは全然いいよ、と答えると、そりゃ近い方がいいよね、と相槌をうつ。

 田中は私より五歳は下だが、友達感覚で付き合っているせいもあって、敬語だったり丁寧語だったり、くだけて話したりと、いろいろ表現が混ざる。それはそれで面白い。感情の微妙な揺れが、表現の混ざり具合で分かったりする。


 「そうなんだぁ、ところで、どう? 最近は書いているの? 小説。」

 この前、趣味で小説を書き始めた、ということを話したのだが、それを田中は覚えていたようだ。客の一人一人とどんな話をしたのか。それを覚えていることも田中が固定客を掴むことのできる理由の一つだ。まさに友達感覚。人によっては、身内や親友以上に自分を気にかけてくれていると感じる者もいるだろう。そうして田中の虜になった客が、固定客となって足しげく田中のもとで髪を切る。この能力のおかげで、田中は自分の店の宣伝をしなくても、いつも予約でいっぱいだ。個人事業主としては成功しているモデルだと言えるだろう。


 「小説も、それからエッセイも書き始めた。でも、仕事の合間だから、たくさんは書けないね。」

 田中は、へぇ、そうなんだ、と相槌を打つ。時折、カットに慎重になる時、目線がやけに真剣になるのが鏡越しで分かる。そんなときの、「へぇ」、はどこか心を置き忘れてきたような返事になる。


 「ところで、消費税上がっちゃうね。そうなると田中君のところも大変でしょ。」

 ちょっと政治ネタを振ってみる。田中に言わせると、いろんな客が好き勝手なことをしゃべるから、いろんなジャンルの話題が豊富になって、髪を切らせてもらって勉強させてもらっているようなものなんだとか。その中には、政治に強い客もいるので、知らず知らずのうちに、ちょっと政治についても語れますよ、程度の知識が自然に身についたと言う。


 「一人でやってるからね。法人税の大きな改正でもない限り、そんなに影響出ないと思う。自分一人だと一日で多くて十五人くらいで、それ以上にはならないから、シャンプーだとかパーマ液だとかの消耗品も莫大には使わないし、消費税はそんなに気にしてないんですよ。」

 そういう田中は、そうは言っても自分一人だから休むことができない。火曜日のみ定休日で、あとは常に店を開ける。稼ぎは多い方がいい。

 「家にいてもね。そんなにすることがあるわけじゃないから。店を開けたほうがやることあっていいかなって。」そう言いながら、リズミカルに髪を切っていく。


 「家がね。店から近いんですよ。自転車で三十分強ってところかな。健康のために自転車で店まで通ってるんだけど、おかげで一駅分の電車にも乗らなくなったし、節約できてるんですよ。最近は、何でも高いし、特に光熱費なんて結構バカにならないでしょ。こういう商売だから電気も水も必要だし。節約はけっこうマメなんですよ、僕は。」

 そう言うと、一通りカットは終わったらしく、今度はちょっと伸びすぎた眉毛を揃えてくれる。

 「電車乗らないんだ。」

 「乗りませんねぇ。もうどれくらい乗ってないかな。大学の時、あ、美容師の研修で乗ったか。でも、すぐにこの店を持ったから、そうだなぁ、七、八年は乗ってないかもね。」

 「じゃあさ、SUICAとかPASMOとか、持ってないんだ。」

 「そう、持ってないですね。普段使わないし、その時その時でキップを買えばいいし。他のカードも一杯あるから作ってないですね。」

 「それじゃあ、もしキップは廃止! なんてなったら、困っちゃうね。」

 「そんなことになったら、一生自転車で通しますよ。それでも困らないかもしれないし。」

 笑いながらも真剣に、カットした髪の左右のバランスを見ると、どうやら満足したらしく、椅子をくるっと回して、「それじゃあ、洗いますね。こちらにお願いします。」


 洗面台で、シートがフラットになってほぼ仰向けの状態になると、顔に薄いペーパーを乗せられる。私はこの時にいつも、「ああ、死人になった気分」と思ったりするが、そんなことはお構いなく、田中は髪を洗っていく。シャンプーで少し強めに洗うのは、マッサージも兼ねているからだが、これが実に気持ちいい。本当に死人のように眠ってしまいそうになる。田中も、この時ばかりは会話を弾ませたりはしない。頭へのマッサージの刺激を、静かにじっくりと客に味わってもらおうとする、一つのサービス精神の表れでもある。

 一通り洗い終わり、すすいだところで、丁寧に髪を拭く。シートを普通の状態に戻し、その上で、肩と背中と後頭部へのマッサージをする。これもまた実に気持ちがいい。

 ほぼほぼ寝落ちしかけたところで、田中の手が止まり、もう一度髪の長さのチェックと、ドライヤーで乾かすために元の席に戻る。


 「それで、電車の話に戻すとね。最近、思うんだけど、昔に比べて通勤ラッシュが楽になった気がするのね。まあ、各社工夫しているからかもしれないけど、それでも、昔は死ぬほどぎゅうぎゅう詰めだったのに、今では、混んでるって言っても、スマホ見たり文庫本読んだりできるスペースはあるからね。昔は、そんなスペースさえもなくて、ただひたすら降りる駅が来るまで耐えてたもんなんだ。だから、思うんだけど、そもそも、通勤時間帯に電車に乗る人が少なくなってるんじゃないかと思ってね。そんなの、あれか、電車に乗らない田中君にはわからないか。」


 私がかねてから、なんとなく思っていた疑問を、ここで口に出してみる。もちろん、田中は、こういうテーマにもきちんと食らいついてくる。

 「まあ、僕の友達も、まだ三十半ば手前だって言うのに、早期退職勧告されたって言ってましたからね。日本中、景気は思いっきり悪いし、確かに通勤時にきちんと通勤しなければいけないサラリーマンって、減っているのかもしれませんねぇ。」

 「美容院はどうなの? 不況でつぶれたりしているの?」

 「そういうところもありますけど、結局人件費なんですよ。雇っている分の人件費さえショートしなければ、とりあえずはやっていけるかなぁ。うちなんかは僕一人だけだからなんとでもなるし。人の髪の毛は必ず伸びるから、固定客さえ作れば、自分が元気なうちは安泰だし。」

 「そうなんだ。結局、今の時代は大きな組織より、小回りの利く個人事業主とかのほうが、長生きするのかねぇ。」

 「そうとばかりは言えないでしょうけどね。はい、じゃあ、これで後、見てください。長さいいですか?」

 手鏡を渡されて、後ろ髪の長さを確認する。うん、いつも通りだ。

 「ありがとう。大丈夫だよ。」

 「ありがとうございます。それじゃあ、お疲れ様でした。」


 振り返ると、田中がまだ見送っている。一人で営業しているから、この後次の予約客がやってくるまでに、自分で簡単に清掃し道具を準備し、そうして次の客を待つ。この大不況でありながら、比較的安定的に稼ぎを出している。そういう業界のほうが稀有なのかもしれない。

 さっぱりとした頭をさらっと撫で、まだ日差しの高い夏空の下、私は次の予定のため駅へと向かって歩き出した。

 

給水ポイント1:自動改札機メンテナンス


 「な、なにを馬鹿な……今月に入って五件目だぞ!」

 沢木次春は、電話を取り次いだ妻の美代子に八つ当たりして怒鳴った。その剣幕に物静かで優しい妻は、おどおどしながらも、そっと受話器を次春に渡した。


 次春は、乱暴にひったくるように受話器を受け取ると、開口一番怒鳴り付けた。

 「おい! いったい、どういうことだ! どうしていきなり契約継続なしなんだ! 一方的過ぎるじゃないか!」

 相手もその理由を丁寧に説明しているのだろう。次第に次春のトーンが落ちていく。

 「……分かった、そういうことなら仕方ない。また何かあったら声をかけてください。はい、はい。ありがとうございました。」

 最初の勢いも消え、力なく受話器を置く次春。仕方ないとは言ったものの、心の内では納得しかねている。なぜ、契約がこんなにも、打ち切りになっていくのか。


 次春は、駅の自動改札機のメンテナンスを専門に行う個人事業を営んでいる。小さな会社で社員もわずかに五人しかいない。メーカー出身の社員たちは数年前までは、自動改札機を設計・開発する側にいた。定年間際の社員たちばかりが集まり、定年後も自分達が世に送り出した自動改札機に関わりたいと、何人かで出資し、メンテナンスを専門にする会社を立ち上げた。

 もともと、自分達が設計した機械だ。調子が悪くなったら、どのあたりが故障しているのか、すぐに分かる。そうした強みがあるため、これまでは、メーカーからたくさんの受注ができた。関東だけでも、相当数の自動改札機があるのだ。日に数ヶ所を回っても、途切れることなく仕事はあった。順風満帆に思えた。


 それが、ここに来ての失速。次々に契約の終了を申し出る顧客が、今日で五件目。先程の五件目の電話は、次春が定年まで勤めた会社からだった。何年も後輩の営業部長から、丁寧に懇願されての解約だった。


 来月はまだ入金がある。だが、再来月の入金は急激に減る。五人の社員に給与を払えるだろうか。

 悪い考えが、急速に頭の中に広がっていく。とめどなく。給与の減額に、みなどういう反応を示すだろう。あるいは、給与支払の延期。いや、そんなことができるわけがない。みな、まだまだ生活がかかっているのだ。


 自動改札機が、世の中の駅という駅に設置されてから、もう大分たつ。すでに、カードや携帯をタッチする様は、ありふれた光景だ。むしろ、切符を通す人の方が迷惑がられている。


 自動改札機の故障で一番多いのが、ハンドラーと呼ばれる切符を処理する部分だ。物理的に紙を吸い込み、送り、磁気ヘッドが切符を読み込み、穴をあけ、排出する。こうした、物理的な稼働部分の仕組みほど、長く使うほどに故障率が高くなる。汚れ、ほこり、手の油、切符に付着した様々な汚れは、それが機械を通過するたびに、機械にダメージを与えていく。ダメージが蓄積されると、ある時挙動がおかしくなる。

 こんなところは、人間と変わらない。次春にはそう思える。定期的にメンテナンスしないとダメなのだ。人も機械も。

 だから、次春たちの会社では自動改札機も、まるで人に対して接するように扱う。いつも仕事ご苦労様、人の代わりを担ってくれてありがとう。そうした気持ちを込めて、メンテナンスをする。


 次春たちの会社では、こうした物理的な仕組みに対しての短時間の修理を得意としていた。改札機の側面の蓋を止めているネジを外し、片側半分の面をガチャッと九十度倒す。切符の吸い込み口から排出口まですべてが見える。送り出しのローラーや、パンチ部分も壊れやすいが、圧倒的に動作がおかしくなるのは、磁気読み取り部分だ。ここの読み取り精度が落ちると、改札機自体の機能全てが低下する。

 こうした不具合箇所をいち早く見つけ、修理する。そのスピードは、他社に比べて圧倒的だ。そこに、強みがあった。


 しかし。

 ここに来て、どんどん契約が切られていく。いったい、どうしたわけなのか。次春には、これといった思い当たる節もなく、ただただ、明日を案ずるしかなかった。

 明日は、久しぶりに営業に出かけないといけないだろう。事態が最悪なことになる前に……


往路第四区:朝倉康人の場合


 鏡の前で何度も何度もネクタイの位置を直す。どうも、今日は自分の納得のいく位置に結び目が来ない。何度も結び直すが、そのうちこの色では冴えないかな、などとも思い、別のネクタイを選び直す。今度は何とか納得いく位置に締めることができた。

 朝倉康人(五十九歳)が、官房長官という役目を担って早、三ヶ月。ようやく様になってきたが、政権自体は正念場だ。古賀内閣は就任時こそ八十三パーセントという高支持率を叩きだしたが、あれよあれよという間に下がり続け、その間、大臣の不祥事などが発覚し、ついには支持率二十一パーセント。もはや、政権は不信任案を提示されかねない状態になっていた。その歯止めとなる対策は、総理自らが先導して実施する不況対策。今日、官房長官である朝倉がその前段を説明する。自然と気合も入るが、気負いも目立つ。

 若い頃から朝倉は気負い過ぎるきらいがあった。若い時は、積極的な面のアピールとなり、好印象に受け取ってもらえる一面でもあったが、ある程度の年齢を越えてからは、気負いは単なる経験不足、短絡的な思考と解釈されがちになってきた。それでも、政権与党になってからの数カ月、とりわけ官房長官になってからのこの三カ月は、こうした悪い面の評価を払拭するだけの働きはしてきたつもりだった。この調子で、今日も乗り切りたい。そう思うことがまた、気負いにつながっていく。自分でも、そうした逸る気持ちが前面に出ていることを久しぶりに感じている。ネクタイの結び目へのこだわり一つとっても、そうした思いの表れだ。


 二〇一五年の国内失業率はおよそ四.五パーセント。これは、この数年ほぼ変わっていない。この年の日本の労働力人口は、およそ六千五百万人。そのうち失業者数は、二百九十万人。十年前の二倍になっている。この十年間、政府は何も不況対策を行ってこなかった事に等しい結果だ。十年というスパンを考えれば、国の責任は与党でも野党でも、どちらかの責任だなどとは到底言えない。すべてどの政権も有効策を打ち出せなかったことは、一蓮托生に責任を問われても仕方ないだろう。


 そこで、古賀政権は不況脱出の一つの策として、ある検討を開始した。民間有識者を十数人参画させ、広く意見を募る。この大不況を一発で乗り切るような起死回生の案はさすがに出ないものの、いくつかの案は、改善に導けるのではないかと思えるものも提出された。そのうちの一つを、今日朝倉が発表する。


 有識者の一人は、民間企業のコンサルティングを生業にしている高林宏行。今日、朝倉が発表する案は、高林が最初に発案した。発案した本人も、最初はいくつかの案の一つであり実現の可能性はかなり薄いと見ていた。しかし他の有識者と意見交換を重ねるうちに、発案した高林自身も想像できなかった思いがけない効果も見込めることが分かり細部を検討。今日、ようやくお披露目ということになったのだ。


 朝倉がネクタイをいちいち変えたり結び直したりしている姿を見ながら、傍で高林は待っていた。最後の最後、ぎりぎりまで、この案を朝倉がきっちりと語れるかは、高林が傍についているからこそ可能となる。そのため、ここ数日、高林は朝倉と共に行動することにしてきた。今日を乗り切れば、ある意味でお役御免だ。ここ数日の疲れがどっと出てくる。今日、高林がすることは何もない。朝倉が決めた通りに話をすればいいだけだ。


 そんな高林の姿を鏡越しに見ながら、朝倉は心配そうに声をかけた。

 「高林くん、ずいぶんお疲れのようだが、安心するには少々早いぞ。本番はこれからなんだからな。最後まできちっとサポートしてくれよ。」

 「承知しています、朝倉先生。ただ、もう私の出番などなくても、この案は政府案として固定したと思います。実行に移す際にまたお手伝いさせていただきますが、今日のところは朝倉先生の一人舞台で十分でしょう。私の出る幕などありませんよ。」

 「君も、しばらく私と接しているうちに、まるで政治家のような物言いができるようになったな。まあ、そういう吸収力があるからこそ、コンサルタントとして揺るぎない経営ができるということなのだろうけどな。まあ、いずれにしても、何が起きるかわからん。サポートはくれぐれも頼む。」

 「はい、わかりました。ご安心ください。」


 時間が来たようだ。係の者が朝倉を呼びにくる。

 朝倉は呼ばれるままに返事をすると、それじゃあ、行ってくると高林に合図し、部屋を出ていった。


 記者発表の場は、多くの報道関係者ですでにごった返していた。詳しい内容は公表されないまま、ただ集合がかかったに等しい。この大不況に有効な策が政権与党から、しかもこの支持率が急降下中のタイミングで出てくるものだろうか。あまりにも正攻法過ぎる。そういう見方があったかなかったか。報道陣の誰もが、そのような内容は想像せず、よもや内閣総辞職、早期解散の見込みか、などと勝手な想像をしていたところだった。


 朝倉が壇上に現れる。すでに用意万端で待ちかまえていた報道陣達。カメラのフラッシュが閃光のように明滅し、一瞬音が聞こえなくなる。壇上で落ち着きはらっている朝倉。しばらく間を取ってから、朝倉は話し始めた。

 「古賀政権が今後発案していくいくつかの改革案は、政府をどうこうする以前に、もっと直接的な改革に踏み込みたいと考えています。従って、これまでのように法律をいじるだけの改革ではなく、実を伴う、ある意味、見方によっては官僚の役割に割って入るくらいの行動力を持って打ち出していきます。」

 「越権行為にはならないのでしょうか?」記者の一人が質問する。

 「質問の時間は、この後に取ってありますので、そのときにお願いします。」司会役から注意が入る。


 「さて、その実を伴う改革案ですが、これは、発想的には短絡過ぎるという見方もできるかもしれません。しかし、その効果は確実と思える案です。」

 前置きに少々時間をかけながら、朝倉は、用意してきたメモを壇上で広げ、内容を正確に伝えるべく、説明を始めた。

 「与党政府は、北海道旅客鉄道・東日本旅客鉄道・東海旅客鉄道・西日本旅客鉄道・四国旅客鉄道・九州旅客鉄道・日本貨物鉄道を初めとする、いわゆるJRグループ全ての法人を、国営化する案を進めます。」

 報道陣がざわめいた。これは時代の逆行にも等しい案だ。改革というにはあまりにも短絡である。記者の何人かから、思わず手が上がる。だが、質問の時間までは、朝倉は一方的に説明を続ける。


 「現在JRグループの社員数は、これまでの計画通りに推移し約六万人となっています。これは、かつて分割民営化の頃の状態から見た時の、四分の一ほどの縮小になっており、民間企業として無駄を省く経営努力の結果とも言えるかと思います。また、全国のJR駅数は、およそ四千六百。こちらもローカル線の廃止などもありますが、新設の駅もあることから、極端な増減はありません。さて……」

 朝倉は、一呼吸おいて、水差しの水をコップに注ぎ、喉を潤した。会場は、必要以上に気温が上がっているのか、息苦しいまでに熱気を帯びている。

 「ここで民営化する意図は、これまでこの日本経済の、特に旅客分野で貢献してきた自動改札の仕組みにメスを入れること。これに尽きます。もちろん、これまで経済が成長している間に整備してきたこの仕組みの恩恵は、失うには余りにももったいなく、今後もさらに利便性を突きつめたいものでもあります。しかし、今回我々は、ある一定期間、この自動改札機を全て撤廃し、有人改札を復活させることを不況対策の公共事業として実施していきます。」


 ここでも大きく報道陣がどよめいた。そのどよめきが鎮まるの待ち、さらに朝倉は続けた。

 「試算は、驚くほど簡単ですが、しかし、大枠での数はそれほど大きくずれないでしょう。JR駅の改札数を平均で十とします。一つしかない無人駅に近い改札から、ターミナル駅で数十の改札を持つ駅まで、その数は様々ですが、これを平均で十改札とします。一つの改札に交代制で三人が張り着くとした場合、一改札あたり三名の駅員が必要になります。さらに、キップ切りの駅員に加え、定期券をチェックする駅員を加えます。 かつての駅職員の力量であれば、この二つの業務を瞬時に正確にできる駅員もいましたが、今の時代にそのような人材はいない。そこで、一改札に同時に二名体制とし、そうすると、一駅あたりの平均駅員数は六十名と定義します。これを先ほどの全国の駅数で掛けますと、二十七万六千名の駅員が必要になる計算です。これは、一九九〇年の分割民営化当時の社員数とほぼ同じ数となります。失業者数が二百九十万人という膨大な数であるため、国営化を推進しても、その十分の一ほどしか救えない数の対比ではありますが、それでも国の公共事業としては非常に現実的な事業案と考えています。」


 三度、水差しの水を口に含む。

 「この、不足する駅員を募集します。現在失業中の人が対象となります。希望者の受付は、全国のハローワークで受付、あるいはインターネットから履歴書等を送付してもらい、選考過程に入ります。告知、募集、選考過程に半年。募集した駅員のオリエンテーション期間に三ヶ月。合計九ヶ月をかけて駅員の増員と育成を行います。この間に、自動改札機の無効化を段階的に実施し、九カ月後には、全ての改札に駅員が張り着くという体制を組みます。」


 なんたる無謀な案なのだろうか。二十年以上かけて作りだした、機械による効率化を、九ヶ月で無効にする。そして、約二十七万人の雇用を確保する。この二十七万人の駅員の給与を保証するには、今のJRグループの売上では賄えないはずだ。どのように二十七万人分の給与保障をするのか? これも現時点ではグレーゾーンだ。


 朝倉からの概要説明は終わった、だが、記者達から見れば、分からないことだらけだ。

 質問の時間に突入する。記者達からは、次々と質問の手が上がる。朝倉は対応できるだろうか。高林は、記者達の視線が届かない場所で、朝倉の様子を伺う。

 果たして朝倉は乗り切れるだろうか。高林は、自分の出番が来ないことを祈るが、来たら来たで大胆に対応しようとも考えている。

 いよいよ、質問の受付が始まった。


往路第五区:高林宏行の場合


 記者の質問に果敢に回答していく朝倉。

 それは朝倉が、本件に集中できていることの表れだとも言える。誰に頼るでもない、朝倉らしい切り口で、自分の考えも盛り込みながら、記者たちの質問に答えていく。

 記者からの質問は多岐に渡った。


 「本件は官僚、特に国土交通省への越権行為にも見えますが、現時点で国土交通省とは話ができている、と、そう考えてよろしいですか?」

 「現時点では、詳しい内容の意識合わせまではできていません。今後、詳細を詰める中で、認識を合わせていきます。」


 「約二十七万人の雇用を、公共事業で進めても、彼らに支払えるだけの余力はJRグループでは難しいかと思いますが、どのように確保するつもりでしょうか。」

「一時的な公共事業とは言え、売上はJRに入りますから、もちろん給与支払はJRから行われます。国からはJRに対し特別法人税適用と、一時的な助成金による支援を実施します。」

 

 「助成金はいくらくらいでしょうか。国庫から賄うことになると思いますが、財政圧迫の火種になりはしないでしょうか。」

 「そうならないように、手を打っていきます。」


 滑らかに、適切に、そして、真摯に回答していく朝倉。

 しかし、内容が内容なだけに、記者たちも質問の手を緩めない。

 さすがに、朝倉に疲れの色が見え始めた。それでも記者の質問が収まらないとみるや、進行係の担当官が、次の質問を最後の質問とすることを宣言した。


 最後の質問は、古参の記者である吉井清次郎。朝倉もずいぶん長く付き合ってきた男だが、こうして見ると鋭い眼光で、敵対心とも思える気迫を全面に出している。吉井が普通の質問をぶつけるわけがない。今日、この場に来ていること自体、何かしら挑戦的な質問を用意周到に準備してきたと思ってよい。それだけ、吉井という男は要注意なのだ。

 朝倉は、再び気を引き締めた。軽くのどの渇きを感じて、ペットボトルの水をコップに移す。


 「朝倉官房長官、今回のこの案はあなたも本心では無謀な案であることは分かっているのではないですか? それにも関わらず推進するには、それなりの理由なり根拠なりがあるはずだ。その根拠を教えて頂きたい。さらに、これはプロジェクトマネジメントが肝。それも最高のプロジェクトマネージャーがいないことには話にならないでしょう。一体、現場を牽引するのは誰が務めるのですか?」

 「質問は一つでお願いします。」

 担当官がたしなめる。吉井は苦笑いをしながら訂正した。

 「仕方ないですね。それでは二番目の質問にお答えください。」


 朝倉はコップの水を飲み干すと丁寧に答えた。

 「民間の経験豊富な人材を活用する予定です。」

 「すでに、候補者は決まっているのでしょう。こんな大きな世紀の大改悪、おっと失礼、大改革を推進する人材だ。かなりのやり手を雇う必要があるでしょう。こうした仕事ができる人間は、日本、いや世界でも、そんなに多くはいない。かなり早い段階で、どういう人材が必要となるかを揉んだはずです。そして、その人材にとっても、この件を請け負うには、それ相応の時間が必要だったことでしょう。であれば、すでにオファーされているはず。いかがですか。」


 やれやれという顔で朝倉も苦笑する。

 吉井の追求は、ただ朝倉を困らせたいだけのようにも聞こえる。今日のこの場でプロジェクトマネージャーを明らかにする事は決して本質ではないからだ。ここで、魔女裁判のごとく担当するプロジェクトマネージャーをあぶりだしても、誰の得にもならない。ということは、吉井のこの質問は、朝倉とプロジェクトマネージャーの覚悟を推し量っている。そうでなければ、この海千山千の老記者が無駄な駆け引きをするわけがない。


 部屋の一番遠い隅に、目立たないようにいた高林だったが、壇上の朝倉と目が合うやうなずいた。「いつでも出られますよ」、と暗黙の合図だ。

 それに気づいた朝倉は、またもや苦笑する。(まったく、どいつもこいつも強気な奴らだ。)


 「わかりました。この場にプロジェクトマネージャーの候補者も同席しています。こんな形で紹介するのは異例中の異例だが、いいでしょう。いずれ発表することになっていましたしね。ご紹介しましょう。ITコンサルタントの、高林宏行さんです。」

 呼ばれると、高林は自ら壇上へと進んだ。一際カメラのフラッシュが焚かれる。シャッター音が大波のように鳴る。明滅する光の中で、高林は壇上から挨拶した。

 「只今ご紹介に預かりました、高林宏行です。今回のJR国営化プロジェクトを担当します。」

 一礼すると、またもや激しいフラッシュの嵐。


 「高林さん、あなたの勇気は見上げたもんだ。普通はこんな仕事は受けない。」

 会場に笑いが起きる。だが、そう言った吉井本人はまったく表情を崩さず、厳しいままだ。その鋭い眼光は、高林をじっと睨んだまま外さない。

 「高林さん、教えていただきたい。このプロジェクト、成功する見込みはあるのですか? 正直に答えてほしい。」

 高林は、吉井に負けるとも劣らない、気迫の眼光で、きっと吉井を睨むと、記者たち全員を見渡した。

 そこには、冷静さと気迫を併せ持った男が壇上にいた。会場にいた全ての記者達は、この時全員が感じた。これは、もしかしたら世の中を変えられる男が現れたのではないかと。


 「プロジェクトはこれから立ち上げに入ります。正直、今の時点で勝てるなどと断言するには、少し早計過ぎるでしょう。」

 「ということは、まだ、分からない、が答えですか?」

 「そう受け止めるなら、それでも私は構わない。何しろ、まだスタートラインに立ってもいないですからね。ただ……」

 高林はそこで、さらに鋭い視線を吉井に送る。

 「ただ、私は勝つ見込みのない仕事は受けない主義でしてね。朝倉官房長官も、私と同じ思いだと思いますよ。」


 「申し訳ありません、時間になりましたので、これで閉会とします。官房長官と高林氏は退場をお願いします。」

 担当官の先導で会は終了し、高林と朝倉は並んで壇を降り、控え室へと歩いていった。朝倉は高林の背中を軽くポンポンと叩き、よく言ったとばかりに、労をねぎらっている。


 二人のその後ろ姿を見て、吉井は呟いた。

 「何がスタートラインにも立ってないだ。見事にたすきを受け取っているじゃねえか。」

 そして、ふいに吉井は周囲がびっくりするほどの大きな声で笑い出した。

 「はっはっはっは! わかったよ、わかったわかった。まずは、お手並み拝見だな。そういうことだ。はっはっは!」


 記者会見で彗星のように登場した形になった高林は、その日の午後のニュースを独占したかのように、何度も何度も報道された。そして、この吉井清次郎とのやり取りの一部始終を伝えられた。報道する側は、この高林の登場を好意的に受け止め、各社が民間から果敢に挑戦する救世主出現という伝え方をした。こうした受け止め方をしてもらえたのは、高林自身の人望だろうか。吉井とのやり取りに、これまでの政治家には感じられなかった期待感を感じたせいだろうか。それとも、何を選んでも良くならない政治不信、ここでヒーローが登場しなければ、本当に日本はだめになってしまう、そういう危機感からの期待、なのだろうか。


 確実に言えることは、古賀政権に期待をしているわけではない、ということだ。民間に頼らなければいけない政権の脆弱さを、ある意味揶揄しているとも言える。だが、プロフェッショナルを民間から調達するという英断は、これまで国民が実現してほしかったことの一つでもある。その空気を、世論を肌で感じたからこそ、メディアは好意的に報道したのだろう。さらには英雄的な扱いをしたのだろう。高林にとっては大きなプレッシャーを責任と共に引き受けたことになるが、世の中の期待を一身に背負い、それが高林本人も思ってもいなかった自分自身の力を引き出すことにもなった。そう、世間は、正解を選んだのだ。


復路前夜:プロカウンター嶋田吾朗の場合


 陽射しは暖かい光を降り注いでいるようにも見えるが、風は冷たい。

 交差点のすぐ脇。電信柱の陰に寄り添うように座りながらも、熊のようにその大きな巨体を隠しようもなく、嶋田吾朗は、黙々と指だけを動かしていた。

 時折吹く乾いた冷たい強風が、嶋田のキャップを吹き飛ばそうとするが、どうしてどうして、その小さなキャップは、嶋田の大きな頭にすっぽりと収まり、微動だにもしない。


 あまりにも真剣な、その指の動き。止まることがない。私は声をかけるのをためらっていた。彼の仕事を邪魔してはいけない。周囲の空気が、風が、光が、そう言っているように感じたのだ。


 もう、三十分はここでこうして待っただろうか。嶋田はパタリと指の動きを止めた。

 「俺に何か用かい?」

 私の頭の先から足の先まで、隅々を見ながら、嶋田は言った。


 「えぇ、あのぅ。何を数えているのかな、と思いまして。」

 「あんた、この仕事知らないのかい。見てれば大体分かるだろう。」

 「まぁ、分かると言えば分かります。車を数えているんですよね。」

 「そうだ。車を数えている。」

 面倒くさそうに答える彼は、そろそろどこの誰ともわからない私とは、離れたいようで、道具であるカウンターを片付けようとしていた。


 「交通量調査ってやつですよね。いや、あまりにもあなたのカウンターを押す動作がしなやかで、感心していたところなんです。」

 「こんなのは、どうってことはない、誰でもやっていることだ。あんた、変な事に関心があるんだな。」

 「そのたくさんあるカウンターは、車種で分けているんですか?」

 私は強引に会話を続けてみた。

 仕方ないな、という表情で、彼は私に向き直った。


 「ちょうど休憩時間だから、あんたの質問に答えてあげよう。これは、察しの通り車種別にカウントしている。車種は普通自動車、軽自動車、大型車両、バイク、自転車の五種類。難しいのは交差点の進入と進出がそれぞれ別々にカウントしないといけないってところだ。この交差点は東西南北になっている。東から進入した普通車がいたら、普通車・東・進入のカウント、こいつは、右折か左折か、直進かの三通りの行動をするわけだが、直進の場合は普通車・西・進出のカウントをする。五種類が東西南北、インとアウトがあるから、こんなにカウンターが必要になるわけだ。合計四十個だな。」


 そう。

 彼の操っていたカウンターの数は、尋常ではない数であった。四十個ものカウンターを、両手を駆使して打ち続ける。膨大な数の交通量のこの交差点で、こんな事ができるのは神業に等しかった。だからこそ、私は三十分もの間、彼の仕事を見続けられたのだ。


 驚くほどのスピードで打つ彼のその手と指の動きは、まるでピアニストがショパンを奏でるような華麗さであった。熊のような巨体からは似つかわしくない、繊細な指さばき。

 「いやあ、すごいもんです。これだけの数をさばくなんて、誰にでもできることじゃないです。」

 「悪いが、他の奴らとはレベルが違う。この調査ができるのは、俺くらいしかいないだろうな。」

 彼は少し得意気に言った。

 「確かにすごいスピードです。それに軽やかだ。ただ、これだけあると、間違ってしまうってことも、あるんじゃないですか?」

 「バカを言うな。何年もこれだけで食ってるんだ。俺のカウントは正確だ!」

 少し不機嫌になった彼に、私はさらに追い討ちをかける。


 「じゃあ、例えば、ほら、向こうからバスが来ましたけど、あのバスの向こう側に並走してバイクがいたら、どうします? バスに隠れて見えませんよね。」

 ふん! と、彼は、なんだそんな事か、と鼻を鳴らして答えた。

 「そういう場合でも、いくつか見分ける方法ってのがある。まぁ、本当にわずかの差を見分けなきゃならんが、他の奴らにはもちろん無理だ。だが、俺にはできる。」

 「どうやるんですか?」

 「まあ、何通りかの方法があるが、いくつか教えてやろう。今から言う方法の一つだったり、組み合わせたりして判断するんだ。」

 そう言うと、本格的に私に聞かせたくなったのか、どっかと座っていた椅子を私の方に向け直した。


 「いいか、まずは影だ。天気のいい日であれば、バスの影以外の影が見えることがある。それがちらっとでも見えたら、バスの向こうに何らかの車両がいる。次に、運転手だ。直進の場合は難しいが、曲がる場合は必ずサイドミラーを見る。その時の反応でバスの向こうに車両がいるか分かる。最後は音だ。バイクなら、音は分かりやすい。」

 「それにしても、わずかの差ですし、瞬時じゃないですか! よくその差が分かりますね。」

 「だから、言っただろう。俺にしかできないんたよ。これは!」

 そう言うと、そろそろ話は終わりだとでも言うように、座っていた折り畳み式の椅子をたたみ始めた。


 私は、今日彼に言うべき、最後の質問を投げ掛けた。

 「あなたのその能力は、こんなことに使っていたらもったいない。どうです? パンチャーかチェッカーになってみませんか?」

 「……」

 彼は唖然としていた。「なんだ? その、ぱんちゃかちぇっかってのは。」 


復路第六区:古賀義仁の場合


 (なんとか、最初の山は越えたようだな。)

 古賀義仁は、テレビの向こう、笑顔で報道陣を後にする朝倉康人を見ながら、自分の事のようにほっとしていた。いや、自分の事のよう、などと悠長に思ってはいけない。自分の事そのものなのだ。この雇用対策が国民に納得のいく成果を出さなければ、政権維持などとても望めない。この後の予算委で、ほぼ確実にこの件の質問が集中するはずだ。古賀は改めて気を引き締めた。


 古賀内閣の支持率は二十パーセントを切る勢いで落ち込んでいる。

 その原因はいくつかあるが、厚労省大臣の失言が一番の痛手だった。

 「もはや、年金システムに正しい数字を求めることはできない。」

 責任ある立場にありながらの、国民の不安を煽るこの無責任な発言に、国全体が激怒した。

 この失言対策に替わりの大臣を任命し、年金専任の担当大臣もつけた。だが、その程度では国民の不信感を拭うことはできず、信用回復には至らなかった。

 責任を取っての内閣総辞職、解散総選挙を野党は声高に訴えたが、なんとかそれは持ちこたえた。こうなっては、正真正銘、実のある政策を実施し、見事成果を出す必要がある。


 そこで、いくつかあった候補から、今回の改革案を選択した。関係者からは無謀と言われている。仮にJRを国営化に戻しても、どうやって、二十七万人の給与を維持するのか。この最大の国営企業を維持するために、国庫から支払われることになるだろう。つまりは税金だ。国民の我慢はどこまで耐えられるのだろうか。

 だが、それでもこの施策を続ければ、雇用は改善する。関連する民間企業にも仕事がまわる。仕事がまわれば、金が動く。金が流動すれば、景気は良くなる。

 効果が見えるようになるには時間がかかる。なんとしてもこれは成功させたい。政治生命をかけてでも。


 ドアがノックされた。長身でおだやかな雰囲気を醸し出す男。高林がそこに立っていた。

 「高林さん、ご苦労様でした。最高のテレビデビューとなりましたね。すでに高林さんは、日本を救うヒーローだ。」

 古賀は高林には心を許す。笑顔で高林を迎えた。

 「いや、今後はメディアは勘弁させていただきたい。私はやはり裏方が似合うようです。」

 笑顔で答える高林。慣れない場で緊張もあったようだが、よく切り抜けた。今は心からの安堵の表情だ。


 「古賀総理、例の国内主要各社への打診ですが、全社協力するとの回答をもらいました。これで、一斉に動き出す事ができます。まあ、どこも先行者利益を得られるという確約付きですから、多少の痛手は覚悟で協力することは目に見えていましたが。」

 「そうですか、ご苦労様です。さすが、高林さん。動きが早いですね。」

 「テレビで顔が割れました。今後は裏方仕事は控えたほうが良さそうです。正攻法でいきましょう。」

 「分かりました。今後は表の仕事に切り替えてください。」


 高林の表の顔は、内閣府景気対策特別顧問IT関連担当。民間から選抜されているメンバーの中でも、首相に一番近い位置にいる。今後はこの役割での露出が多くなるが、裏は裏で動かざるを得ないだろう。裏では大手企業との折衝が主な動きになる。

 これまでの高林の職歴と経験から考えれば、このポジションでの活動は、まさに打って付けと言っていいだろう。多くのベンダーをプロジェクト・マネージャーとして束ねてきた。今回は、規模は国レベルと巨大ではあるものの、根幹の考え方と動き方は、民間のそれと同じだ。いや、同じであるからこそ、国にとっては難しい。そこで、高林のような人材が表に裏に飛び回りながら、着々と必要な要素をつなぎ、埋め、回していく。この感覚の本当のところを熟知して動ける人材は、実は少ない。高林は恐らくは日本国内で言えば、稀有なプロジェクト・マネージャーの一人であると言える。


 「古賀総理、いよいよ、プロジェクトの事前準備に入ります。職員の募集と教育が、国民から見えるところでの最も大きな動きになりますが、それに付随した関連会社への働きかけとか、新たなビジネスの創出など、国がおおっぴらには動けないことも多数あります。」

 「分かっています。そのために高林さん、あなたを呼んだのです。」

 古賀は、高林の言わんとしているところを図りかねた。もはや多くの権限を高林には与えている。その権限をフルに使って、思うようにプロジェクトを動かしてもらっていい。


 「それで、私だけでは現場の指示が手薄になります。表の顔もありますしね。そこで、一人私の信頼する人間を参画させます。実力は私の折り紙つき。現場仕事は問題ない人間です。」


 (なんだ、そんなことか。)

 古賀は内心ほっとしていた。高林がこれから調整する相手には、経団連に名を連ねた民間企業のトップ以外に、政界にも何人ものキーマンがいる。もちろん、野党の議員とも話をする機会がある。そうした場で、高林の決意を揺るがす、根も葉もない噂をベースにした情報が耳に入ることもある。そうした情報に惑わされ、結果、決断の相談先を逐一自分に求められるのではないか。そんな疑念を持っていたのだが、今日のところはそれは杞憂だったようだ。


 「実動の人選は高林さんにお任せしますよ。うちのスタッフの目なんかより、ずっと確かですからね。」

 古賀は笑顔で高林の肩を叩いた。

 「今日もスケジュールはびっしりですよ。次回の打ち合わせは秘書と調整してください。それにしても、総理というのは、こんなに忙しい割に、物事は全然前に進まない。亀の歩みですよ。」


 一礼して立ち去る古賀。高林も一礼する。

 政府の決定の遅さは、確かに首相一人のせいではないだろう。だが、これほどまでに政治が混乱しているのは、古賀内閣自体の足並みの悪さにも一因がある。しっかり自分の党を、自分の派閥をまとめることができれば、こんなにも支持率が落ちるほどの状況にはならないはずだ。古賀自身それは分かっている。分かっているからこそ、この場で、高林と長く話すことは避けたい。こうした話に触れたくはないが、時間を取れば、当然、支持率であり、解散の可能性だったり、という話題になることもあるだろう。今、高林には、そんな後ろ向きな事を考えずに、プロジェクトを進めることに邁進してもらいたい。


 (俺も頑張るが、気を引き閉めて取り組んでくださいよ、高林さん。)

 心の中で応援しつつ、次の会議での流れも考えつつ、古賀は部屋を後にした。

 今、何としても自分の政権を支えなければならない。そうしなければ、雇用の改善など、はるか遠い未来の話になってしまう。今、この今が、自分の正念場なのだ。

 決意を秘めて、古賀は長い廊下を歩いて行った。


復路第七区:藤ノ木辰夫の場合


 「いやあ、最近の若い人ってのは、飲みこみが早いね。若いだけに。まあ、それでも昔の俺みたいな技ができるようになるには、まだまだ経験が必要だけどな。そりゃあ、俺もね。しばらく握ってないから、昔のようにリズミカルに切りつつも、定期の日付を確認するってのは、もうかなり難しいけれどね。まあ、コツはあるにはあるんだけど、こればっかりは口で言ってもわからんだろうねぇ。」

 藤ノ木辰夫は、そう言いながら右手に持っていた改札鋏をカチカチっとリズミカルに鳴らして見せた。しばらく持っていなかったのだろう。感触を確かめるように鋏をリズミカルに鳴らす。右に左に持ちかえながら、重さと鋏の感触を丹念に確かめる。


 藤ノ木は、昔は東武伊勢崎線に勤務していた。もう引退してからずいぶんになる。若い頃は、それこそ改札に立つと、一秒間に三人はこなすかと思えるくらいの早業で、次々と鋏を入れた、スーパー改札マンだった。その後、鋏に魅了され、鋏を製造する職人の道も歩んでいる変わり種だ。今回は国からの依頼で、JR職員育成の講師として参加している。


 「よく、そんなふうに楽器みたいに鳴らせますね。」

 私はなんとなく聞いてみた。もはや、実際に聞けるとは思っていなかった。幼少の頃に母親に連れられて電車に乗った際、ねだって自分でキップを持って駅員に渡した。キップを返してもらってその切られた跡を見るのが、なぜか好きだった。そんな記憶がおぼろげながらある。その際のリズミカルな鋏の音は、今も耳に残っている。そうだ、確かにこの音だった。


 改札鋏。自動改札機がほぼ百パーセント導入されてから、その姿を見ることはなくなった。キップを切るための鋏である。パンチとも呼ばれる。キップに鋏こんを残すために使われるのだが、一駅ごとにこの鋏こんが異なる。多くの改札鋏が手作りで、鋏こん部分の雄・雌となる対の部分は、同じ形になるように精巧に作られている。


 「手がね、覚えているんだよね。手が。だから、これも、こうやってこうやれば、こうできるんだってのが、言えないんだな。まあ、俺も先輩のを見ながら、見よう見まねだったしね。」


 リズミカルに音を出すこの動作は、「空打ち」と呼ばれる。リズムを取っているのだ。リズムを取らずに一枚一枚キップに鋏を入れるより、この空打ちをしたほうが、早いのだそうだ。

 ただ、やり過ぎると想像通り手首などに負担がかかる。駅によっては、空打ちを禁止にしたところもあったらしい。


 「簡単そうに見えるけど、けっこう難しいもんで、はじくポイントって言うのかな。ほら、人の指はみんな長さが違うだろ。だから、はじくポイントも人それぞれなんだよな。それは、自分自身でしか見つからないわけだ。こんなこと一つとっても、自分次第なんだよなあ。」


 私はこの藤ノ木の言葉にひどく感銘を受けた。これは、間違いなく仕事をするということになぞらえている。仕事では先人から教えられることももちろん多い。だが、教える側とて、口に出しては教えにくいことが山ほどあるのだ。それは、教わる側が自分で盗むしかない。見よう見まねで。


 「それで、与えられた研修期間も残り半分になりましたが、新人駅員たちはものになりますか?」

 私はざっくばらんに聞いてみた。

 「まあ、飲み込みが早いからね。なんとかなるとは思うけどね。」

 藤ノ木は改札鋏をテーブルに置き、腕組をして考え考え、言葉を探るように続けた。

 「もしかしたら、国は嫌がるかもしれないが、俺の見立てでは、あと一ヶ月は期間を延ばさないと、一人前の仕事はできないと思う。まあ、あくまで、俺の感覚でしかないが。」

 「その、一人前にできるのか、できないのか、は、どうやって評価するのですか?」

 「これだよ、これ。」言いながら再び改札鋏を手にする。

 「これをいかにリズミカルに鳴らせるか? だよ。」


 改札鋏。一人前の改札マンになれるかどうかの一つのモノサシ。

 仕事を自ら見て身につける。その昔は誰もがそうしていたのだが。こんな精神的な心構えさえも、マニュアル時代となった今、忘れ去られている。

 取り戻せるのか? 現代の若者たちよ。


復路第八区:真田徹の場合


 「いやあ、驚くべき経済効果ですよ。これほどの関連ビジネスが立ち上がったのも予想外ですが、想像以上にグローバルな効果も出ています。これも、予想外でした!」

 少々興奮ぎみに真田徹はまくし立てていた。


 会場のホールは、JR幹部や国会議員たちで埋めつくされている。もちろん、この施策の立役者である高林も、そして「最悪の英断」を下した古賀総理も会場に来ていた。関係者がこの世紀のプロジェクトの全体像を掴みたいと欲している。


 なぜ、日本は三度立ち上がったのか? なぜ! ここまでの回復を可能としたのか?

 すべては、全体を俯瞰して管理することのできた、真田の目を通して語られなければ、真実はわからない。

 誰もが、真田の言葉を求めていた。その期待が感じられるからこそ、真田の興奮と緊張につながるのだ。


 「二〇〇五年以降、日本人の嗜好は、個人主義の時代にいました。それまでの大量生産のスタイルはもはや通用せず、多種多様の商品群を求められ、これに対応してきた、製造、流通、小売業は、徐々に自らの首を絞めていきました。作れば作るほど、売れば売るほど、個別対応を進めなければならないからです。そして二〇一五年、それがピークになります。耐えきれない中小企業からバタバタとドミノ倒しのように、倒れていく。そんなときに、鉄道の再国営化が動きだし、その一つの施策である、自動改札機全撤去、有人改札の復活が、実施されていきました。」

 一気にしゃべる真田。真田の熱意は、観客の隅々にまで伝わっている。熱気かオーラか、定かではない異様な温度が、会場中に充満している。


 「ここで、主だったビジネス例を見てみましょう。そしてそこから派生したイベントについても。」


・鉄道趣味の層を対象にした、改札セットなどの玩具。

・キップコレクター達の復活、若年層を中心とした新たなコレクターたちの創出、コレクター達のキップ購入行脚による、旅客売上の増大。

・プレミア駅及びプレミアキップの発生、プレミア駅近辺の飲食店、テナント、イベント等新たな客層の増大。

・キップコレクターたちの海外からの訪問(ネットによる情報伝播、グローバルにブレイク)

・電車、キップ、改札などをモチーフにしたヒーロー番組。キャラクターの爆発的な大ヒット。関連商品のヒット。映画など興行収入の増加。

・定型のキップ以外のオリジナルキップの作成。ギフト。

・イケメン改札マングループ、芸能界進出。鋏で奏でるラップのリズムで大ブレイク。全国の駅がコンサート会場に。

・人が集まれば商業施設も多く設立。飲食店、ホテル、スパ、映画館、美容室、イベント会場などなど。

・ターミナル駅は巨大なアメージメントパークに。

・キップの切り込みだけで!どの駅かを当てるなど、鉄道カルトQが、大流行。

・鉄道を使った旅行番組、旅行パック、ぶらり各駅停車の旅、旅行グッズが売れに売れる。


 真田が取り上げたイベントは、どれもこれもが日本を立て直す原動力となっていた。

 「お分かりでしょうか。たった一つのアイデアが無数に広がっていく様を感じ取れるでしょうか。最初のアイデアから別のアイデアが産まれ、そこからさらに別のアイデアが産まれ…… 多くの人々の知恵と行動が、今、まさに結実しようとしています!」


 日本は少しだけ回復傾向が見えるようになってきた。

 施策はトリガーだ。本当に効果を出したのは、施策を現実化し、そこに人々を参画させ、ビジネスを産み出し、継続することができた、その力そのものが日本を変えたのだ。

 関わった多くの人々の日々の働きが、ここまでの日本を支えている。

 真田は、それを訴えたかったのだ。


 「まだまだ、日本は捨てたもんじゃない。こうして、立ち上がることができるのです! 今一度、ジャパン イズ ナンバーワンを勝ち取ることができるのです!」

 会場から大きな拍手が沸き起こった。満足そうな笑顔の真田。壇上に古賀総理が上がり握手を交わす。笑顔と笑顔の素晴らしい講演会となった。


給水ポイント2:アイドル改札マンユニット


 チャッ、チャッ、チャッ、チャッ……

 昼下がりの品川駅改札。

 いつもの時間。すでに、この地域ではお馴染みの光景となってきた。この音が鳴り出すと、どこからともなく人だかりができていく。そして、集まった人だかりに、通行人も加わり、辺りはちょっとしたイベント会場へと模様替えしていく。ラッシュアワーでもないのに、品川駅中央改札前は、我先に彼らを観ようと息巻く人々でごった返す。


 その音に合わせるように、手拍子が沸き起こる。音と手拍子が最高潮に達すると、待ちわびたこのグループ。颯爽と改札へと走ってくる。

 途端に喚声と、悲鳴にも似た絶叫で周辺がエキサイトする。その空気のまま、今、大人気のこのイケメンアイドルユニット、「品川トレインボーイズ」たちが、改札に立ち、唄い踊る!


 ここ数ヶ月の間に、現役の若手駅員が改札で歌って踊るという、それまでであれば絶対にあり得ない光景が急増した。無人改札が当たり前だった時代から見たら、ただのゲートに人が殺到するとは、一体何事だと思うだろう。

 アイドルたちは、一駅に一組はいる、というくらいに、今やその人気は急上昇だ。中でも、この「品川トレインボーイズ」は、その集客力では他のグループを圧倒していた。品川駅そのものの地の利もある。東西に広くとられた通路に、幅広い改札口。新幹線停車駅でありながら、新幹線改札からも非常に近い。短時間に人が集まるには格好のスペースと距離を持つこの駅は、今のところ他の駅のユニットの追随を許さない。


 観客の中に、見覚えのある顔を見つけた。私は、人混みを縫うようにかき分け、彼に近づいた。やはりそうだ。「池袋サイキョースターズ」の、椎名拓哉だ。


 「やあ、久しぶり。」

 私はようやくの思いで彼の近くまで行き、肩を叩いて挨拶した。

 「あ、お久しぶりです。」

 彼は少し気恥ずかしそうに微笑んだ。やはり、ライバルユニットのステージを見ているところで会うのは、居心地が悪いのだろう。

 「ちょっと、コーヒーでも飲もうか。そこのスタバで。」


 「あいつら、恵まれてますよね。僕らだってこの駅くらい、収容人数があれば、一位も夢じゃないんだ。」

 確かに池袋駅は地の利が悪い。乗客の導線を分散させ、東と西の西武と東武に客を誘導するように、至るところに改札がある。この駅だと、改札一ヶ所での公演では人の数が限定される。例えば南改札で歌っていても、北口ではまったくわからない。ましてや、東口の「いけふくろうの像」で待ち合わせしているカップルにも気づいてもらえない。逆に北改札で公演を行っても、メトロポリタン側には届かない。広いスペースを確保したマンモスターミナル駅であるがために、一か所での活動が逆に制限されてしまうのだ。結果的に何回も公演をしなければいけなくなる。

 品川に負けないくらいの乗降客数だが、このイケメンアイドル達には、ちょっと難儀のようだ。


 改札マンユニットには、その活動に、ある制限というか、ルールがある。

 「必ず、イベントや公演は、駅の改札(周辺含む)で行うこと。」

 武道館や、東京ドームではだめなのだ。「駅」という場所に人を集めてこその、改札マンアイドルなのだ。そのため、どの駅のお抱えのユニットに入るかで、この世界でどこまで上に上がれるかが、自ずと決まってくる。品川駅はもちろんだが、池袋駅もそれほど悪いわけでもない。やりようによっては、いくらでもトップを狙える。私はそう感じていた。


 「実は・・・渋谷駅の方から、来ないかって誘われているんです。」

 「ええ! 渋谷だって。確かに、あの駅も、ターミナル駅だけど…… ちょっと改札の数とスペースが、池袋よりも劣るんじゃないかな。」

 私は素直に感想を言った。渋谷駅には、すでに何組かのユニットがある。駅改札の狭さもあって、二人組や三人組がやっとだ。ソロのシンガーもいるにはいる。だが、昨今のJpopは、グループ流行りだ。グループで活動して、人気が出たらいくらでもソロ活動ができるし、グループだからこそ、イベントも活況なのだ。椎名拓也はまだ無名のほうだ。今の彼には、「池袋サイキョースターズ」で地力を蓄えたほうが良いように思えた。


 「そうなんですが、ただ渋谷駅でもトップのユニット、「渋谷ビタービレッジ」からの誘いなんです。ちょっと悩ましいですよね。」

 「そうかぁ、「ビタービレッジ」なら、悪くはないね。」

 「渋谷ビタービレッジ」は、JRだけではなく、東急東横線、東京メトロ半蔵門線、井の頭線の各社が集まった合同ユニットだ。そのため、渋谷界隈の各社の駅改札全てをコンサート会場にできるのだ。東横線正面口ならかなりの集客が見込める。さらに、渋谷は若者の街でありつつ、ヒカリエなどの商業施設も充実していて、OLや会社員、主婦層も足を運ぶ。副都心線、銀座線、田園都市線も乗り入れていて、地方からの交通の便もいい。


 「そうですよね。悪くないですよね。今日の品川の奴ら、見てくださいよ、この観客。正直、うらやましいです。」

 「そうか。最後は、君が決めることだから、私からは何も言えないけど、最後に後悔しない選択をしてほしいな。」


 中央改札のほうで、また歓声があがった。最高潮の舞台になっているようだ。盛り上がっている。


 世の中がすべてこのユニット達に浮かれているかと言うと、そうではない。

 察しがつく通り、イケメン達が歌って踊っている最中、改札機能はストップする。これでは、彼らに全く興味のない普通の通行人にとっては、非常に迷惑だ。一応、公演が始まっても、最低一改札は普通に業務をすること、という規定がある。あるにはあるのだが、人がこれだけ集まってしまうと、そもそも開いている改札にたどり着けない。結局、別の口の改札に遠回りして行くことになるのだ。


 そうしたことが、クレームやいざこざに発展する。遠目で中央改札を見てみると、案の定、改札の端のほうで、なにやらもめている。足の悪いおじいさんが改札を通りたいのに、向こうに廻れと言われているようだ。これでは、おじいさんも怒るわけだ。


 『ちょっと待って。皆さん少しだけ詰めて改札通れるようにしてください。皆さんご協力お願いします。』

 『お願いします!』


 マイクを使って「品川トレインボーイズ」のメンバーが呼び掛ける。それに呼応するように、観客が少しずつ移動し、改札が通れるようになった。おじいさんは、少し気恥ずかしそうに照れ笑いをしながら、改札を通っていく。


 『ありがとう! みんな、協力ありがとう! おじいちゃん! ごめんね。ありがとね。』

 さすがは、彼らも駅員の端くれだ。歌って踊るだけではなく、ちゃんと客の様子を見ている。これもプロの仕事の一つと言えるだろう。


 「ああいうところも、ちゃんとできるから、人気があるんだろうね。」

 私はなんとはなしに、呟いた。椎名拓哉はその光景を見ながら、決意を新たにしたようだ。

 「僕も、いつか彼らを越えてみせる。」


 それから数日後、椎名拓哉は「渋谷ビタービレッジ」に移籍した。電撃だが、それほどのニュース性はなく、エンタメニュースで一言報道されただけだった。


 時代は後から後から、新しいヒーローを作る。その一方で、人知れず消えていくヒーローたちが、驚くほど沢山いる。椎名拓哉が今後どうなるか。それは誰にもわからない。


復路第九区:織戸早苗の場合


 織戸早苗。五十八歳。

 JRの国営化に伴い、職員サポート業務の公募に応募。見事に採用され、駅構内の様々な業務に精力的に関わっている。掃除や点検、物資の補給など、やることはたくさんある。彼女は周りの同僚にハッパをかけながら、実に楽しそうに見事に仕事をこなす。

 「探せば仕事なんていくらでもあるの。ただ、気づかなかったり、気づいてもやらなかったり。やっぱり、気づいたらやらないとね。みんなで助け合ってね。」


 彼女の夫は、この不況でリストラされた。今まで職探しをしていたが、今回の駅員募集に応募し、見事に採用された。今は研修中だという。馴れない鋏を鳴らすには、あと数ヵ月はかかりそうだ。それでも、仕事がないよりよっぽどいい、彼女はそう言う。

 「なんだか、毎日、疲れた〜って帰ってくるのよ。あたしも疲れてるって。あんた、研修中の身分で給料雀の涙でしよ! 泣き言言わずにがんばんなさい! って、言ってるのよ。まあ、やったことないから仕方ないけどね。仕事をもらえるだけましなのよ。」


 結局、国営JRは、三十二万人の採用をした。関連会社も波及効果で潤ってきたからだ。公共事業の枠で捉えると、成功したほうだと言えるだろう。

 彼女の夫は、来月にも、改札デビューだそうだ。久しぶりの仕事で、少々緊張しているらしい。

 「まったく、いい歳して何緊張してるのかしらね。仕事してなんぼなんだからねぇ。」

 言いながらも、彼女は夫の改札デビューの日には、こっそりその駅まで見に行くつもりだ。夫の第二の人生の門出を、一瞬でも一緒に過ごし、祝いたいのだ。その日の夕食は、久しぶりに二人で外食しようと決めている。


 改札マンは、キップを切る「パンチャー」と定期券をチェックする「チェッカー」に分かれる。難易度はチェッカーのほうが、はるかに高い。

 ある一定距離から定期券の数字や文字を読める視力、数字や文字が反対でも正しく解釈できる文字判別力、一部の数字や文字が指などで隠されても判読できる文字推定力。

 この三つの能力は最低必要と言われている。

 さらに、不正な定期券を発見した場合、お客に不快に思われない声のかけかた、腕などを握らずに体で進路をふさぎ、確認をする瞬発力、そうした身体的な鍛練ももちろんのこと、お客の動作、仕草、言動などから真偽を判断するために、心理学なども学ぶ。チェッカーは、圧倒的に学ぶことと自己鍛練が必要になるのだ。


 彼女の夫は、鋏の扱いは苦手だが、視力が良かった。おまけに体格が良く俊敏さもあった。

 それで、多少年齢のハンデもあったが、チェッカーに志願した。それが良かった。彼はチェッカー向きだったらしく、なんとか人並みに改札デビューできることになったのだ。それが、また、彼女にとっては嬉しかったらしい。


 イケメン改札マンユニットは、CDデビューを果たした。発売一週間で、オリコン一位!

 若手のイケメン改札マン十名で構成される新ユニット、「東京ハイカラボーイズ」が人気沸騰だ。改札鋏をチャンチャンチャチャンチャンチャチャチャンチャン! と、鳴らしながら歌い踊る。デビュー曲は、何回目のリメイクだろうか、「チューチュートレイン」。まさに、鉄道から生まれたアイドルにふさわしい選曲だった。

 その、「東京ハイカラボーイズ」が、アイドルが出る歌番組に初めて生出演している。テレビの向こうは女の子の声援でいっぱいだ。


 それを見ながら、私は織戸さんに聞いた。

 「もう少し若かったら、旦那さんにもチャンスがあったかもしれませんね。そうしたら、どうしますか。」

 「そんなことは考えたこともないわよ。若くてもあんな不細工じゃ無理無理。」

 そう言う彼女だが、たとえあり得ない話だとしても想像することが楽しいらしい。ひと際、彼女の若い頃のアイドル、松田聖子やSMAPなどの話題になって盛り上がった。


 時代は少しずつだが、回復傾向にあるように感じた。もう少ししたら春が見えて来るような気がする。人々の心にも、ほんの少しばかりの余裕が出てきているのか、笑顔の場面が増えている。


 私は、ようやくこの日本が良い方向への一歩を踏み出したのではないか、と、漠然と感じていた。その踏み出した一歩が、さらに早足になってくれ!  と祈る。笑いと喜びの絶えない、日々の小さな出来事に幸せを感じられる、そんな世の中になってくれ!


 織戸家を出た私は、なぜか軽くなった体をもてあまし、全力で駅に向かって駆け出した。髪を、頬すじを、空気がすり抜けていく。夕方の風が心地良かった。


給水ポイント3:余裕があるように・・・


 「そうですね。以前に比べたらすごく活気が出てきた感じです。お客さんも増えてきてるし。」

 私の前のテーブルを布巾で拭きながら、そう答えるのは、この店でアルバイトを始めて、もう三年目になるという大学生、飯野香さんだ。彼女は一通り拭き終わると、水とおしぼりをテーブルに置いた。


 「ご注文は何にします?」

 今時のカフェは、入口のカウンターで注文し、商品を受け取ってから席に行くものだが、ここは昔ながらの喫茶店という雰囲気を色濃く残していた。昭和の感覚とでもいうのだろうか。私は一人その懐かしさを堪能していた。

 「そうだなぁ。朝飯まだだった。モーニングをお願いできるかな。」

 「モーニングですね。かしこまりました。」


 ここは、埼玉県の東部にある駅。都心からは一時間弱といった距離にある。埼玉県の縦と横の線をつなぐ、行ってみればターミナル駅である。

 朝と夕方のピーク時には改札に人が殺到する。自動改札機が撤去されてから、その混みようは拍車がかかった。ひどいときには、乗り換えに二十分もかかるという。


 乗り換えの改札の脇にある、この小さなカフェは、カウンターと二人用テーブルが五つ。今、私が座っている席からは、改札の出入りの様子がよく見える。朝のピークが収まったとはいうものの、それでも電車が到着するたびに、改札は結構な長さの行列を作る。毎朝この改札を使う人には、たまらないストレスなのではなかろうか。


 「お待たせしました。モーニングです。コーヒーの砂糖とミルク、こちらをお使いください。」

 ミルクポットでミルクを出す。これもまた、なんとなく懐かしさを感じる。

 「お客さん、増えたんだ。やっぱり、自動改札機がなくなった影響?」

 「さあ、私にははっきりしたことはわからないですけど、そうじゃないかって、店長は言ってました。」

 「そう。でも、なんでだと思う?」

 「さあ…… たぶん、どうせ待つならゆっくり行こうと思う人もいるってことでしょうか。ここで朝食を摂る人は増えましたし。そういう人たちはなんとなく余裕があるように見えて、いいですよね。」

 「そう、余裕があるように見える……、か。」

 「あ、あくまでも、私がそう思っただけで、本当のところは分からないですよ。」

 私は彼女の言ったセリフを、メモに記した。「余裕があるように見える」か。


 自動改札機が全国から撤去されて、改札は恐ろしく混むようになった。当たり前だ。いくら人を揃えても、機械のスピードには到底かなわない。最初の頃は暴動でも起こるのかというくらい、どの駅も殺気だっていた。それがどうだ、撤去されて三ヶ月になろうかという今、みな、これはこれでうまく順応している。

 これが、彼女の言葉を借りて言うなら、「余裕があるように見える」ということなのだろう。


 実際のところは分からない。しかし、確かに電車の発着だけ見ても、世の中はかなりスローペースになった。改札で人がはけないのだ。そのため、駅のホームには人がたまる。はけきらないうちに電車が到着するのを避け、間隔を開けるようにダイヤが調整された。結果的に時刻表の過密な発着はなくなった。

 その他にも、エレベーターやエスカレーターの速度もスローダウンしたし、そうしたスローダウンが、人々の生活スタイルに影響を与え、余裕があるように見えているのかもしれない。


「ゆとり教育」が提唱された時、その頃の教育を受けた子供達の学力が極端に落ち、文部科学省は慌てて「ゆとり教育」をやめた。「ゆとり」時代を生きた子供達は、割に合わない、はずれくじを引いてしまったような虚しさを感じたかもしれない。しかし本当に損をしてしまったのだろうか。学力に本当にそれほどの大きな差ができてしまったのだろうか。

 自動改札機が世の中からなくなって、人々は時間を意識するようになった。電車を降りても改札を抜けるまでに時間がかかる。だから早め早めの行動をする人達が増えた。だが早めに行動したとしても、詰まるものは詰まる。結局、改札は時間がかかるものだと、多くの人がその事実を受けとめた。図らずも、大人たちに「ゆとり」とは何かを考える機会が訪れたと言っていい。列に並ぶというのは、「ゆとり」がなければ平穏ではいられない。この「ゆとり」の時間をどう捉えるか。どう使うか。

 

 その一つの答えが、「列が空くまでカフェでお茶を飲む」であってもいい。人それぞれが思い思いに時間の使い方を考える。

 自動改札機と引き換えに、人々は、そんな大事なことに、知らず知らずのうちに気づかされた。「もっとゆっくり生きたっていいじゃないか」、と。


復路第十区:金谷利彦の場合


 パンチャーと違い、チェッカーは、二つの改札を見ることができる。もちろん、はるかに厳しい訓練を受けなければ、その領域に達することは難しいが、それでも、全国にいる約十二万人のチェッカーの中には、そうした強者たちがいる。さらに二つの改札を同時に見れるスキルを、ダブル・スコープという。


 いつの頃からか、このチェッカーの仕事がスポーツ競技になった。発端は、チェッカーを育成するシミュレーターが現れてからだ。シミュレーターの機能も性能も格段にアップし、今では一分間に百人を越える乗客を出現させることが可能だ。

 本物の改札と同じ筐体に、前方にニ百インチのモニター。そこに乗客が映し出され、改札にやって来る。キップや定期券が入り混じる中、チェッカーが狙うのは定期券の乗客だ。定期券の見せ方も本物の人間同様に様々で、きちんと見せる映像もあれば、手や指で文字の一部が見えなかったり、あるいは逆さまに提示されたり、また、あからさまに隠していたり、サッと見せてすぐに引っ込めたりと、とにかく、本物の集団そのままにランダムに次から次へと出現する。特にあからさまに見せないような場合は、該当客だけを指定タッチし、上がったバーを客に見立てて制止する、という動作も必要になる。


 そうしたシミュレーターで訓練を受けてきた強者たちが、仕事の枠を大幅に越え、様々な職種・分野から競技に参加するようになった。

 チェッカー競技は動体視力と瞬発力が備わっていると非常に有利だ。その為、元ボクサーや元Jリーガー、元大リーグのピッチャーといった、スポーツ選手の参画が多い。さらには、カルタ取りの日本一、DS脳トレのチャンピオン、太鼓の達人といった変わり種もいる。

 そうした数々の強者が集まるチェッカーという職業は、そこから派生して、いつしか完全なプロスポーツとなった。この競技専門の競技場も完備され、テレビ中継までされるようになった。


 「まさかね、こんなスポーツが流行るようになるとは思っていなかったですよ。」

 そう言うのは、シミュレーターを開発している金谷利彦(二十五歳)だ。若いがシミュレーターを含めたシステム開発歴は十年。根っからのプログラマーだ。

 「うーん、プログラムは難しくはないですよ。むしろ、単調なほうかなぁ。難しいのは、タイミングの作り方というか。ランダム関数とか使って出現率をランダムにすることもできるけど、それだと、こちらの思ったように自由な難易度を作れないでしょ。だから、そこの制御は今回のこのシミュレーターではオリジナルなものを開発しました。そこだけは、開発にも時間をかけたかな。それでも、そんなに難しくはないですけどね。僕の手にかかれば、大抵のものは実装できますよ。作れないものはないんじゃないかな。」


 この年頃のプログラマーに特有の、自信過剰さを如実に表しながら、本人には全くもって自覚がない。そこが最後まで打ち解け合えない最大の理由なのだが、やはりこうした人の常で、自分を理解できないほうが悪いと決めてかかる。

 私のようなライターかぶれは、彼らにとってはドシロウトであり、詳しい技術の話をするに値しない人種だが、それでも熱心に聴く姿勢を見せると、やはり気持ちがいいのか、自然と自分から話をする。


 「今度の最新のシミュレーターはね、これはもう、人間の限界を遥かに越えてる。一分間に、三百人。毎秒五人のスピードは、もう無理でしょ。人間技では。ダブル・スコープだと、六百人。そんな高速でチェックできるやつがいたら、お目にかかりたいもんですよ。」

 余程の自信だが、それもそのはずで、今のところ世界記録は一分間に二百五十前後が最高だ。最新式シミュレーターは、はるかにその記録の上を行く。


 金谷はひとしきり、シミュレーターの一般的な機能の解説をすると、そろそろ仕事だからと、自分からインタビューを終わりにした。

 チェッカー・シミュレーター開発のスーパープログラマーは、デジタルの世界に戻っていった。奥の部屋から、高速でキーボードをたたく音だけが響いていた。


 こうした彼らのような、ある種世の中に溶け込むことが困難と思われるような技術者により、このチェッカー競技は成り立っている。彼らの作りだすシミュレーターがあるからこそ、エキサイティングなゲームが見られることになるのだ。


 シミュレーターは、実は金谷のところだけが製作しているわけではない。世界中に、五社程度のブランドがあるが、それぞれ若干の癖を持っている。メーカーの差というよりは、メイン・プログラマの色が出ている、と言ってもいいだろう。例えば金谷の作るシミュレーターは、とにかく乗客の数が多い。もはや現実には存在不可能と思われる距離感で、次から次へと乗客が現れる。金谷以外のものも、それぞれ個性がある。乗客数はそれほどでもないが、定期券の判別が難しいタイプや、キップ乗客との比率が読みにくく、なかなか定期券乗客が現れないタイプなど、個性がある。

 どのようなシミュレーターが登場しても、チェッカーはそれに対応しなければならない。改札業務とはそういうものだからだ。


 「お、まだいたの? もう何も話さないよ。」

 金谷が再び現れて行った。「せめて最新作の何かヒントを……」私はダメ元で聞いてみた。

 「だから、さっきも言ったけどさ。一分間に三百人。この情報だけでも凄い価値はあるだろ。君にしか話してないんだ。スクープものだろう。」

 不機嫌な顔で金谷は答えた。「では、定期出現比率は、これまでの機種と変わらないと思っていいですね。」

 私は敢えて、彼の琴線に触れるように挑発した。これまでの機種と同じだという評価が、彼らにとっては著しく心地悪い事を知っている。

「……その手には乗らないよ。だけど、もちろんそこも改善している。難易度ははるかに上がっている。想像以上だよ。もう言わないよ。」

 本当は、もっと言いたいネタを持っているのだろうが、そこは守秘義務をきっちり守っている。金谷は切れ者だ。琴線に触れても取り乱したりはしない。


 チェッカー競技の裏側で、こうしたコンピュータの世界の格闘と進歩が続いている。彼らもまた、チェッカーと同じようにアスリートの精神であると思う。

 『アスリートの精神を受け継ぎ、継続し、そして全うした者だけが、次のステップに踏み込んで行けるのだ。金谷氏のシミュレータ開発にかける熱意から、すでに次のステップに視点を移していることを感じる。そうした向上心と不屈の闘志がなければ、この世界は生き残れないのかもしれない。それが、アスリート精神につながるものなのだ。』

 最後の行はこう締めくくり、私は筆を置いた。


決戦前夜:ゲートキーパー選手権


 今日はどうも、両腕のだるさが残る。昨晩の筋トレの疲れが残っているのかもしれない。まだ、疲れともだるさとも言えない、なんとも言えない違和感が両腕で訴えている。

 その違和感を打ち払うかのように、私は腕をぶんぶんと振りながら、ストレッチをする。違和感の元は取れないまでも、なんとか普通にプレイできるまでには回復したい。そんなことが、焦りにつながっている。決していつも通りではないのは確かだ。


 二〇二〇年。人々の間では新たなスポーツが熱狂的に支持されていた。

 「ゲートキーパー」。それまで誰もが、これがスポーツになるとは思っていなかった。そもそも、この日本にこうした職業があった事さえ忘れ去られていた。

 「ゲートキーパー」とは後から名付けられた用語で、改札の駅員を差す。自動改札機の普及で、改札鋏を使ったキップ切りの技術は衰退し、絶滅したかと思われていた。しかし、昨今のJR再国営化の流れで有人改札が復活。新たに十五万人以上の国営JR職員が改札に立つことになると、いつしか「ゲートキーパー」と呼ばれるようになった。ゲートキーパーは、短時間にどれだけの人数の乗降客のキップに鋏を入れられるかを競うようになり、その勝負があちこちで開催されるようになった。

 競技人口の多さから、瞬く間に多くのファンに支持されるようになり、景気の加速化を狙った政府は、正式なスポーツとして認定。職業の枠を越え、プロスポーツとして認知されるようになった。


 実際の人間を相手にキップを切るのでは、客側のスピードにも限界があることと、公平性が保たれないという理由から、3D映像を使ったホログラフィーで、乗客を投影し、そこに映し出されるキップを、映像に対応した特殊な改札鋏で鋏を入れる。このような競技に進化できたのも、技術革新のなせる技である。


「ゲートキーパー」には、二種類のポジションがある。「パンチャー」と「チェッカー」である。「パンチャー」はキップに鋏をいれる。「チェッカー」は定期券をチェックする。両方を競う競技もあるが、最近は別々の競技として実施されることが多い。どちらも、醍醐味はスピードだ。もはや、考えられないスピードで、キップを切ったり定期券をチェックしたりする様は、神がかっている。


 私は「パンチャー」だ。

 たった五分間の間に、千人以上のキップに鋏を入れることができる。しかも、私の場合は「ダブル・スコープ」。いわゆる、二丁拳銃だ。二つの鋏を駆使して客をさばく。こと、この競技においては、二丁拳銃でないと記録は出ない。多くのライバルがすでにダブル・スコープとなっている今、新たな技を取り入れないと、記録アップは望めない。


 私の専門は、「ショート・パンチャー」。陸上競技で言えば、短距離走に似ている。決められた時間(競技標準時間は五分)内に、どれだけの人数のキップを切るか。競技時間は一分、十分もあるが、五分が一番エキサイトする。

 他に、いわゆる、長距離走の「ロング・パンチャー」、一時間以上ひたすらキップを切り続ける。

 定期券の乗客も混ざる「ミックス・パンチャー」、これは障害物競争と言って良いだろう。

 パンチャー二人がチームを組む、「ダブルス・パンチャー」、パンチャーとチェッカーでダブルスを組む、「ミックス・ダブルス」。

 極めつけは、駅対抗で十名以上のチームで実施する、「チーム・パフォーム」。接客能力も加点されるため、難易度は遥かに高い。


 私の種目は極めてシンプルだ。五分間に何人切るか。これが求められるパフォーマンスだ。


 だから、死ぬほど瞬発力と持久力を鍛える。大事なのは俊敏さ。パンチャー特有の握力も必要だ。


 明日は、いよいよ決戦。私にとっては最後の大会になる。最後は、有終の美を飾りたい。

 腕の違和感を確認しつつ、私はここまでの歩みを遡って思い出していた。


 五年前。国営JR職員になりたての私は、通常の研修を終え、帰宅の途に着こうとしていた。慣れない業務と研修の毎日で、ほとほと疲れきっていた。それでも、なんとか頑張って続けていたのは、他に仕事がないからだ。史上最悪の不況のなかで、私のような何の取り柄もない男が、仕事にありつけただけでもラッキーなことだ。どんなに日々が辛くても、ここでこの仕事を手放すことはできなかった。


 そうして、疲れきったまま最寄り駅から自宅までの道をふらふらと歩いていると、すっと私の近くに寄ってきて話しかけてくる男。

 「あ、あなた、もしかしたらJR職員?」

 「そ、そうですけど、何かご用ですか?」

 「いやね、その指のまめとか怪我がちょっと気になって。」

 「あぁ、これですか。改札鋏の練習で怪我したんですが、なに、別に大したことありません。」

 「……そうですか。ちらっと拝見したところでは、なかなかいい筋している。もし、興味があれば一度来てください。あなたが必要としている技術のジムをしています。」

 彼は一枚の名刺を取りだし、私に手渡した。

 「来るか来ないかはあなたの自由。だが、来れば悪いようにはしない。」

 そう言うと、彼は細い路地の向こうに消えていった。

 「あ、ちょっと……」私はすぐに後を追ったが見失ってしまった。

 名刺には、『ゲートキーパー養成ジム』とある。彼はこのジムの経営をしているようだ。名前は『丹下団吉』。場所は私の家から五分とかからない。

 (暇があったら、行ってみるか。とにかく疲れた。)

 私は名刺をポケットに入れ、自宅へと歩き出した。


 その後、その名刺のことは、すっかり忘れ、私は来る日も来る日も同じような日々を送っていた。

 いつものように最寄り駅から自宅までの道。交差点を信号待ちしていると、目の前を暴走車両が一台。その車は交差点で対向車も確認せずに強引に右折。対向車はすんでのところで急停車するが、ちょうどそこに自転車で横断歩道を横断していた小学生に遭遇。

 これは、もう確実に暴走車両に轢かれたか?! と、誰もが天を仰いだその時、一人の男が小学生を小脇にかかえ、迫り来る暴走車のボンネットに片手をついて、自分は小学生を抱えたままの姿勢で、ボンネットを滑るように飛び越えたかと思うと、まるで宙をなだらかに滑るように着地した。その、あまりの華麗な体さばきに、一瞬高等なCGでも見ているような、あまりにもゆっくりとした光景。

 男が着地したと同時に、時の刻みは戻り、暴走車は一瞬の目眩ましにハンドル操作を誤り、路肩の植え込みに突っ込み止まった。

 周囲にいた通行人たちの拍手が沸き起こり、小学生は男にお礼を言って無事に帰っていった。

 しばらくすると、警察もやって来て、暴走車両の運転手を現行犯逮捕。一時騒然となった現場だが、警察の到着で落ち着きを取り戻した。


 男はつかつかと私に近寄ってくる。

 「覚えていてくれたかな?」

 「覚えていたも何も、いったいあんたは何者なんだ!」

 「君は強くなりたくはないか?! 誰よりも!」

 「そ、それは、なりたいです。」

 「そうだろう? だったら、私の道場に来い!」

 「道場?」

 「私が、一人前の改札拳士にしてみせよう。」

 「改札拳士?」

 「修行を積めば、それが何者か、わかってくる。」


 私は半信半疑だったが、彼の申し出を受けることにした。


 そして、数々の苦しい修行を積んだ末、私は今、この最高の舞台に立っている。


ラストラン!


 ついにこの日がやってきた。

 何の因果か私は最高レベルの「パンチャー」になっていた。「チェッカー」という選択肢もあったが、どうやら私は生粋の「パンチャー」向きだったらしい。練習すればするほど、修行を積めば積むほど、パンチャーとしての素質が開花され、スコアも伸び、いつしか国内トップクラスのパンチャーにのし上がっていた。


 私の場合は、ゲームの経験が活きている。

 「太鼓の達人」というゲームが、昔一世を風靡したが、その時もかなりいいセンまで行った。あのゲームはリズムとスピードが大事だ。感覚を掴むと、かなりの高スコアを叩きだせるが、その分、練習は過酷だ。


 今回もパンチャーに求められる要素には、リズムとスピードがある。過去の経験を活かして練習を積んだ。正直、「太鼓の達人」に比べれは、パンチャーに求められるスピードは遅い。シミュレーターの設定を最大にしたところで、たかが知れている。そのくらい遅い。ただし、動体視力は最高を求められる。高速で繰り出されるキップや定期券は、もはや高速過ぎて上下逆さまなのかどうかさえ、一般人にはわからない。そうした高速の世界でパンチャーは生きているのだ。


 いよいよ、次は私の番だ。

 この日のために、過酷すぎるほどのトレーニングを積んできた。どんな結果になろうとも、後悔はしない。やるだけのことはやった。


「マシンナンバー4! ジャパン! ジョー・アシタバー!!」


 私の名前が告げられた。スタジアムは満員の観客。それが、一際大きな歓声で出迎えてくれる。

 私は、位置についた。両隣のマシンの選手の鼓動を感じる。緊張が最大限に高まる瞬間だ。


 決勝に出場する選手は八名。その中に、もう一人の日本人。忘れてはならない奴がいる。私がこの世界に引き込んだからだ。

 嶋田吾朗。もはやこの世界では、私の永遠のライバルだと言っていい。彼も順当に勝ち上がってきた。

 彼は私に言った。

 「貴様、改札拳士になれたんだろうな。」

 「ああ、悪いな。拳士の称号はもらっている。」

 「ふん、だからと言って簡単に勝てると思うなよ。俺も、拳士の修行を積んできた。貴様には負けない。」

 望むところである。いや、こういうことを私は望んでいたのだ。生きている実感。誰かと張り合いながら生きる充実感。そう。それが分かっていたからこそ、私は彼をこの世界に誘ったのだと思う。

 

「レディ」

 改札に両腕を置く。

「ブーーーーー」

 ブザーと同時に、3D画像が動き出した、圧倒的な数の乗客が、雪崩のように改札になだれ込んできた。

 繰り出されるキップと定期券。目にも止まらぬスピードで、私は改札鋏を操り、一枚一枚のキップに正確に鋏を入れる。時折、定期券が視界をかすめる。大丈夫、期限切れではない。


 一分が過ぎた、ここからさらに加速する。3D映像の乗客は、もはや重なり過ぎて人間の体を成していない。それでもキップは繰り出される。 私は気力で鋏を入れる。


 (期限切れの定期券!)

 私は発見するや、改札脇のボタンに触れ、押した。

 セーフだ。

 今のタイミングは際どかった。右側の選手がコンマ何秒か出遅れ、改札のゲートが三秒間バタンと閉じた。中盤でのこの失態は致命的だ。挽回するにはかなりのスピードが必要だが、決勝の選手はみな強い。追い付くのは無理だろう。


 残り一分。

 さらに、乗客の人数が増える。もはや通常の人間では見えない。肌の感覚などをフルに使わないと判別できない。

 鍛練を積み重ねてきたものだけが反応できる世界に突入した。

 両脇の選手たちが、対応できずにミスを犯し、ゲートが何回も閉まっているようだが、もはや他人の事をかまっている余裕は、私にもない。手の指は吊りそうになり、握力も限界に近づいている。


 残り二十秒! 左隣の選手が足腰の限界に達したのか、がくっと膝を落とし立ち上がれないでいる。右隣の選手は、握力の限界が来たのだろう、改札鋏を落としたようだ。そうした選手の一挙手一投足に、会場が沸く!


 ノーミスでここまで来たのは果たして何人なのか? 嶋田はまだ私に食らいついているのか。それとも、私の先を行っているのか。

 残り五秒、カウントダウン! 四、三、二、一、タイムアップ!


 ゴールと同時に私は背後の電工掲示板を見た。ポイントは? 順位は?


 表示が遅れている。


 出た!


「Winner!  Joe Ashitaba,  Japan!  1,338pt!  This point is World record !!」


 やった! やった! やったぞ! 一位だ! 金だ! 優勝だ! 世界記録だ!

 大歓声の日本応援団。ニッポンコールが鳴り響く。

 信じられないという表情の外国人選手たち。二位のアメリカ選手の1,085ptを大きく引き離す、圧倒的な記録に、ただ、ただ、驚いている。

 三位には嶋田。1,070pt 。立派な記録だ。だが、私の大記録には、霞んで見える。さぞや、悔しいに違いない。まだ、電光掲示板を睨んだまま、動こうとしなかった。

 私は嶋田に声をかけようとして、だが止めた。勝者が敗者にかける言葉など何もない。


「ジョー! ジョー!」

 観客席から私を呼ぶ声が聞こえる。その方向に目を向けると、政志くんが、ありったけの大声叫びながら、私に向かって手を降っていた。隣には、佐藤教諭も一緒だ。二人とも満面の笑顔だ。私も笑顔で腕を振って応える。


 佐藤教諭の横には、これも見覚えのある、ほうきを一生懸命振っている小柄な女性。種田キヨ子さんだ。わざわざ仕事を休んで来てくれたんだ。私はキヨ子さんにガッツポーズをする。ますます高く大きくほうきを振るキヨ子さん。


 いつの間にか、嶋田が私の側に来て、国旗を肩にかけた。

 「ウイニングラン、するんだろ?」

 私は嶋田と並走し、国旗を両手で高々と掲げた。

 世界記録。この快挙に日本が湧いた。


 大歓声の中を、私は手を振って応えながら、控室へと戻る。勝ったという実感が、ようやく込み上げてくる。

 やった! やったんだ!

 私は世界チャンピオンになったんだ!


 その後、私の記録の後を追うように、日本人選手たちは目覚ましい活躍をした。このパンチャー競技だけでも、男女五つの金メダルを獲得した。

 嶋田はもう一つの「ロング・パンチャー」に出場し、今度は見事に金メダルをとった。調子が良ければ世界記録も抜けたと言っていたが、それでも、一位だ。満足しないわけがない。初めて私に笑顔を見せてくれた。今度は負けない、と捨て台詞も残したが。

 こうして、不況の日本は久々に活気づいた。


 私に改札拳士の極意を教えてくれた、丹下団吉。ついに彼とは会えなかった。世界チャンピオンになれば、もしや再会できるのではないかと、淡い期待を持っていたが、彼はやはり現れなかった。そういう約束だった。

 だが、彼の拳士の魂は、私に受け継がれている。恐らくこの地球上のどこかで、今日の私の活躍を見て、密かに喜んでいるはずだ。

 いつか、どこかであったら伝えよう。あなたの教えの通りにしたら、勝てました。ありがとう。


 まだ、競技場では歓声がやまない。私は日の丸を握りしめて、余韻に浸っていた。今まで会った全ての人に感謝していた。


 帰国すると、すぐに祝賀パレードが準備されていた。選手たちには専用のオープンカーが用意された。私には大型のリムジンを改造したオープンカー。この日のために特別に急ごしらえしたそうだ。

 ふと見ると、いかつい顔に似合わない笑顔でリムジンを運転するのは、トラック運転手だった菊池さんだ。

 「いやあ、あんたは何かをやってくれると思っていたよ。」

 個人トラックを廃業した菊池さんは、リムジンの運転手になっていた。仕事が見つかったのだ。自然に私の顔もほころぶ。良かった。愛車を失って肩を落としていた彼は、今は堂々としたものだ。


 その日、メダリストたちの祝賀パレードには、過去最高の六十二万人の人々が集まった。

 この日ばかりは、国営JRも運賃をみな無料にした。

 景気が回復しようとしていた。人々の笑顔が、歓声が、笑い声が、日本のあちこちで沸き起こった。

 日本のあちこちに、幸せの種が蒔かれ、芽生え、花が咲き誇った。幸せのそよ風が人々に吹いていた。いつまでも、いつまでも。


 (了)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] めっちゃやばいです!!語彙力喪失します!!最後の観客席にいた三人のところがもう1番泣きそうになりました!!! インタビューの内容とか、政府の状況とかがリアルで超面白かったです!!!! 長く…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ