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鏡淵の調律 ―揃わないまま、君と生きる―  作者: ちとせ鶫
第4章:神代学園都市

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第38話 鏡の前で

鏡淵という街の異常は、決して派手ではありません。


むしろ最初は、「見間違いだったかもしれない」という形で現れます。


鏡の中の動きが、ほんの少しだけ先に起きる。

それだけです。

説明しようと思えば、疲れや錯覚で片づけられる程度の違和感。


だからこそ、怖い。


この回では、「鏡」が初めて明確に異常を見せ始めます。

そしてその異常は、晴斗自身ではなく、“夕奈が関わった時だけ”発生している。


何かが夕奈を見ているのか。

あるいは、夕奈を通して何かがこちらを見ているのか。


まだ答えはありません。

でも、ここから物語は「ただの違和感」では済まなくなっていきます。

 神代学園の西棟校舎に、古い鏡がある。


 三階と四階のあいだの踊り場。

 西日が深く差し込むその場所に、壁一面の大きな姿見が据えられていた。

 木枠が古くて、表面に細かな傷が走っている。

 でも、映す像はくっきりとしていて、

 むしろ妙に「近い」印象を与える鏡だった。


 晴斗がその鏡を初めて見たのは、入学から三日目の放課後だった。

 吹奏楽部の見学を終えて、西棟を通ったときのことだ。

 第2音楽室は西棟の四階にある。

 その下の踊り場で、晴斗は鏡の前に立った。


 最初は、何も感じなかった。

 ただの古い鏡だと思った。

 自分の制服姿を確認して、通り過ぎようとした。

 

 そのとき。


「お兄ちゃん、待って」 


 夕奈の声がした。階段の下から、小走りで上がってくる足音。 

 夕奈は吹奏楽部の見学になど興味はないはずだった。

 ただ、晴斗がどこにいるか、何を選ぶかということには誰よりも敏感だった。

 放課後になれば、吸い寄せられるように合流してくる。

 その習性は、鏡淵という異質な街へ来てからも変わることはなかった。


「……間に合った」 


 夕奈が晴斗の隣に並び、弾んだ息を整えながら、当然のようにその袖を掴む。

 晴斗もまた、当たり前すぎるその重みを感じながら、歩幅を緩めた。


「見学、どうだった?」

「まあまあ」

「入るの?」 

 夕奈がのぞき込むようにして尋ねる。その瞳には、自分の意思よりも先に、晴斗の答えを待つ色が浮かんでいた。

「考え中」


 二人で、踊り場に立っていた。

 鏡が、二人の姿を映している。

 晴斗は、その鏡を何気なく見ていた。

 自分と夕奈が並んでいる。制服姿。

 夕奈の髪についた緋色のリボン。


 何も変わっていない。

 変わっていないはずだった。

 

 夕奈が、ほんのわずかに首を傾けた。

 その動きが——鏡の中で、先に起きた。

 コンマ数秒。それだけの差。

 でも、確実に。

 

 鏡の中の夕奈が首を傾けてから、現実の夕奈が首を傾けた。

 晴斗は、息が止まった。


(今、何が起きた)


 もう一度、鏡を見る。今度は、夕奈は動いていない。

 鏡の中も、現実も、同じ姿勢で立っている。

 何も、おかしくない。


 でも、さっきの「ズレ」は確かにあった。

 鏡の像が、現実より先に動いた。


 それは、あってはならないことだ。


 鏡は現実を映す。

 現実が先で、鏡が後。

 その順番が、逆になっていた。


「お兄ちゃん?」

 夕奈が、晴斗の顔を覗き込む。

「どうかした?」

「……いや、なんでもない」

「顔色、悪いよ」

「気のせいだろ」


 晴斗は視線を鏡から外した。

 でも、鏡から目を離した後も、さっきの映像が頭の中に残っていた。


 夕奈が先に動いた、鏡の中の映像が。


     * * *


 その夜、晴斗は東京での記憶を辿った。


 古い校舎の踊り場の姿見。

 そこでも、似たようなことがあった。

 夕奈の動きが、鏡の中で先に起きた気がした。

 でもあのときは、一瞬のことで、すぐに「気のせい」として処理できた。


 今日は、そうじゃなかった。

 もっとはっきりと、もっと明確に、ズレが見えた。


 東京でも同じことが起きていた。

 でも、頻度が違う。鮮明さが違う。


(鏡淵に来てから、何かが変わっている)


 その感覚が、確信に近づいていた。

 この街の鏡は、東京の鏡と違う何かを持っている。


 何が違うのかは、まだ言葉にできなかった。

 でも、体が感じていた。

 踊り場の鏡の前に立ったとき、空気の質が変わった。

 音の聞こえ方が、少しだけ変わった。

 

 その場所だけ、世界の密度が違った。


     * * *


 翌日の放課後、晴斗は再び西棟の踊り場に行った。

 今度は一人だった。

 

 夕奈に「先に帰ってて」と言って、階段を上った。鏡の前に立つ。

 自分の姿が映っている。

 晴斗は、ゆっくりと右手を上げた。

 鏡の中の自分も、右手を上げた。

 同時に。当然のように、同時に。

 何もおかしくない。

 

 晴斗は、今度は首を傾けた。

 鏡の中の自分も、首を傾けた。

 同時に。


(自分だと、起きない)


 晴斗は、その事実を頭の中に置いた。

 自分が動いても、ズレは起きない。

 

 でも、昨日は夕奈の動きがズレた。

 夕奈だから、ズレた。

 

 あるいは——夕奈と自分が並んでいたから、ズレた。

 その違いが、何を意味するのか、まだ分からなかった。

 廊下の向こうから、足音が聞こえてきた。


「やっぱりここにいた」

 夕奈だった。

 先に帰ってと言ったのに、待っていたらしかった。

「帰らなかったのか」

「……待ってたのに。全然、戻ってこないから」


 夕奈が、踊り場に入ってくる。晴斗の隣に立つ。

 鏡が、二人を映す。

 晴斗は、鏡を見た。


 夕奈が、袖を掴もうとした。

 その動きが——鏡の中で、先に起きた。

 今度は、もっとはっきりと。

 鏡の中の夕奈の手が、晴斗の袖に触れてから、現実の夕奈の手が袖に触れた。

 コンマ数秒ではなく、もう少し長い時間差だった。


(やはり、夕奈だ)


 晴斗は、その事実を頭に刻んだ。

 夕奈が絡む動作が、鏡の中では先に起きる。

 現実より先に、鏡が夕奈の動きを映す。


 それが何を意味するのか。

 この街の鏡が、何かを映しているのか。

 あるいは、この鏡を通して、何かが夕奈に干渉しているのか。


「どこ見てるの?」

 夕奈が、不思議そうに聞く。

「鏡だよ」

「何か変なの?」

 晴斗は少しだけ迷って、答えた。

「……いや、何でもない」


 今は、言えなかった。

 言葉にすれば確定してしまう。

 それは、夕莉が言っていたことと同じだった。

 言葉にする前に、もう少し確かめたかった。


「帰ろうか」

「うん」


 踊り場を離れる。

 振り返ると、鏡がそこにあった。

 二人の後ろ姿が映っていた。


 でも、その後ろ姿の中で、夕奈の影だけが——

 ほんのわずかに、遅れて消えた気がした。


 気のせいかもしれない。

 でも今日は、気のせいだと思えなかった。


この回で意識したのは、「確定させすぎない恐怖」です。


鏡の中の像が先に動く。

ホラーとしては非常にシンプルな現象ですが、ここでは“はっきり見えすぎない”ことを重視しています。


もし誰が見ても明確な異常なら、晴斗はすぐ周囲に相談できる。

でも実際には、「疲れていたかもしれない」「見間違いかもしれない」が混ざっている。


だから、一人で抱え込むしかない。


そして重要なのは、そのズレが夕奈にだけ発生していることです。


夕奈は依存的で、晴斗に強く結びついている。

鏡は、その“結びつき”を媒介にして何かを映しているのかもしれない。


最後の「夕奈の影だけ少し遅れて消える」は、かなり小さな描写です。

でも、この作品では、その“小ささ”そのものが異常の正体に近づいていきます。

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