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第九章 ほどける

 車はしばらく、何も話さないまま走っていた。信号で止まるたびに、少しだけ時間が長く感じられる。

 彼女は助手席に座っている。窓の外を見ている。昔と同じような横顔だったが、同じものではない気もした。

 「祐実ちゃんの具合はどう?」

 前を見たまま、彼女が言う。

 「解らない。でも、しんどそうだった」

 少しだけ間が空く。

 「……そっか」

 それで会話は途切れる。

 どうして篠田と自分が会っていたのかは聞いてこなかった。こちらも、説明する気にはならなかった。話そうと思えば話せるはずのことなのに、どこから切り出せばいいのかが分からない。

 「勤くん、今何やってるの?」

 唐突に、聞いてきた。

 「トレーダー」

 「トレーダーって……株か」

 「ああ」

 それ以上は続かなかった。

 また、少しだけ間が空く。道路の音だけが、車内に流れている。

 「石田は?」

 そう聞くと表情がほんの一瞬だけ止まる。言葉にするほどでもない、短い違和感だった。

 すぐに視線を戻して、軽く笑う。

 「今は石田じゃないよ…前野に変わった」

 「ああ……」

 それ以上の言葉は出てこなかった。

 「専業主婦やってる」

 少しだけ間を置く。

 「子供も二人いるよ」

 「そっか」

 それだけ言う。

 「勤くんは?」

 何が聞きたいのが解らないので暫く黙っていると、話を続けた。

 「結婚は?」

 「してない」

 即答。それで終わる。

 彼女は何も言わなかった。こちらも、何も続けなかった。

 会話をしようと思えば、いくらでも出来たはずだった。けれど、どちらも口を開かなかった。必要がないわけではない。ただ、どこから始めればいいのかが分からなかった。

 病院へ向かう途中で、花屋に寄った。

 店の奥に並んでいる花の中から、いくつかを選ぶ。どれがいいのかはよく分からなかったが、あまり考えすぎるのも違う気がして、その場で目に入ったものをそのまま選んだ。

 店員が手際よくまとめていく。白い紙に包まれて、リボンがかけられる。その動きを、特に意味もなく眺めていた。

 受け取った花束は、思っていたよりも軽かった。

 車に戻り、後部座席に置く。

 かすかに甘い匂いが広がる。

 それについて、どちらも何も言わなかった。

 病院に着くころには、道順はもう意識しなくても辿れるようになっていた。一昨日と同じ場所に来ているはずなのに、距離の感じ方だけが少し違っている。

 やがて、病院の建物が見えてくる。白い外壁が、夕方の光の中で少しだけぼやけている。

 車を駐車場に入れて、エンジンを切る。

 音が止まったあとも、すぐには誰も動かなかった。


ーーー


 受付を通り、廊下を進む。

 床の光沢や、壁の色まで同じはずなのに、どこか別の場所のように見えた。

 大部屋に近づくと、声が聞こえてくる。

 いくつかの声が重なっていて、その中に、少しだけ明るい調子のものが混じっている。

 扉の前で足が止まる。

 中に入る前に、一度だけ息を整える。

 扉を開ける。

 ベッドを起こして、誰かと話している姿が見える。

 一昨日よりも顔色がいいようにも見えた。そう見えただけなのかもしれないが、そう思ってしまう程度には、違っていた。

 「飯田くん」

 先に気づいたのは、篠田さんだった。

 呼ばれて視線を向ける。

 そのまま、こちらを見る。

 そして、ほんのわずかに視線がずれる。

 隣にいる方へ向く。俺も自然と隣の彼女を見ていた。

 その瞬間、二人の表情が止まる。

 何かを確かめるような、短い間。

 言葉が出てこない。

 「……祐実ちゃん」

 隣で、小さく声が漏れる。

 そのまま歩き出す。

 最初はゆっくりだったが、すぐに早くなる。

 距離が一気に縮まる。

 ベッドの横で立ち止まる。

 何かを言おうとしている。ぷるぷると体が震えている。

 口を開いては閉じる。

 視線だけが何度も動く。

 俺の方を一度だけ見る。

 それから、もう一度視線を戻す。

 「ごめんね……」

 篠田さんが彼女に向かって、そう呟いた。

 彼女は首を横に振って何かを伝えようとしている。

 そして、そのまま身体を預けるようにして、抱きつく。

 病室の空気が、一瞬だけ変わる。

 他のベッドから視線が向く。

 それでも、二人はそれに気づいていないように見えた。

 背中に手が回る。

 ゆっくりと撫でると彼女は答える。

 「ううん……」

 そして、小さな声で呟く。

 「ごめん……私も」

 少しだけ間があく。

 「ううん…多恵は悪くないよ…」

 その言い方は穏やかだったが、どこかで言葉を選んでいるようでもあった。

 それ以上は続かなかった


ーーーー


 そのあと、三人で談話室に移った。

 廊下を進むだけの、ほんの短い距離だったが、篠田さんの、その歩みはどこか不安定に見えた。支えが必要というほどではない。それでも、足取りのひとつひとつに、わずかな遅れがある。

 こちらは少し後ろを歩いた。並ぶでもなく、先に出るでもなく、距離だけを保つようにしてついていく。

 談話室に入ると、積もる話もあるかと、二人を残して席を外した。

 しばらくは、あのままにしておいた方がいいと思った。

 さっき買ってきた花束を思い出し、部屋に戻る。

 花瓶を借りて、水を入れる。

 包みを外し、茎の長さを揃える。

 特に意味のある作業でもないのに、手を動かしているあいだは、余計なことを考えずに済んだ。

 花を差し終えて、少しだけ全体の形を整える。

 その様子を、近くのベッドから見ている人がいた。

 年配の患者だった。

 「彼氏かい?」

 不意に声をかけられる。

 顔を上げる。

 少しだけ笑って、首を横に振る。

 「だったら、良かったんですけどね」

 自分でも軽い言い方だと思った。

 相手は小さく笑う。

 枕元に置いてあったバナナを一本取り、こちらに差し出してくる。

 「今からでも遅くないよ」

 「そうですね」

 受け取る。

 皮をむいて、そのまま口にする。

 味は特別なものではないはずだったが、妙に甘く感じられた。

 理由は分からない。

 ただ、そのときは、そういう味がした。


ーーーー


 しばらくして、二人が戻ってきた。

 さっきよりも、表情が落ち着いている。

 泣いたあとの顔だったが、それだけではない何かが、少しだけ残っていた。

 席に座る。

 三人で、向かい合う形になる。

 誰からともなく、話し始める。

 高校の話だった。

 断片的な記憶が、順番もなく出てくる。

 「あのときさ」

 「覚えてる?」

 「全然覚えてない」

 そんなやりとりが、何度も繰り返される。

 笑い声が混じる。

 けれど、それは昔のものと同じではなかった。

 どこか一歩引いたところで、確かめるように笑っている。

 話している内容は、どれも他愛がない。

 それでも、途切れなかった。

 誰かが話し終えると、少しだけ間が空く。

 そのあと、別の話題が続く。

 無理に繋いでいるわけでもないのに、途切れない。

 その時間が、しばらく続いた。


ーーー


 しばらくして、配膳の音が聞こえてくる。

 ワゴンの車輪の音と、食器が触れ合う小さな音が、廊下からゆっくりと近づいてくる。

 その音で、時間が区切られる。

 自然と、席を立つ準備をする。

 「祐実ちゃん。また来るね」

 先に、彼女が言う。

 「うんうん。暇だから、ぜひ」

 篠田さんは笑っている。

 この間よりも、さっきよりも、少しだけ声が明るい感じがする。

 「飯田くんも、また」

 「うん。また来るよ」

 それだけのやりとりだった。

 それでも、さっきまでの距離とは違っていた。

 帰ろうとすると、篠田さんがが手を動かす。

 小さく、こちらを呼ぶような仕草だった。

 近づく。

 少しだけ身をかがめる。

 耳元で、声が落ちてくる。

 「お節介かもしれないけど」

 ほんの一瞬、言葉を探す間があって、続く。

 「今の気持ち、ちゃんと伝えた方がいいと思うよ」

 それ以上は言わなかった。

 顔を上げる。

 篠田さんは、さっきと同じように笑っている。

 「前向きに検討する」

 そう答えると、少しだけ笑いがこぼれる。

 深くは触れない。

 それで十分な気がした。

 「じゃあね」

 手を振る彼女

 篠田さんも、同じように手を振り返す。

 その動きが、思っていたよりもゆっくりだった。

 廊下に出る。

 扉が閉まる音が、少しだけ遅れて届く。


ーーーー


 帰り道も、ほとんど言葉はなかった。

 小雨が降っている。フロントガラスに当たった水は形を保たないまま流れていき、それをワイパーが一定の間隔で拭っていく。その繰り返しだけが、やけに規則正しく感じられた。ほかの音は、ほとんど意識に残らない。

 「勤くん……あの時は、本当にごめん」

 隣から声がする。顔は見なかった。見なくても、どんな顔をしているのかは、だいたい想像がついた。

 少しだけ考えてから答える。

 「あの時に謝ってもらったから、もういいよ」

 「うん……でも、もっとやり方があった」

 「そうだな」

 それ以上話しは続かなかった。

 ワイパーの音が、そのまま車内に残る。

 「好きになるのに理屈なんてないよな」

 返事はない。それでも俺はハンドルを握りながら続けた。

 「だから気にするな、あの時は、さすがに腹は立ったけど…今は、まあ、しょうがないって思ってる」

 「勤くん……」

 声が小さく揺れている。泣いているのだろうと思う。

 俺は一切横を見なかった。軽自動車の狭い空間で肩が当たるのが解った。

 「まあ、幸せになれよとは思ってないけど、適当に生きてくれ」

 俺のその言い方が可笑しかったのか、涙声から笑い声に変わっている。

 「そういうところ、変わらないなぁ…本当、天邪鬼」

 「まあ、変わらないところもある」

 と返すと、それ以上は会話は続かなかった。

 又、沈黙がやってくる。でも、先程までの重苦しさは無くなっていた。

 「でも、勤くんと出会えて、付き合えて、よかったって思ってる」

 「そうか」

 車は、いつの間にか駅前に着いていた。

 エンジンは切らないまま、少しだけそのままにしておく。

 「今日は本当にありがとう」

 彼女はドアに手をかけている。

 「また、DM送るね」

 「スルーするかも」

 「うん、でも、送る」

 そう言って、はにかむようにほんの少しだけ笑う。

 「またね」

 「ああ」

 ドアが閉まる。

 そのまま車を出す。

 バックミラーに、立っている姿が映る。手を振っている。その動きが少しずつ小さくなっていき、やがて見えなくなるまで、振り続けていた。

 車を出してから、しばらくそのまま走っていた。

 ワイパーの音が、変わらず同じ間隔で続いている。

 さっきの言葉が、まだどこかに残っている。

 消えきらないまま、形を変えているような感覚だった。

 信号で止まる。

 前を見たまま、何を考えていたのかは分からない。

 ただ、一つだけ、はっきりと浮かんできた名前があった。

 竹内。

 それだけだった。

 顔も、声も、細かいことは思い出さない。

 ただ、その名前だけが残る。

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