第二章 夢の残り
目が覚めた。
また、あの頃の夢だった。
最近、同じような夢ばかり見ている。高校を卒業する少し前の、あの時期の夢だ。
さっきも、教室で写真を撮っていた。
妙なことに、夢の中ではスマートフォンを手にしている。
あの頃にはなかったはずのものだ。
それ以外は、ほとんど変わらない。
教室の空気も、声の重なり方も、窓の外の光も。
ただ一つだけ、そこにあるはずのないものが混じっている。
それが、どういう意味を持つのかは分からない。
分からないまま、同じ夢を何度も繰り返している。
朝は、いつも通りの時間に起きた。
夢のことは、起きているうちに少しずつ輪郭を失っていく。さっきまで確かに見ていたはずなのに、細部はもう思い出せない。ただ、教室の光と、誰かの声だけが、かすかに残っている。
顔を洗って、簡単に朝食を済ませる。味のことはあまり覚えていない。決まった時間に、決まったことをしているだけのようなものだった。
机に向かい、パソコンの電源を入れる。
画面が立ち上がり、いつものようにチャートが並ぶ。数字が動く。線が上下する。それを見ているだけで、時間はそれなりに過ぎていく。
午前中は、それで終わる。
何かを考えているようで、何も考えていない時間だった。
気がつくと昼になっていた。
キーボードから手を離して、背もたれに体を預ける。部屋の中は静かで、外の音もほとんど入ってこない。
昼食のことを考える。
面倒だった。
台所に立つ気にもならない。棚にあったレトルトのご飯で済ませればいいと思った。温めるだけで終わる。
その程度で十分だった。
立ち上がろうとしたところで、電話が鳴った。
画面に表示された名前を見て、少しだけ動きを止める。
母だった。
通話ボタンを押す。
他愛のない話が続く。
体調はどうか、仕事はどうか、そんなことばかりだった。こちらも、特に考えずに返事をする。会話は途切れることなく続いていくが、どこか手応えのないやりとりだった。
その途中で、母が思い出したように言う。
『隣の家のみっちゃんが結婚するらしい。北海道に引っ越す』
小さい頃、よく一緒に遊んでいた名前だった。
『あんた仲良かったんだから、一度くらい顔を出しておきなさい』
「そうか」
電話を切ったあと、しばらくそのまま立っていた。
昼の光が、窓の外から部屋の奥まで差し込んでいる。さっきまで見ていた夢のことが、ふと頭に浮かぶ。
教室の光と、写真のこと。
あれが何だったのか、まだうまく掴めていない。
考えるというより、引っかかっているという感覚に近かった。
そのまましばらく何もせずにいて、やがて、小さく息をつく。
土日に帰るか、と思った。
誰に言うでもなく、そう決めた。
ーーーー
同じ県内で、車を使えば一時間と少しで着く距離だった。
その気になれば、いつでも帰れる場所だった。
それでも、実家に戻ったのは二年ぶりだった。
玄関の扉を開けると、見慣れた匂いがそのまま残っている。時間だけが空いていて、中身はほとんど変わっていないように思えた。
顔を合わせるなり、母に軽く説教のようなことを言われる。連絡が少ないだの、顔くらい出せだの、そういう類のものだった。
適当に相槌を打ってやり過ごす。内容は大体分かっているし、今さら反論する気も起きない。
荷物を置いて一息ついたあと、隣の今泉家に顔を出した。
昔と変わらない表札がそのまま掛かっている。呼び鈴を押すと、少しして中から足音が聞こえた。
出てきたのは、随分と年を取ったみっちゃんの母親だった。
「久しぶりだねえ」
声の調子は昔と変わらない。
みっちゃんに会いに来たと言うと、ああ、と少しだけ間を置いてから、中へ通された。
廊下の奥の部屋に、彼女はいた。
美そ乃、と呼ばれているその名前が、どうしてもまだしっくりこない。
最後に会ったときよりも当然大人になっていたけれど、笑い方の端に昔の面影が残っていた。
「結婚するらしいな」
「うん」
それ以上、特別な話はしなかった。
北海道に行くらしい、寒いところは苦手だ、そんな程度の会話が続く。互いに探るようなこともなく、ただ思いついたことを口にしているだけだった。
時間はそれなりに流れて、区切りのいいところで席を立つ。
「おめでとう」
「ありがとう」
それで十分だった。
ーーーー
家に戻って、自分の部屋に入る。
ほとんど倉庫のようになっていた。
使われていないものが積まれていて、空間の形だけがかろうじて残っている。壁際には段ボールが並び、床には見覚えのない荷物が置かれている。
天井から、洗濯用の紐が一本、斜めに吊るされていた。
何に使っているのかは分からないが、今はもうそれが自然な風景の一部になっているようだった。
ベッドだけは、そのまま残っている。
木の軋む音も、手触りも、昔とほとんど変わっていない。
部屋の中を見回して、特に何をするでもなく立ち尽くす。
少しして、ポケットからスマートフォンを取り出した。
北村に連絡してみるか、と思う。
時間があるなら会おうか、と一言送るだけでいい。そんなことを考えながら、画面を開く。
そのとき、不意に、さっきの夢のことを思い出した。
教室と、写真。
あの構図。
言葉にできないまま引っかかっている感覚が、また少しだけ浮かび上がる。
指が止まる。
画面を閉じて、代わりに部屋の奥に目を向けた。
本棚の一角に、古いアルバムが並んでいる。
手に取ると、表紙の端が少しだけ擦れていた。
椅子に腰を下ろして、ページをめくる。
写真が並んでいる。
どれも見覚えがあるはずなのに、どこか他人事のように感じられる。
何枚かめくっていくうちに、指が止まった。
その写真だった。
教室の中で、何人かが適当に並んでいる。
窓の光の入り方も、立ち位置も、すべてが、この間、夢で見たものと同じだった。
違っているはずなのに、同じだった。
しばらく、そのまま見ていた。
時間の感覚が、少しだけずれる。
そのとき、階下から母の声がした。
ご飯ができた、と呼んでいる。
返事をして、アルバムを閉じる。
写真のことは、そのままにして立ち上がる。
部屋を出て、階段を降りた。
いつもの食卓の匂いが、下から上がってきていた。
ーーーー
食事は、思っていたよりも長かった。
母は相変わらず細かいことを気にして、どうでもいいような話を続ける。こちらも適当に返しながら、箸を動かしていた。味は悪くないはずなのに、どこか輪郭の曖昧なものに感じられる。
皿が片付けられて、ようやく席を立つ。
部屋に戻って、扉を閉めると、急に静けさが戻ってくる。さっきまでの会話が、少し遠い場所の出来事のように思えた。
机の上に置いたままのスマートフォンを手に取る。
さっき途中で止めたままの画面を開いて、北村の名前を探す。
少し考えてから、短い文章を打った。
『今、実家に帰ってる。時間あるなら、会うか』
送信すると、すぐに既読がついた。
それほど間を置かずに、返信が返ってくる。
『今、出張中で会えない。帰って来るのは来週になる。残念だな、久しぶりに一緒に飯を食いたかった』
画面を見ながら、小さく息をつく。
そうか、とだけ思った。
それ以上、言葉は浮かばない。
明日は何をしようか、と考える。
みっちゃんにはもう会った。特に他に用事もない。このまま一泊して帰るだけでも、別に問題はない。
早めに引き上げるのも悪くないと思った。
ベッドに転がると自分の体の形に変わる様な感覚。
わざわざ布団を干してくれていたんだと気付く。母なりの気遣いなのだろうと思う。
来客用の布団は、殆ど新品同様だった。
天井を見上げる。洗濯用の紐が、視界の端でわずかに揺れている。
特に何も考えずに、そのまましばらく横になっていた。
気がつくと、意識が途切れていた。




