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第9話「帳簿の穴」

 エルマが帳簿を閉じた。

 閉じ方が静かだった。


「先週比でさらに15%減です。常連のうち、残っているのは12人。そして小口はともかく、太口客の新規はゼロ。このままの推移で計算すると、約2ヶ月で運転資金が尽きます」


 エルマの声は淡々としていた。

 数字を読み上げる時、彼女の声には感情が混じらない。


 それが帳簿番としての訓練なのか、それとも別の何かなのかは、レイは聞いたことがない。


「2ヶ月。十分ですね」

「……根拠はありますか」

「なくはありませんが、まだ仮説段階なので今日見つけるとしましょうか」


 エルマはそれ以上聞かなかった。

 帳簿を閉じ、表のカウンターに戻った。


 その直後、ミラが窓際から近づいてきた。

 声は出さなかった。

 代わりに、小さな紙片をカウンターの端に置いた。


 紙片には字がなかった。

 図だけが描かれている。

 灰猫商会の正面を上にした略図。


 通りの角に丸が一つ。

 丸の横に短い線が二本……女を示すミラの記号だった。

 その下に、昨日の位置を示す丸が×印で消されている。


 偵察員が変わった。

 昨日と場所も性別も違う。


 レイはその図を読むのに一瞬かかった。

 エルマなら帳簿の数字で報告する。ミラは図で報告する。

 同じ情報を、異なる記号で渡している。


「交代のタイミングが予測より一日早い」


 ミラは何も答えなかった。

 答える代わりに、紙片を裏返した。

 裏には灰猫の裏口周辺の略図があり、異常なしを示す横線だけが引かれていた。


 一日の誤差。

 致命的ではないが、メルテンには人員の余裕がある。

 レイは壁のメモに一行書き足した。


「偵察員交代・想定比ー1日」。


 誤差は修正できる。

 だがこの修正が要ったという事実は、帳簿に残しておく。


 机の上にカップはなかった。

 淹れる時間がなかったのか、淹れる気力がなかったのか。


 レイは外套を手に取る。

 今日は学院に行く日だ。


 朝の講義に顔を出す。

 出席率の維持のためだ。


 席に着いた。

 ノートを開いた。

 ペンを持った。


 次に意識が戻った時、ヘルマン教授が目の前に立っていた。


「ラマリン」


 教授の声が、妙に近い。

 いつもは教壇の向こうから聞こえる声が、机の横にある。


 寝ていた。


 レイ・ラマリンが、講義中に寝落ちしたのは初めてだった。

 出席率32%は不名誉な記録だが、出席した日に眠ったことは一度もない。


「……申し訳ありません」

「体調不良か?」

「いえ、昨夜少し遅くまで——」

「遅くまで何をしていたかは聞かん。だが顔色はいつもより悪い。保健室に行きなさい」


 教授の声に怒りはなかった。

 その代わりに、小さな心配があった。

 怒られる方が楽だった。


「それと」

 教授が一拍置いた。


「同盟協約の成立年と批准順序を答えなさい。寝ていた罰だ」


 答えは知っている。

 知っているのに、声にするまでの距離が遠かった。


「……七六〇年。リヒトフェルデン、クレスヴァイン、ヴァルトシュタインの順です」


 答えは正しかった。

 だが間が一拍、遅れた。

 いつものレイなら、教授が言い終わる前に答えている。


 右前方の席で、ナディアのペンが止まっていた。

 レイの方を見ていた。


 あの日の渡り廊下とは違う目だった。

 一瞬だけ眉を寄せて、すぐに前を向いた。


 窓際の席で、ジュリアスが腕を組んでいた。

 何も言わなかった。


 講義が終わった。

 レイは目的地を図書館に切り替えた。

 大図書館の研究棟、その一般閲覧室の奥にある許可証がなければ入れない区画。


 レイは回廊に入った。

 古い書架が両側に並んでいる。


 諸国文書集、旧法典、そしてメルヴィス自治管理局の条例集。


 前回は読む理由がなかった。

 今はある。


 条例集を書架から引き抜いた。

 分厚い本に溜まっていた埃が、宙を軽く舞う。

 最後にこの本を引き抜いた人間がいつだったのか、その埃の量が物語っていた。


 回廊の突き当たりではなく、その手前の読書机に座る。

 エルヴィンの部屋をノックする用事はない。

 今日必要なのは、禁書ではなく法律だ。


 目次を追う。

 商業登記に関する条項。

 営業許可。

 許可の停止事由。


 第14条。


『メルヴィス自治管理局に登記された商会に対し、不当な営業妨害を行った者は、自治管理局の審査を経て、自らの営業許可の停止処分を受けるものとする。営業妨害の認定には、以下のいずれかの証拠を要する。』


 レイの目が止まった。


 一、取引先への圧力による顧客の排除。

 二、虚偽の風説の流布。

 三、物理的な威嚇または破壊行為。


 一と二。

 メルテン商会が灰猫に対してやっていることの、正確な記述だった。


 問題は「証拠」だ。


 エルマの帳簿には顧客の減少記録がある。

 噂の出所もエルマが辿っている。

 だがそれだけでは「証拠」としては弱い。

 メルテンの名前と行為を直接結びつけるだけの証拠が必要になる。


 レイは条例集を閉じた。


 道具は見つかった。

 あとは弾を込めるだけだ。


 書架に戻す前に、もう一度背表紙を見た。

 『メルヴィス自治管理局条例集・改訂第三版』。


 ……読む者にだけ味方する。


「見つかったか」


 声がした。

 回廊の奥、エルヴィンが自分の部屋の扉の枠に寄りかかっていた。


 いつから見ていたのか分からない。


「……先生。お騒がせしました」

「条例集を引き抜く音が聞こえた。あの埃の量なら、相当な音がしたはずだが」


 一拍の間。


「やはり気づかなかったか」


 口元に微かな笑みがあった。


「法は読む者の道具になる。読まぬ者の枷にもなる」

「先生の言う通りでした」

「わしは何も言っとらん。お前が勝手に読んだだけだ」


 エルヴィンは扉の中に戻っていった。

 それ以上の会話はなかった。


 午後、学院本館の自治会室。


 ナディアが次に動くなら、ここだろう。

 渡り廊下での直接対決は退けられた。

 感情ではなく手続きで攻める人間は、組織を使う。


 自治会室の扉が開いていた。

 中から声が聞こえる。


「——下町の灰猫商会という賭博施設について、自治会として調査を求めます」


 ナディアの声だった。

 背筋の通った、真っ直ぐな声。


 レイは足を止めた。

 扉の死角に立ち、中の声に耳を傾けた。


「灰猫商会は元犯罪組織『灰の手』の残党が設立した施設です。この学院の学生が出入りしている報告もあります。学院の自治会として実態を調査し、必要であれば学院当局および自治領による対応を求めるべきです」


 整然とした主張だった。

 感情ではない。

 論理で組み立てている。


 あの日の渡り廊下で見せた震えは、ここにはない。

 公の場では感情を抑え、手続きで動こうとしている。


 ナディアは本気だった。

 だがそんな彼女に、落ち着いた女性の声が向けられた。


「ナディア、あなたの問題意識は理解します。だけど一つ確認させて」


 エレオノーラ・リヒトフェルデン。

 自治会長を務める2年生、そしてリヒトフェルデン家の当主代理。


「灰猫商会は、メルヴィス自治管理局に正規登記された商会よ。登記番号も確認済み。つまり、現行法の下では合法的に営業している施設ということになる」

「合法であることと、問題がないことは――」

「同じではない。ええ、分かっているわ」


 エレオノーラの声には圧力がなかった。

 だが重さがあった。


「だからこそ、証拠なく動くわけにはいかないの。自治会が根拠のない調査を始めれば、それ自体が自治会の信用を損なう」

 エレオノーラが一拍置いた。


「あなたの主張を退けているわけじゃない。証拠を持ってきて」

「……分かりました」


 沈黙の後に発せられたナディアの声。

 静かだったが、折れてはいなかった。


 椅子が引かれる音。

 足音が扉に近づいてくる。


 レイは壁から離れ、廊下を歩き出した。

 振り返らない。

 だが背後で、ナディアが自治会室から出てくる気配を感じた。


「証拠を持ってきて」。

 エレオノーラの言葉は、ナディアを止めたのではない。

 道を示したのだ。


 ナディアは止まらない。

 そしてその行き着くところは……もはや時間の問題だ。


 だが一つ、予期していなかったことがある。

 自治会で「灰猫商会」の名前が出た。

 自治会の議事は公開される。


 つまりメルテンの人間がその議事録を見れば、灰猫と学院の間に線があることが分かる。


 ナディアの問いは的を外していた。

 だが外れた矢が、別の場所に波を立てた。


 灰猫の壁がまた一枚薄くなっている。

 薄くしたのはメルテンではなく、味方でもなく、正しさの側にいる人間だった。


 廊下を折れ、図書館の前を通りかかった時、レイの足が止まった。


 閲覧室の窓越しに、見覚えのある背中が見えた。

 ナディアだった。

 自治会室を出てからまっすぐここに来たのだ。


 机の上に開かれていたのは、今朝レイが手に取ったのと同じ本だった。

 『メルヴィス自治管理局条例集・改訂第三版』。


 ナディアのペンが条文の余白を走っている。

 書架に戻したはずの本を、ナディアがもう引き出している。

 レイが書架に戻した時の埃の乱れが、次の読者を呼んだのかもしれない。


 同じ武器を、逆の目的で握ろうとしている。

 レイは灰猫を守るために読んだ。

 ナディアは灰猫を止めるために読んでいる。


 同じ書架の前に、二人の奨学生がいる。


 レイは足を動かした。

 見ていたのは二秒にも満たない。

 だがナディアが条文を読む速度は、見ただけで分かった。

 速い。

 そして正確だ。


 その夜、灰猫商会。


 エルマがカウンターの奥から帳簿を持って出てきた。

 今日の分ではない。

 先週の分析用に引き出していたメルテンの取引先台帳の写しだった。


「旦那。もう一つ、見つけました」


 レイは壁のメモから目を離した。


「先日の切り捨て処理の伝票。あの卸元の台帳をもう少し遡ったところ、別の取引先への支払記録がありました。そちらも同じ……下一桁の切り捨てです」

「同じ処理が二件……」

「一度なら帳簿係の計算間違いで済みます。だが同じ卸元の中で、異なる取引先に対して同じ処理が二件。これは個人の癖ではなく、組織の書式です」


 エルマが帳簿の該当頁を開き、二つの数字を指先で示した。

 レイは三秒、見た。


「メルテンの流れとも違う。同盟圏の標準でもない」

「ええ。この書式を使う組織が、メルテンの取引先の台帳に手を入れている」


 レイの指が帳簿の上で止まった。

 点が三つになった。


 最初の一件。

 二件目。

 そしてこの二件が同じ卸元の中にあるという事実。


 だが三つの点から線を引くには、メルテンの外にあるものを見なければならない。

 今の灰猫にはその余裕がない。


「なるほど、ひとまず記録に残しておいて下さい」

 エルマのペンが一拍止まった。


「はい……」


 少し迷った様子を見せたエルマは、帳簿に小さく「切り捨て・保留」と書き込み、ページの角を折った。先日と同じ折り方で。


***


 ガルドがカウンターの脚を補強していた。

 先日から靴先が引っかかる出っ張りを、ようやく削り直している。


「ガルドさん」

「何ですか」

「その脚、前より頑丈にする必要はありませんよ」

「……つい、癖で」

「癖?」

「壊れたものを直す時、前より丈夫に作ろうとする。直すんじゃなくて、壊れないように作り変えようとする」


 ガルドは手を止めず、脚の角を鉋で削った。


「二度目が来た時に、もう壊れないように」


 レイは紅茶を飲んだ。

「壊れないように」の一言に、カウンターの脚以外のものが含まれている気がした。

 レイは聞かなかった。


 ガルドは削り終えた脚を手で撫でた。

 まだ少し太い。


 だが今度は引っかからない。


 ガルドが道具を片づけ、部屋に戻った。

 エルマも帳簿を閉じて帰った。


 一人になった店で、レイはカウンターの前に立っていた。

 ふと、ガルドが削った脚に手を伸ばした。

 指先で撫でてみる。


 以前は引っかかった。

 靴先が当たるたびに小さな苛立ちがあった。


 今は引っかからない。

 指が滑らかに木目を辿る。


 ガルドが直したものは、直す前とは別のものになっている。

 同じ脚のはずなのに、手触りが違う。


 レイはその手を離した。

 壁のオッズ表に目を戻し、明日の計算に取りかかった。


次回は本日21時更新です

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