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第8話「二つの圧力」

 常連客が減っている。

 エルマは朝の帳簿を閉じながら、静かにそう言った。


「先週比で3割減です。特に港の商人関係は明確に減りました」


 レイは奥の部屋で紅茶を淹れながら聞いていた。

 味が少し苦い。茶葉は変えていない。


「それで原因は?」

「少なくとも二つあります」


 エルマが帳簿を開いた。


「一つ目。港の仲買商ヴェルナーが、先週から店に来なくなりました。ヴェルナーは商人組合の中でうちの大口の常連を3人紹介してくれた人物です。その3人も来なくなった」

「ヴェルナーさんですか……」

「メルテン商会から仕事を回してもらっている人間です。灰猫に関わるなと言われれば、従わざるを得ないでしょう」


「なるほど、それは妥当な反応ですね」

「もう一つ。ヴェルナーの店に入っていた穀物の卸契約が、先週打ち切られました。メルテンの関連業者からの取引停止です。ヴェルナー個人が灰猫に来なくなっただけではない。彼の商売そのものが圧力を受けている」


 取引先を通じた間接圧力。

 客を直接脅すのではなく、客の商売を握ることで足を止める。

 穏やかな手口だった。


「二つ目は?」

「噂です」


 エルマの声が少し硬くなった。


「『灰猫商会は元犯罪組織が母体だ』という話が、ここ数日で急に広まっています」

「……事実ではありますね」


 レイは紅茶のカップを持ち上げた。


「事実であることと、この時期に広まることは別の問題です」


 エルマが言った。


「この噂、出所を辿りました。港の酒場です。メルテン商会の人間が出入りする酒場から広がっています。結果、新規までもがその足を遠のかせています」


 偶然ではない。

 一週間前に置いていった名刺の裏で、すでに動いていた。


「偵察、大穴、挨拶、そして圧力。ここまではお手本のように順番通りですね」


 さて次は何が来るか。

 順番が読めているうちは、まだ手がある。


「……対策はいかがしましょうか?」

「短期的には、既存の常連をこれ以上手放さないことです。新規は一時的に諦めます。控除率を下げてオッズを魅力的にし、残った客の回転率を上げる」


 エルマは頷きつつも、一つ確認を入れた。


「帳簿上は赤字が増えますが」

「赤字は予定通りです。黒字が安定するのは、この嵐を越えてからになるでしょうね」


 紅茶をひと口飲んだ。

 やはり苦い。


 エルマが帳簿を閉じかけて、手を止めた。


「あと一つ、気になることが」

「何ですか」

「仕入れ伝票を整理していて見つけたんですが、ヴェルナー経由の卸元の一つに、端数処理が他と違う伝票が混じっています。他の卸元は下一桁を四捨五入していますが、この一件だけ下一桁を切り捨てています」


 エルマが帳簿の該当頁を開いた。

 指先が数字の末尾を示す。


 レイは帳簿を受け取り、該当の数字を見た。


 一瞥ではなかった。

 三秒、見た。


 下一桁の切り捨て。

 メルテンの伝票体系とは合わない。


 メルテンの経理は几帳面だ。

 これまで見た伝票はすべて下一桁の四捨五入で統一されている。


 一件だけ違うのは、雑さではない。

 別の手が混じっている。


 だが一件では線にならない。

 点が二つ揃わなければ、方向は読めない。


「……メルテンの流れとは別かもしれません。印だけつけておいてください」


 レイは帳簿をエルマに返した。

 点が一つしかないものに時間を割く余裕はない。

 ただ無視することはできない。


 エルマは黙って該当頁の角を折り、帳簿を閉じた。


 その朝、店の表に出た時だった。

 仕入れの確認ではない。

 風を読むためでもない。

 ただ壁の中にいると息が詰まった。


 通りの向こうに、見覚えのある背中があった。

 ヴェルナーだった。

 港の仲買商。

 灰猫の太口客を三人紹介してくれた男。


 ヴェルナーの足が一瞬だけ止まった。

 灰猫の看板が見える位置だった。


 だが止まらなかった。

 視線を地面に落とし足を速めた。


 路地を曲がる直前、ヴェルナーの肩が小さく縮んだ。

 あの肩を、レイは知っていた。


 オッズの紙を受け取る時、「今日も当たったぞ」と笑いながら差し出してきた、あの広い肩だった。


 帳簿の上では「離脱客」の一語で済む。

 だが帳簿には、あの肩の縮み方は載らない。


 その日の午後、レイは学院にいた。

 昼休みの廊下を歩いている時、背後から声がかかる。


「レイさん」

 振り返ると、マリエルが小走りで追いかけてきた。


「あのね、ちょっと気になることがあって」

「はい」

「最近、学院で変な噂が立ってるの。レイさんが下町の賭け屋に出入りしてるって」


 レイは足を止めなかった。

 歩調を緩めて、マリエルの横に並んだ。


「どこでその噂を?」

「商学科のほうで言ってる子がいるみたいで。『灰猫商会って元犯罪組織らしい』って話と一緒に」


 その言葉とともに、マリエルは心配そうにレイの瞳を覗き込む。


「レイさんはそういうところに行く人じゃないって、私もジュリアスも分かってるけど……でも気をつけてね」

「ありがとうございます。気をつけますね」


 マリエルが安心したように笑って、教室に向かう。

 それを見送って、レイは廊下の窓から中庭を見下ろした。


 灰猫の噂が学院の中に入り、壁はまた一つ薄くなった。

 そして午後の講義が終わった渡り廊下で、それは起きた。


「ラマリン」


 背筋の通った声。

 振り返らなくても分かった。


 ナディアが、正面に立っていた。


 教本は持っていない。

 鞄を肩にかけたまま、まっすぐにレイを見ている。

 すれ違いざまに声をかけたのではない、待っていたのだ。


「少し聞きたいことがあります」

 レイは立ち止まった。


「はい」

「あなた、下町の賭け屋に行ってるって本当ですか」


 直球だった。


「そうですね、面白い数字を出す店ですよ」


 嘘ではない。

 だが全てでもない。


「面白い数字……」


 ナディアの声が低くなった。


「あの店が元犯罪組織だって話は知っていますか」

「噂は聞きました」

「噂じゃありません、事実です。調べました」


 ナディアの目がレイを射抜いた。


「自治管理局条例の商業登記規程に照らして確認しました。灰の手。かつて下町で活動していた組織の残党が、看板を変えて賭け屋をやっている。あなたはそれを知っていて、通っているんですか」


 条文を調べてきている。

 感情だけで来たのではない。

 レイは一拍だけ間を置いた。

 口を開きかけた。


 だがナディアの方が先だった。


「登記簿の代表者名は確認しました。住所も照合しました。ただし——」

 ナディアはそこで一瞬、言葉を止めた。


「事業目的の欄までは、精読していませんでした」


 レイの口が閉じた。

 自分から指摘するつもりだった穴を、ナディアが自分で塞いだ。

 穴があると分かっていて、それでも来た。


「……賭博施設ではなく情報分析業です。登記簿の事業目的にそう書いてあります。合法か違法かは、読んだものが判断します」


 レイの声は静かだった。

 指摘ではなく、確認だった。


「……同じ奨学生として、恥ずかしい」


 ナディアの声が震えた。

 怒りだけではなかった。

 もっと深い、もっと古い痛みが、その声の底にあった。


「奨学金をもらって学んでいる人間が、賭博に関わるなんて。私たちがどれだけの思いでこの学院に来ているか、分かっていますか」


 ナディアの目は揺れなかった。

 怒りの奥に、別のものがある。


「あなたが無能だから腹が立つんじゃない。あの講義で、あなたの答えを聞いた。制度の構造を読める人間が、制度の中に立とうとしないから腹が立つんです」


 渡り廊下に、他の学生はいなかった。

 ナディアはおそらく、それを確認してからここで待っていた。


 人前で恥をかかせるためではない。

 本気で問うために、二人だけの場所を選んだ。


 そしてその事実を、レイは分かっていた。


 レイの右手が一瞬だけ動いた。

 ポケットの中で拳を作り……すぐに開いた。

 帳簿の数字を握り締める癖だ。手の中に何もない時にも出る。


「……そうですね。すみません」


 それだけ答えると、ナディアの目が揺れた。


 反論を予期していたのかもしれない。

 言い訳か、開き直りか……少なくとも何かの応答を。


 だがレイは何も返さなかった。


「……それだけですか」

「はい」


 レイの声は穏やかだった。

 いつもの、感情の底が見えない声だった。


 ナディアは何かを言いかけた。

 だが言葉にならず、唇を引き結んだ。


「わかりました」


 踵を返した。

 歩調は速く、彼女は振り返らなかった。


 レイは渡り廊下に立ったまま、その背中を見送る。

 ナディアの痛みは本物だろう。


「恥ずかしい」という言葉の裏に、もっと大きな何かがある。


 読めた。

 読めたから言えなかった。


 正しい反論は三つ用意してあった。

 だがナディアの声の底にあった震えに、論理で返すのは暴力だった。


 論理で勝てる相手に論理で勝たなかった。

 それが正しかったのか、臆病だったのか。

 レイには区別がつかなかった。


 日が暮れて灰猫商会に戻ると、エルマがカウンターの上に封筒を置いていた。


「夕方、届きました」


 白い封筒。

 差出人の名前はない。

 だが封蝋に押された紋章に、レイは見覚えがあった。


 メルテン商会。


 封を切ると、中には一枚の紙。

 端正な字で、短い文章が書かれている。


『灰猫商会の皆様の社会貢献には感銘を受けております。また郊外の孤児院への匿名の寄付も、大変立派なことにて感心申し上げる次第。子供たちの健やかな成長を、心よりお祈り申し上げます——クラウス・メルテン』


 レイの表情が変わった。

 エルマが息を呑む。彼女がこの表情を見るのは初めてだった。


 だが次の呼吸で、レイの顔から温度が消えた。


 紅茶のカップは、テーブルの上で冷めていた。

 レイはそのことには触れなかった。


「朝凪の家のことを、知っている」


 その声には、感情がなかった。

 残酷なほど正確に、事実だけを読み上げる声だった。


 メルヴィス郊外の孤児院。

 灰猫商会の利益の一部は、匿名でここに送り続けられている。

 クラウスの手紙は、穏やかな文面で一つのことを告げていた。


 要するに彼は告げている。

 これがお前の弱点だと。


 レイは手紙を裏返した。

 指先がほんの一瞬、震えたかもしれない。

 だが次の呼吸で消えた。


 朝凪の家の場所を知っている人間が、この街にいる。

 そして商人の圧力では灰猫が折れないと分かれば、次の手段は、帳簿の外から来る。

 その時、殴られるのは灰猫ではないかもしれない。


 長く引けば引くほど、あの子供たちの場所が盤面に載る。

 ならば、こちらから決着の場所を作るしかない。


「……エルマさん」

 レイの声は静かだったが、紅茶の温度はもう戻らなかった。


「明日から、朝凪の家の周囲にも目を配ってください。ミラ、外回りの範囲をそこまで広げてもらえますか」

 ミラは一切の迷いなく頷く。


「旦那、やはりあの手紙は脅迫ですね」

「ええ。だが証拠としては何の意味もない文面です。孤児院への寄付を褒めているだけ。善意の手紙として成立する」


 穏やかな包み紙。

 にもかかわらず中身は言葉の形をした刃物。


「……あの男は、やはり穏やかなのは表だけでした」

「いいえ」


 レイは手紙をテーブルの上に伏せた。


「あの男は本当に穏やかなんです。穏やかなまま、人の急所に指を置ける……それが一番厄介なところです」


 だが引っかかりが一つあった。


 朝凪の家への匿名寄付。

 あの情報を、クラウスが独力で掴めるか。


 メルテン商会メルヴィス支店の支店長は、商人としては優秀だ。

 だが灰猫の寄付先まで辿るには、商人の情報網だけでは足りない。


 帳簿の外にある情報を、帳簿の外から渡す人間が、クラウスの後ろにいる。


 レイは目を閉じた。


 あの日、仕切りの向こうで声を出した。

 エルマを一人で矢面に立たせたくなかったからだ。

 クラウスはその声で年齢を読んだ。「お若いようですね」と言った。


 若い分析者。

 匿名の寄付。

 郊外の孤児院。


 声を聞いた後ならば、その線を引くのは商人には難しくない。


 エルマを守るために出した声が、朝凪の子供たちを盤面に載せた。


 計算は合っていた。

 感情で動いた判断だけが、計算の外の結果を引き寄せた。


 灰猫商会の夜は静かだった。

 紅茶は冷めたまま。

 ついぞレイはそれを飲まなかった。


***


 女子寮の一室で、ナディアは机に向かっていた。


 ノートが開いてある。

 だがそれは講義のノートではなかった。


 灰猫商会。

 母体の灰の手は解体されたかつての犯罪組織。


 経営者は女性。名前不明。

 メルヴィス自治管理局登記済みであり合法。

 主な顧客……港の商人。


 ナディアはペンを止めた。


 反論されると思っていた。

 だが返ってきたのは「すみません」だけだった。


 ペンを取り直すと、ノートの次の行に一行だけ書いた。


 ラマリンとの関係……要調査。


 その下に、もう一行。


 自治管理局条例・第14条。

 確認済み。

 適用可能性……未検討。


 翌朝、レイが学院に顔を出すと、ヘルマン教授が廊下で待っていた。

 いつもの小言ではなかった。

 教授の手に、封書が一通ある。


「ラマリン、これは校長室からだ。出席率に関する最終通告……私が止められる段階は過ぎた」


 封書を受け取った。

 差出人は校長リゼット・グランメール。


「出席率が改善されない場合、奨学金の停止を検討する」。


 丁寧な文面だが、中身は刃物だった。

 奨学金が止まれば学院にいられない。

 学院にいられなければ、灰猫の壁も守れない。


 メルテンの圧力と、学院からの通告。

 二正面が同時に迫っている。


 レイは封書を外套の内側にしまい、教室に向かった。

 合同実習の告示に記された準備期間の開始日を、すでに覚えている。


 あの日付から実習最終日まで、何日あるか。

 負傷した場合の療養期間を加算すれば、何日になるか。


 旧規定の七十三条は、もはや出席率のためだけの手段ではなかった。

 奨学金を守るための、最後の合法的な手段でもあった。


次回、明日21時更新です

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