第37話「祭りのあと」
中庭のベンチに、霜は残っていなかった。
日が高くなるまでに溶けていた。
石畳の継ぎ目だけが、まだ濡れている。
レイはベンチに座って、鞄を膝の上に置いていた。
次の講義棟まで歩く時間を計算すれば、あと十二分は座っていられる。
座っていることに、理由があるわけではなかった。
歩いていない時間が必要だっただけだ。
左手は外套の袖の中に入れていた。
爪の欠けた指が、布の内側で休んでいる。
右目を閉じていた。
左目だけ開けて、中庭を眺めていた。
学生が二人、三人と通り過ぎていく。
誰もこちらを見なかった。
誰もが優勝チームの副官の顔を、もう知っている。
知っているから、見ない。
見れば値踏みしていることになる。
値踏みは廊下ではなく、別の場所でやる。
レイはそれを、姿勢を変えずに観測していた。
***
足音が来たのは、講義の鐘が鳴る三分前だった。
規則的で、迷いのない歩幅。
軍学科の人間の歩き方。
ベンチの前で止まった。
「ラマリンさん」
ナディア・クラインだった。
手元に書類を一枚、持っている。
裁定会議の後、合同実習場で自分が書いた観測記録の控えだった。
「外部からの攻撃を予測していたのに、なぜ事前に運営に申し出なかったのですか」
声は低かった。
低くて、真っ直ぐだった。
中庭の人通りが薄まる時間を選んでいた。
声量は二人の間にだけ落ちる調整がされていた。
怒りではなかった。
怒りの一歩手前にある、問いだった。
レイは膝の鞄に視線を落とした。
落としてから、上げた。
「……証拠がなかったからです」
声を作った。
穏やかに作らないと、息継ぎで肋骨が鳴る。
「仮説の段階で伝えれば、混乱を招くだけでした。金の流れと来賓席の動きから推測はしていましたが、攻撃の規模も手段も特定できていなかった。不確かな情報を流せば、対応を誤る余地が生まれます」
正しい説明だった。
正しくて、足りなかった。
ナディアもそれが分かっている目をしていた。
だが追及はしなかった。
追及しないことで、足りない部分を、こちらに考えさせる目だった。
ナディアの手が、書類を持ち直した。
書類の角が指の中で揃った。
「……わかりました。でも次は教えてください」
声が変わった。
探していた言葉を、見つけた声だった。
レイはベンチに座ったまま、左目でナディアを見ていた。
「ナディアさん」
「何でしょうか?」
「あなたの準決勝は、正しい試合でした」
ナディアの体が止まった。
「正面から戦って負けたことは、恥ではありません。そして……裁定会議のために動いてくださったこと、感謝しています」
ナディアは何も言わなかった。
言わずに、ベンチの背の向こうにある中庭の植え込みを見ていた。
冬の終わりの、葉の落ちかけた木。
春が来れば、また葉が出る木。
「……あの観測記録」
ナディアが、手元の書類を持ち上げた。
「誰にも頼まれませんでした」
「知っています」
「でも、書きました」
「知っています」
ナディアの目が、ようやく書類から上がった。
レイを見た。
ベンチに座ったレイを。
「あなたは、書くと、思っていたんですね」
レイは答えなかった。
答えるべき問いではなかった。
ナディアも、答えを待たなかった。
書類を畳んだ。
鞄に入れた。
踵を返した。
三歩、歩いた。
四歩目で、足が止まった。
振り返らなかった。
その背中にレイは言葉を掛けた。
「改めて……ありがとうございます」
「……どういたしまして」
それだけ言って、歩いていった。
歩幅が均等だった。
均等であることが、ナディアの返答だった。
レイは中庭に残された。
残されてから、ようやく息を吐いた。
吐いた息が、肋骨の上を通り過ぎた。
軋まなかった。
軋まなかったことに、自分でも驚いた。
息を吸うのが、少しだけ楽になっていた。
***
講義棟の廊下に入ったところで、リーゼに会った。
すれ違いざまだった。
リーゼが手にしていたのは、合同実習中に使った手順書の写しだった。
「お返しします」
差し出された紙を、レイは右手で受け取った。
紙は薄かった。
試合中、リーゼの胸ポケットの中で何度も折り直された折り目が、紙に残っていた。
「そのまま持っておられても構いませんけど」
「……覚えていますから」
リーゼが言った。
手順書の内容を、と続けなかった。
続けなくても、伝わった。
だからレイは掛けるべき言葉を、彼女へと向けた。
「助かりました」
「はい!」
リーゼは歩いていった。
手順書を受け取った手を軽く握り直し、それから外套の脇に下ろした。
レイは廊下に残された。
手の中に薄い紙の感触だけが残っていた。
***
午後の講義の後、回廊を歩いていた。
夕日が斜めに差し込み、柱の影が長くなっていた。
回廊の向こうから、足音が来た。
規則的ではない、片方を引きずる足音。
トーマだった。
右の足を庇って歩いていた。
左腕に薄く包帯。
それ以外は、見える範囲に傷はない。
見える範囲にはだが。
歩けている。
壁に寄りかかってもいない。
顔合わせの日の、いつでも動ける位置で立っていた男の、立ち方ではなかった。
もっと内側に重心が落ちている。
地面に根を張る側の重心。
すれ違う一歩手前で、トーマは速度を変えなかった。
レイも変えなかった。
二人の歩幅が、同じ回廊の上で交差した。
言葉はなかった。
トーマの目が、レイを一度見た。
ただそれだけだった。
値踏みの目ではなかった。
確認の目だった。
立っているか、歩いているか、それだけを確認する目。
レイの目も、トーマを一度見た。
歩幅を、足の運びを、左腕の包帯の幅を。
すれ違った。
足音が遠ざかっていく。
レイは振り返らなかった。
振り返らないのが、二人の間の規則だった。
回廊の角を曲がる音が、後ろから来た。
引きずる足音が、消えた。
レイは右目を閉じた。
夕日の赤が、霞の向こうで滲んだ。
ようやく息が深く吸えた。
吸ったら、肋骨が、軋まなかった。
軋まないのは、今日二度目だった。
***
寮への帰り道、中庭の最後の一区画を抜けようとした時だった。
レイの前を、一人の女子学生が歩いていた。
亜麻色の髪。
学院の上級生の制服。
だが纏っている空気が、学生のそれではなかった。
歩幅が学生のものではない。
学生の歩幅は、講義の合間か、寮への帰路か、目的に応じて速度が変わる。
この女の歩幅は、そのどちらでもなかった。
歩きながら、周囲を確認している人間の歩幅だった。
レイは速度を変えなかった。
変えれば、相手に振り返る理由を渡す。
中庭の中ほどで、その女が足を止めた。
ベンチの脇に立って、空を見る素振りを見せた。
レイは通り過ぎた。
通り過ぎる瞬間、視界の端で、女の靴を見た。
踵の減り方が均一だった。
学生の踵ではない。
商人の踵でもない。
癖を消す訓練を受けた人間の踵だった。
すれ違ってから、女が呟いた声が、風に乗ってきた。
「Fチームの副官……あの面白い子ね」
声には聞き覚えがなかった。
だが記憶の隅に、ジュリアスがリンゴを齧りながら口にした名前があった。
姉。
カティア・ヴァルトシュタイン。
レイは振り返らなかった。
歩幅を変えずに歩き続けた。
レイはそのまま中庭を抜けた。
寮の門が見える。
門の向こうで、誰かが笑っていた。
普通の学生の笑い声だった。
その笑い声の方へ、彼はまっすぐに歩いた。




