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第34話「ナディアの条文」

 椅子に座った瞬間、肋骨が痛んだ。


 深く吸えない。

 浅い呼吸を繰り返して、息を整えた。


 渓谷の底で十人に頭を下げてから、まだ僅かな時間しか経っていない。

 煙幕の匂いが外套に染みついている。


 痛む左手で、膝の上の書類を押さえた。

 書類が震えないように。

 指先の力で。


 裁定会議室は演習場棟の三階にあった。


 この部屋に入る直前、ナディアに会った。

 彼女からは一枚の封筒を押し付けられた。

 選別というわけではなさそうだったので、軽く頭を下げて受け取り、中に目を通すとそのまま裁定委員会に提出した。


 そして足を踏み入れた部屋の中は、長机が室の中央に据えられ、両端に椅子が並んでいた。

 南側の窓から午後の陽が差し込んでいるが、空気は冷たい。

 石の壁が熱を吸っていた。


 渓谷の底と変わらぬ温度。

 だが渓谷には風があった。

 ここにはない。


 空気が澱んでいた。


 壁には学院の紋章。

 その下に来賓席から降りてきた三人が、すでに座っていた。


 一人は同盟議会の武官推薦委員。

 白髪まじりの壮年で、胸に銀の勲章。


 一人は軍務局の監察官。

 姿勢が正しく、目が動かない。


 もう一人は、紋章のない男だった。

 平服。

 名前のない椅子に、名前のない男が座っている。


 手が綺麗だった。

 帳簿に載らない種類の人間だ。


 三人の前に書類の束が置かれている。

 指二本分の厚み。

 紙の端が揃っている。


 急いで用意した書類ではない。

 決勝が始まる前から綴じてあった紙だ。


 レイはそれを見て、帳簿を読むように読んだ。


 Fチームが決勝に勝った場合の異議申し立てが、最初から準備されていた。

 負ければ不要な紙。

 勝った場合にだけ抜く紙。


 つまり「勝たせないための仕掛け」が失敗した時の、二枚目の仕掛けだ。


 魔法で止められなかった。

 だから条文で止める。


 帳簿の中身を一層剥がしたら、もう一冊の帳簿がある。

 灰猫のやり方と同じだ。


 背筋を伸ばした。

 伸ばすと肋骨が軋んだ。


 軋みを呑み込んで、商会の帳簿の前に座る時の姿勢を作った。

 外套は煤けている。

 右目は霞んでいる。


 だが姿勢だけは、一ディナールの狂いもなく。


 エルマの声が頭の中に響いた。

 帳簿の第一頁に通し番号を振れ。

 番号のない行は存在しない行だ。


 開業初日に教わった帳簿番の作法を、今から裁定の場で使う。


 裁定委員長の席に、エレオノーラ・リヒトフェルデンが座った。

 顔が白い。

 だが書類を開く指に震えはなかった。


 書記官がペンを持った。

 ペンの先が紙に触れた。


 記録が始まる。

 裁定という名の歴史が、今から刻まれる。


 その直前だった。


 レイが立ち上がった。

 肋骨が痛んだ。

 痛みを呑み込んで、声を出した。


「開始の前に一点、手続きをお願いできますでしょうか」


 室内の視線が集まった。

 来賓側の三人の目が動いた。

 エレオノーラの指が書類の上で止まった。


「本日提出されている全ての資料に、通し番号を振ることを提案させて頂きます」


 鞄から一枚の紙を出した。

 紙には、すでに番号が振られていた。


 レイの提出書類の一覧表だった。

 資料番号001から012まで。


 煙幕筒の登録書類、地形図の使用許可確認書、物品登録規定の抜粋。

 全てに番号がついている。


「以降の審議において異議を述べる際は、この通し番号に紐づけてお願いします。口頭の主張ではなく、どの資料のどの条文に基づく異議であるかを明示していただきたい」


 沈黙が落ちた。

 紙という武器の重さが、室内を圧したのかもしれない。


 紋章のない男の目が細くなった。

 武官推薦委員の手が膝の上で止まった。


 レイが求めたのは、単純な手続きだった。

 だがその手続きは、議論の土俵を整地する一手だった。


 番号を振るということは、全ての主張に根拠の紐づけを要求するということだ。

 口先だけの異議は番号を持たない。


 番号を持たない言葉は、記録に残らない。

 魔法のようにこの場から消える。


 紙で殴る。

 灰猫のやり方だった。


 エレオノーラが二秒の間を置いた。

 それから頷いた。

 判断が早かった。


「Fチーム副官から手続き的提案がありました。来賓側にも、審議に先立つ手続き的提案があれば受け付けます」


 沈黙が二秒あった。

 紋章のない男の指が机の上で一度だけ動いた。


 動いて、止まった。


 提案はなかった。

 机の表面に爪の跡を残すだけで。


「では、Fチーム副官の提案を採用します。全提出資料に通し番号を付与し、異議の際は番号を明示すること」


 書記官が頷いた。

 来賓側の書類の束に、通し番号が順に振られていく。

 001から順に。


 ページをめくるたびに番号が増える。

 紋章のない男の前に置かれた書類にも、番号がついた。


 紋章のない男の顔色は変わらなかった。

 変わらないことが、計算していることを示していた。


 口先の異議に番号は振れない。

 つまり彼が用意してきた三つの異議のうち、条文の根拠が薄いものは使えなくなった。


 レイは座り直した。

 肋骨が痛んだが、座り直す動きは滑らかだった。


 既に最後の戦いは始まっていた。

 剣ではなく、紙と番号を通して。


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