第6話「商人の勘」
いつもの客ではなかった。
ガルドが身じろぎした気配。
仕切りの向こうで、エルマの声が一瞬止まった。
止まったのは0.5秒。
灰猫商会を開いて以来、初めてのことだった。
「こんにちは。灰猫商会さんですね」
穏やかな声だった。
低く、柔らかく、よく通る。
まさに何千回と人に挨拶してきた商人の声だ。
「はい、いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょう」
「いえ、賭けに来たわけではないんです。少しお話がしたくて……責任者の方はいらっしゃいますか」
エルマが一瞬だけ間を置いた。
「私がこの店の経営者です」
「失礼しました。メルテン商会メルヴィス支店の責任者をしております、クラウス・メルテンと申します」
レイの手が止まった。
来た。
偵察から三日目。
予想より一日早い。
「旦那」
ミラが窓際から声を落とした。
振り返ると、ミラの手が外套の内側に伸びている。
短刀の柄に触れようとしている。
「……まだです」
レイは静かに首を振った。
仕切りの隙間から、表を覗く。
クラウス・メルテン。
上質だが派手ではない外套。
白髪混じりの短い髪。
目じりの皺が、穏やかな笑顔を自然に見せている。
商人だ。
それも上等な。
「素晴らしいお店ですね。壁のオッズ表、拝見しましたが……これは相当な分析力がなければ作れない。船便、天候、三国合議の議決まで。網羅的で、しかも精度が高い」
「ありがとうございます」
エルマの声は平坦だった。
営業用の笑顔を浮かべているのだろう。
だが声の温度が、いつもの営業用よりさらに一段低い。
「単刀直入に申しましょう」
クラウスが微笑んだ。
「灰猫商会さんの分析力に、メルテン商会は大変興味を持っています。提携のご提案をさせていただきたく参りました」
「提携、ですか」
「ええ。具体的には、灰猫商会さんのオッズ分析をメルテン商会が独占的に利用させていただく代わりに、運営資金と販路を提供する。売上は折半でいかがでしょう」
売上折半……聞こえはいい。
だがメルテン商会が「販路を提供する」とは、灰猫の客をメルテンの管理下に置くということだ。
黙っていればいい。
エルマが断れば済む。
だがエルマ一人に断らせるということは、エルマ一人に圧力を受けさせるということだ。
帳簿のどこにも載らない種類の計算だった。
結果、エルマが答える前に、レイは仕切りの向こうに声を通した。
「お話はありがたいのですが、現時点ではお受けいたしかねます」
クラウスの目が、仕切りの方を向いた。
笑顔は崩れない。
「……奥にもどなたかいらっしゃるんですね。分析担当の方ですか」
「はい。少々変わり者ですが」
エルマが返した。
先日と同じ台詞だったが、今度は防壁として機能していた。
「お断りの理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「当店は小規模ですが、それで十分に機能しております」
レイは仕切り越しに答えた。
顔は決して見せるつもりはない。
「大きくなることが必ずしも良いとは限りません。精度は規模に反比例することもあります」
「なるほど、精度を重視されるわけですか。職人気質でいらっしゃる」
クラウスは本当に感心したように頷いた。
その感心のされ方が、レイには一番怖かった。
「分かりました。今日のところは失礼します」
クラウスが扉に手をかけた。
そして、振り返った。
「ところで……」
穏やかな笑顔のまま、だがその視線が仕切りの隙間の向こうへ向いた。
数字の入っていない白い紙片を、一瞬だけ捉えたように見えた。
「お声を聞く限り、分析担当の方はずいぶんお若いようですね」
レイは答えなかった。
答えないことが、答えになっていると分かっていた。
「若くして、これだけの精度と情報網をお持ちとは、実に将来が楽しみです」
一拍の間。
「もし気が変わられましたら、いつでもご連絡ください。メルテン商会は、有能な方との関係を大切にしておりますので」
名刺を一枚、カウンターの上に置いた。
上質な紙にメルテン商会の紋章が浮き彫りにされている。
「それでは。良い夕べを」
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
5秒。
10秒。
完全に気配が消えてから、入口の脇でガルドが立ち上がった。
カウンターの脚を確かめていた。
先週直した脚。
少し太くなったそれを、手のひらで一度だけ撫でた。
エルマが口を開いた。
「旦那」
声が低い。
それだけで彼女の言いたいことがわかる。
「あの男、穏やかなのは今回限りです」
レイは仕切りから出て、カウンターの上の名刺を手に取った。
紙の手触りが良い。
金もかけている。
名刺一枚で相手に「格」を見せる。
「……分かっています」
「断られた商人が次にすることは、条件を上げるか、圧力をかけるかの二択です。あの笑顔は条件を上げるつもりがない人間の笑顔でした」
「よく見ていましたね」
「帳簿番は数字だけでなく、数字を持ってくる人間も見ますので」
レイは名刺をテーブルの上に置いた。
「それと、もう一つ」
エルマの声が、さらに一段下がった。
「先日の4000ディナールの客。あの後、調べました……同じ日にメルテンの人間と接触しています」
「……繋がりがあると?」
「断言はできません。ただあの男の手が綺麗だったことと、今日のクラウス・メルテンの手が同じくらい綺麗だったことは、申し上げておきます」
商人の手ではない手。
メルテン商会は「商人」だが、その手足として動く人間は商人とは限らない。
「偵察、大穴、そして挨拶……順番通りですね」
レイは紅茶を淹れ直した。
まだ温かい。
だがこの温かさが続く保証はどこにもなかった。
「しかし声を出したのは失策でした。仕切りの向こうにいても、声を通した時点で情報を一つ渡した」
エルマが顔を上げた。
「旦那がそれを分かっていて声を出したのなら、理由があるはずです」
「……断る言葉だけは、自分の口で言いたかったので」
敬語が上がらなかった。
だからエルマは何も言わなかった。
ただ帳簿の間から、薄い一冊を引き出した。
「餌を求めているネズミのために、この通り用意しました」
「……仕事が早い」
「帳簿番ですので」
「ではミラ、明日の巡回は郊外まで広げてもらえますか」
ミラが頷いた。
何を守るかは言わなかった。言う必要がなかった。
罠は張った。
偽の帳簿も用意した。
だが獲物がいつ踏むかは、まだ数字に出ていない。
次回は本日21時更新です




