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第5話「忘れられた条項」

 昼を過ぎた頃、少し客層が変わった。


「すみませーん、学院の合同実習のオッズってもう出てます?」


 若い声だった。

 仕切りの隙間から覗くと、学院の制服が見えた。


 レイの手が止まった。

 今度は大穴客の時とは、違う理由で。


「合同実習のオッズは現在作成中です。公開まではもう少々お待ちください」

「楽しみにしてまーす。最近、ここで大きく当てて凄く儲かった先輩がいたみたいで、学院でも結構話題なんですよ」

「ありがとうございます。公開の際はまた店頭に掲示いたしますので」


 学生が出ていくと、レイは仕切りの隙間から顔を引いた。


 学院でも話題になっている。

 ジュリアスはもう知っている。

 ナディアの耳にも、いずれ届くだろう。


 だがそれよりも……


 合同実習。

 四学科の学生が混成チームを組み、三日間の野外演習を行う学院最大の行事。


 レイは白紙のノートを一枚引き抜いた。


 合同実習のオッズ。

 作るなら、正確に作りたい。


 各チームの構成員、学科ごとの傾向、指揮官の性格と過去の成績。


 必要なデータは多い。

 だがそのためには、学院に行かなければならない。


「……出席率が上がりますね」

 誰に言うでもなく呟いた。


 ヘルマン教授が聞いたら何と言うだろう。

 冷めかけた紅茶を飲み干した。


 日が暮れた。


 灰猫商会の閉店作業。

 ガルドが表の戸締まりをし、レイが壁のオッズ表を確認し、エルマが帳簿を閉じる。


 今日の紅茶は、三杯目がまだ温かい。

 悪くない一日だった。


 そう結論づけかけた時、エルマが言った。


「旦那」


 声の色が違った。

 帳簿番の声ではなく、裏社会で10年を生きた女の声だった。


「メルテン商会の人間が、今日二回うちの前を通りました」


 レイの手が止まった。


「一回目は午前、二回目は午後。入店はせず、店の前を通り過ぎただけです。二回とも、同じ男でした」


 レイは紅茶のカップを置いた。


「……偵察ですね」

「金の匂いを嗅ぎつけるのが早い商人は、偵察を出すのも早いものです」


 メルテン商会は灰猫を見つけた。

 そして今、その規模を確かめようとしている。


「明日以降も続くようなら、ミラに外を見てもらいましょう」


 ミラは窓際にいた。

 いつからそこにいたのか分からないが、彼女は確実に小さく頷いた。


「旦那、偵察の次は何が来ると思いますか」

「まずは挨拶でしょう。穏やかな顔で、穏やかな言葉で、穏やかに提案してくる」

「提案の中身は?」

「買収か、提携か……あるいは立ち退きか。どれにせよ、穏やかな包み紙の中身は同じです」


 ヴァルトシュタイン公国有数の大商会が、下町の路地裏の小さな賭け屋に挨拶に来る。

 それは決して友好の証ではない。飲み込む前のただの味見だ。


「エルマさん。明日から帳簿をもう一冊用意してください」

「何のためですか」

「見ていただくためのものです。先方に当店の規模を理解していただく必要があるかもしれませんので」


 エルマの目が細くなった。


「……旦那は時々、本当に嫌な発想をしますね」

「褒め言葉として受け取っておきます」

「褒めていません」


 レイは壁の紙片に目を戻した。

 否決1.1倍。可決7.1倍。


 今朝書き換えたばかりの数字。

 そこに4000ディナールを張った男の顔を、レイはまだ見ていない。


「……エルマさん。今日の四人目の客は、ご覧になりましたか」

「4000ディナールの方ですね。中肉中背、30代後半、商人風の身なりでした」

「それ以外には」

「手が綺麗すぎました。少なくとも荷を運ぶ商人の手ではなかったですね」


 封筒。

 決めてから来た金額。

 そして商人でない手。


 偵察が二回。

 大穴に大金。

 商人でない手をした商人風の男。


 紅茶のカップを持ち上げると、もう冷めていた。


 チンピラの次は商人。

 今度は短剣ではなく、笑顔が飛んでくる。


 翌日の昼前、学院へ向かった。

 渡り廊下を抜ける途中、本館の掲示板に新しい告知が貼り出されていた。

 その隣の掲示板に、商学科の学術発表の一覧が並んでいる。

 目が止まった。


「商学科二年 カティア・ヴァルトシュタイン——『港湾局公開記録に見るメルヴィス通商の実態』」


 レイは題目をもう一度読んだ。

 読んだだけだった。


 足を止めた時間は二秒。

 だが二秒分の記憶は残った。


『合同実習参加者募集——全学科対象。軍学科は原則全員参加。他学科は希望者参加制。チーム編成は運営委員会が決定』


 合同実習のオッズはすでに壁に貼り始めていた。

 だが外から作った数字には限界がある。

 中に入らなければ見えない数字がある。


 エルヴィンの言葉が甦った。

 制度の変遷を読むのは基本だ、と。

 あの独り言は、独り言ではなかったのかもしれない。


 掲示板を離れ、事務棟の閲覧窓口へ回った。

 学院規定集。

 現行版ではない。

 改訂前の旧版を請求した。


 窓口の事務員は怪訝な顔をしたが、閲覧制限のかかった文書ではない。

 埃を被った革表紙が差し出された。


 旧版と現行版を並べた。

 改訂箇所に指を滑らせていくと、大半は文言の整理や安全基準の更新だった。

 だが七十三条で、指が止まった。

 改訂時に削除されなかった一項がある。


『合同実習に参加した者については、運営委員会が告示した準備期間の初日から実習最終日までの全日程、ならびに実習に起因する負傷その他やむを得ない事由の存する期間の全日程を、通常講義に出席したものとみなす』


 負傷者救済のための条項だった。

 安全管理が不十分だった時代、合同実習の準備段階から本番にかけて負傷する学生が多く、長期にわたり講義を欠席せざるを得ない事例が絶えなかった。


 彼らが出席不足で留年することを防ぐために設けられた規定。


 安全に配慮された現在の合同実習において、重傷者はほぼ出ない。

 だからこの条項を援用する者もいない。既に忘れ去られている。

 だが削除はされていない。


 レイは条文をもう一度読んだ。


 『運営委員会が告示した準備期間の初日から』


 実習の初日からではない。

 準備期間の初日から。


 掲示板に貼られた告示には、準備期間の開始日が記されている。

 あの日付は実習本番の数週間前だ。


 そして『通常講義に出席したものとみなす』。


 欠席を免除する、ではない。

 出席したものとみなす。


 準備期間から実習終了までの全日程が、そのまま出席日数に変わる。

 加えて、負傷すれば療養期間も算入される。


 書いてあるのに、誰も使っていない。

 削除されていない以上、生きている。


 革表紙を閉じ、事務員に返した。

 面倒だが、合理的だ。


 面倒で合理的なものを、レイは避けられたことがない。


次回は本日12時更新です

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